『二重言語国家・日本』(NHKブックス) 石川 九楊 (著)の本を読み、感じた点について述べる。
1.「日本は中国の漢字植民地である。」という点はいうとおりであるが、一方西洋を見てみると、そういった状況はいたるところにある。英語はその典型である、英語ではギリシャラテンの単語は日本の漢語に相当する分量ある。本文ではknife を例にとっていたたとえば gynecology, ophthalmology などの単語も彼ら(イギリス、アメリカ人)は science regarding women, science regarding eyes と頭で置き換えて理解しているはず。それは、日本人が「こうえん」をそれぞれ漢語に置き換えて理解している2重言語構造と対をなしていると言えよう。ちなみに、これらの2単語はもともとギリシャ語では、 gyne(woman), ophthalmos(eye) という子供でも知っている本当にありふれた単語であるのだ!
2.現代日本語における漢字使用の制限撤廃論には賛成。今、差別語として批判されている、おし、つんぼ、などは駄目で「ろうあ者」はOKなどというのはまるで荘子にでてくる朝三暮四の説話そのものの子共だましだ。「ろうあ」とは聾唖であり、その訓が単に、おし、つんぼである。言葉そのものではなく、それにまつわる差別意識そのものが非難されるべきなのだ。『坊主にくけりゃ袈裟まで憎い』、が極端になったようなものだ。言葉そのものには、差別語などという色合いはついていないが、使う人の使われた状況が差別意識を生むものの方が問題だ。
3.漢字の数が漢代では約一万で清では三万以上ということだが、数だけで比較してはいけない。というのは、漢代では皆辞書なしで暗記していた単語数であるのに対して、後代では単に、特殊な文書にでてきた、一過性の単語であるからだ。私は、史記を原文(標点本)で読んだ経験から、屈原や司馬相如の伝記にでてくるいわゆる賦に本当に数多くの知らない漢字が出てきて呆然としたことが今だに非常に強く印象に残っている。その後いろいろ読んでいて、文選の巻頭あたりに固まっている賦は軒並み、難しい漢字のオンパレードであるのには、あきれ返ってしまう。公的な辞書のない時代にかくの如くニュアンスの差異をわきまえつつ一万語を自由自在に駆使した人たちには敬服する。
4.本文中で幾度か述べられている、こうえん、のような同音意義語についてだが、日本語は中国語から取り入れるときに四声を脱落したために特に同音意義語が多くなったのだろうと考えられる。これは我々の先祖の耳には四声の違いが認識できなかったからであろう。これはドイツ語などでも、見られる現象である。たとえば Thema はまったく Tema と同じ発音で、彼ら(ドイツ人)はあたまの中で h を補ってつづっていると想像される。しかし本来ギリシャ語では [θ] と [τ]は異なった音を表しているはずだが、ドイツ人の先祖(あるいは、もっとさかのぼってローマ人)には区別し難い音に聞こえたのだろう。今の日本人にとっての r と l の区別がそれに該当する事で、本質的に漢字だけがもつ問題点ではなく、聴覚機構の問題として捉えられるべきものだと思える。
この本に述べられている、石川氏の意見については、個人の主張としては意義あるものの、厳密性を欠いている印象をうけた。日本だけでなく、文化水準の高低と聴覚機構の差異の問題点は西洋の辺境地でも同様であるのだ。つまり、日本語論としてのみ論ずることでない、というのが私の主張である。この意味で私は、日本、中国、仏教などの東洋思想とギリシャローマを淵源とする西洋思想に『同時に』興味を持っている。これが我々のように西洋思想も東洋思想も同様に理解することが可能な人間の強みであるのだが、残念ながら、片方だけの知識で物を言う評論家が多い。
1.「日本は中国の漢字植民地である。」という点はいうとおりであるが、一方西洋を見てみると、そういった状況はいたるところにある。英語はその典型である、英語ではギリシャラテンの単語は日本の漢語に相当する分量ある。本文ではknife を例にとっていたたとえば gynecology, ophthalmology などの単語も彼ら(イギリス、アメリカ人)は science regarding women, science regarding eyes と頭で置き換えて理解しているはず。それは、日本人が「こうえん」をそれぞれ漢語に置き換えて理解している2重言語構造と対をなしていると言えよう。ちなみに、これらの2単語はもともとギリシャ語では、 gyne(woman), ophthalmos(eye) という子供でも知っている本当にありふれた単語であるのだ!
2.現代日本語における漢字使用の制限撤廃論には賛成。今、差別語として批判されている、おし、つんぼ、などは駄目で「ろうあ者」はOKなどというのはまるで荘子にでてくる朝三暮四の説話そのものの子共だましだ。「ろうあ」とは聾唖であり、その訓が単に、おし、つんぼである。言葉そのものではなく、それにまつわる差別意識そのものが非難されるべきなのだ。『坊主にくけりゃ袈裟まで憎い』、が極端になったようなものだ。言葉そのものには、差別語などという色合いはついていないが、使う人の使われた状況が差別意識を生むものの方が問題だ。
3.漢字の数が漢代では約一万で清では三万以上ということだが、数だけで比較してはいけない。というのは、漢代では皆辞書なしで暗記していた単語数であるのに対して、後代では単に、特殊な文書にでてきた、一過性の単語であるからだ。私は、史記を原文(標点本)で読んだ経験から、屈原や司馬相如の伝記にでてくるいわゆる賦に本当に数多くの知らない漢字が出てきて呆然としたことが今だに非常に強く印象に残っている。その後いろいろ読んでいて、文選の巻頭あたりに固まっている賦は軒並み、難しい漢字のオンパレードであるのには、あきれ返ってしまう。公的な辞書のない時代にかくの如くニュアンスの差異をわきまえつつ一万語を自由自在に駆使した人たちには敬服する。
4.本文中で幾度か述べられている、こうえん、のような同音意義語についてだが、日本語は中国語から取り入れるときに四声を脱落したために特に同音意義語が多くなったのだろうと考えられる。これは我々の先祖の耳には四声の違いが認識できなかったからであろう。これはドイツ語などでも、見られる現象である。たとえば Thema はまったく Tema と同じ発音で、彼ら(ドイツ人)はあたまの中で h を補ってつづっていると想像される。しかし本来ギリシャ語では [θ] と [τ]は異なった音を表しているはずだが、ドイツ人の先祖(あるいは、もっとさかのぼってローマ人)には区別し難い音に聞こえたのだろう。今の日本人にとっての r と l の区別がそれに該当する事で、本質的に漢字だけがもつ問題点ではなく、聴覚機構の問題として捉えられるべきものだと思える。
この本に述べられている、石川氏の意見については、個人の主張としては意義あるものの、厳密性を欠いている印象をうけた。日本だけでなく、文化水準の高低と聴覚機構の差異の問題点は西洋の辺境地でも同様であるのだ。つまり、日本語論としてのみ論ずることでない、というのが私の主張である。この意味で私は、日本、中国、仏教などの東洋思想とギリシャローマを淵源とする西洋思想に『同時に』興味を持っている。これが我々のように西洋思想も東洋思想も同様に理解することが可能な人間の強みであるのだが、残念ながら、片方だけの知識で物を言う評論家が多い。