限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第47回目)『スキタイやギリシャにもあった三本の矢の話』

2010-03-23 00:03:02 | 日記
戦国・江戸時代の武将のエピソードを集めた本に『名将言行録』というのがある。200人近い人物が登場し、映画やドラマのタネ本として有名である。その中に、毛利元就の子供のころの話が載っている。『元就、幼名少輔次郎と曰ふ。其傅、或時元就を抱き、水を済りし時、過って躓き、溺る。傅惶懼して罪を謝す。元就曰く、道を行き躓くは常なり、聊か心を労するに及ばずと。』つまり、元就の子守役が、元就をおぶったまま川に落ちてしまったが、元就は『道を歩いていて、つまづくのは当たり前だ』と言って気にかけなかった、という。普通の人なら当たり前すぎて記録に残らないような話でも、有名な大名となるとわざわざ記録に残すのだとすれば、よほど元就の子供のころにエピソードが無かったのか?と訝ってしまう。

さて、元就と言えば、臨終に際して子供達に諭した『三本の矢』の話が有名であろう。名将言行録では次のように書かれている。『また、子の数程に箭を取寄せ、是箭一本折れば最も折り易し、然れども一つに束ぬれば折り難し。汝等之を監み、一和同心すべし。必ず、乖くこと勿れと。』

この教訓、我々にとっては、なじみ深い話ではあるが、実はこれと全く同じ話が、毛利元就からさかのぼること既に1500年も前、海の向こうにあった。



このブログでも何回か名前を挙げたプルターク(Plutarch)の『おしゃべりについて』には次の話が載っている。

(カスピ海の付近の遊牧民である)スキタイの王・スキルロスには8人の息子がいた。臨終の際、息子全員を集め、槍の束を持ってくるように言った。息子達にそれを手にとり、束ねたままで折るように命じたが誰も折ることができなかった。王は自ら一本づつ引き抜きいともたやすく折って見せた。兄弟仲良く団結しろ、ということを教えたのだった。

Scilurus, who left eight sons surviving him, when he was at the point of death handed a bundle of javelins to each son in turn and bade him break it. After they had all given up, he took out the javelins one by one and easily broke them all, thereby teaching the young men that, if they stood together, they would continue strong, but that they would be weak if they fell out and quarrelled.
(Plutarch Vol. III, 174F -- Loeb. Page27 )

『三本の矢』の話は、またギリシャにもあった。

プルタークより遡ること、さらに数百年、ギリシャのイソップの寓話集に『兄弟喧嘩する、百姓の息子たち』という話が載っている。内容は同工異曲で、息子たちに薪の束を折らせる、というものである。

フレイザーが『金枝篇』で世界各国の民話を収集し、同じような風習が世界各地に見られることを検証したように、根気よく探せばまだまだこれ以外にも元就の『三本の矢』の話があるのだろう。現在のWebの検索技術はキーワード検索では、なるほど高速にかつ網羅的に検索できるが、どうもまだこのような『これと同じ趣旨の話を検索する』ということ、つまり意味検索、が出来ないでいる。そういう機能を待ち望んでいるのは私一人ではないはずだが、なかなか出来てこない。
コメント
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