限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第31回目)『関西出将,関東出相』

2010-03-16 00:28:31 | 日記
数年前、台湾の中央研究院(Academia Sinica)に行ったとき、付属の博物館を案内してもらった。そこで私は始めて、二千数百年前の木簡(あるいは竹簡だったか?)の本物を見て感激した。

司馬遷が史記を書いたのはこういった木簡であった。50万文字ものボリュームのある史記を木簡で書いたその労力には頭が下がる。それも、湮滅を恐れ、二部作成したというから全く執念を感じる。今だと、50万文字、つまり1メガバイトのデータは、USBカードに入ってしまうほどであるが、木簡だと荷車数台分はあっただろうと推測される。それ故、それを運ぶ牛ですら、汗をかくという『汗牛充棟』という故事成句までできる有様だ。



さて、中央研究院の博物館でもう一つ私が感激したのは、清代の科挙の合格者を書いたリストと、トップの合格者である状元の名前が刻んである碑(あるいは紙であったかも?)を見たことである。清代の大学者である趙翼が元来はトップの状元であるはずが、情実(恩賜)によって三位(探花)に落とされてしまった。確かこの趙翼の名や日清戦争の講和会議の時の全件大使であった李鴻章の名もそのリストに見えていた。

科挙の制度は隋に始まったが、宋代に一番うまく機能したように私は思っている。というのも、宋朝の宰相には、政治家でありながら文人的素養の非常に深いひとがそれこそ綺羅星の如くいる。この資治通鑑を編纂した司馬光や、彼の親友で『後楽園』の名前の由来である、『先憂後楽』を実践した范仲淹。抜群の記憶力をもち、果敢な社会改革を試みた勇気ある王安石。その他、欧陽脩や蘇軾など、枚挙に暇がない。

当然、科挙に合格するには、子供の頃からの漢文・詩文の英才を受けることのできる裕福な家庭であることが必要だ。従って、当時も今も金力と知力はある程度比例するのは変わらない。どこに載っていたのか思い出せないが、統計的に調べた人がいて、どうやら、中国は伝統的に南の方が科挙の合格者、それも上位の合格者が多いということだ。特に清代では、風光明媚な都市、杭州で有名な浙江省がダントツトップであったらしい。それで、現在でも北京の清華大学や北京大学、あるいは上海の交通大学と並んで、浙江大学が超一流校である。

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資治通鑑(中華書局):巻49・漢紀41(P.1582)

『關西出將,關東出相』(関西、将をいだし、関東、相をいだす。)
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地域性が職業に関連するというのは、中国では古くからある現象のようだ。『関西出将,関東出相』というのは、『鶏鳴狗盗』の故事成句で有名な函谷関を境として、西側では、名将が多く出るが、東側では、宰相が出る、というのだ。

後漢書と資治通鑑では、『關西出將,關東出相』と書いてあるが、その元になった漢書では、『山東出相、山西出將』と書いてある。どちらも同じ意味である。

具体的に言うと、関西の名将には、白起、王翦、公孫賀、傅介子,李廣、李蔡,趙充國,辛武賢、辛慶忌の名が挙げられる。関東の宰相には、劉邦を助けた漢の建国の功労者である、蕭何、曹参や魏相、韋賢、孔光などがいる。

こういった例から考えると中国というのは、地方の独自性が極めて高く、中央権力の脆弱さを感じる。
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