限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第33回目)『兵は凶器、戰は危事』

2010-03-27 13:46:38 | 日記
臥薪嘗胆とは、よく耳にする故事である。呉王・夫差が苦労しながら、越王・勾践を破るまでが、臥薪のパート。そして、今度は逆に越王・勾践が苦労して呉王・夫差を破るまでが嘗胆のパート、と2パート構成となっている。その最終勝者の越王・勾践を助けたのが、智将・范蠡(はんれい)だ。(なお、勾践は本来は、句踐と書かれることも多いが、日本では勾践が慣用的に使われているので、この字を使う。)

史記の越王句踐世家によると、勾践は呉王・夫差が戦争の準備を整えているという噂を聞き、先制攻撃をしかけようと考えた。それに対して范蠡が次のように諌めた。『不可。臣聞兵者凶器也、戦者逆徳也、争者事之末也』(およしなさい。兵器は凶器であり、戦いは徳に逆らうものであり、争いはいちばん下らないことだというではないか。)

後世の我々にとって都合がよかったのは、ここで勾践が『そうか、それでは我慢しよう』としなかったことだ。范蠡の忠告に逆らって、夫差に戦いをしかけ、敗北したために、臥薪嘗胆という故事がようやく成立したのであった。

さて、ここで、兵者凶器(兵は凶器)という言い方が初めて出来たのだが、戦国時代の戦略家・孫子にこういった言葉が見あたらないのは、ちょっと不思議な気がする。と言うのは、孫子は、戦争をせずに相手を従えるのをベストとした。その意図は次の有名な句からも読み取れる。『不戦而屈人之兵、善之善者也。故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵』(戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり、ゆえに上兵は謀をうつ、その次は交をうつ、その次は兵をうつ。)



さて、勾践から暫く(300年ほど)して漢に晁錯(ちょうそ)という策略家がでた。景帝がまだ太子の時から策略や智恵を絶えず繰り出したので智嚢(ちのう)というあだ名がつけられた。

匈奴がたびたび進入し、民が困りはてたので、帝が軍隊を出して匈奴を討とうと考えた。それに対して、晁錯が反対意見書を提出した。その中で『兵、凶器、戦、危事也』(兵は凶器、戦は危事なり)と述べたのだった。

また、それから暫く(260年)して、後漢の法雄がこの言い回しを引き合いに出して、無益な戦いを諌めた。

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資治通鑑(中華書局):巻49・漢紀41(P.1585)

王宗が刺史や太守を召集して、会議した。皆一様に、出撃して賊を討つべきだといった。法雄がそれに反対していった。「いや、それは間違っている。兵は凶器であり、戰いは危事である。勇は当てにならないし、勝つとは限っていない。。。」

王宗召刺史太守共議,皆以爲當遂撃之法雄曰:「不然。兵凶器,戰危事,勇不可恃,勝不可必。。。」

王宗、刺史・太守を召し、共に議す,皆おもえらく、まさにこれを遂撃すべしと。法雄、曰く:「然らず。兵は凶器,戦は危事,勇は恃むべからず,勝は、必(ひつ)とすべからず。。。」
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振り返ってみると、『兵凶器、戦危事』の句は、延々と600年の長きにも渡り、磨きこまれ、使いこまれてきたのであった。中国の史書を読むと、彼らが過去の事蹟を、それも言葉遣いまで、きっちりと覚えていて、それを引き合いに出して、しばしば過剰なほどまでに現状に適用しようとする姿勢に出会う。そういった彼ら中国人の態度がよい/悪いとか評価するのではなく、そういった思考回路を持っているのが中国人である、という認識を日本人がしっかりと持っておくべきである、と私は考える。
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