限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

希羅聚銘:(第25回目)『王制を断固拒否したローマ』

2010-03-21 06:42:26 | 日記
Livy, History of Rome (Livius, Ab urbe condita)

(英訳: "Everyman's Library", Translator: Canon Roberts, 1905)

ポルセナ王は再度、ローマに使節を送り、タルクィニウス王を受け入れてはもらえまいか、と嘆願した。ローマの元老院では、この交渉に決着をつけるため、使節に返事をするのではなく、人望篤い長老を数人選び、ポルセナ王に送ってこう言わせた。

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Book2, Section 15

ローマ人は王の下で暮らすのではなく、自由の身でいたい。王に屈服するぐらいなら、いっそ敵の軍門に下る方がよほどましだ。ローマの自由が亡くなる時がローマ市そのものが滅びる時だというのが、衆議の一致する所だ。

Non in regno populum Romanum sed in libertate esse. Ita induxisse in animum, hostibus portas potius quam regibus patefacere; ea esse vota omnium ut qui libertati erit in illa urbe finis, idem urbi sit.

【英訳】The Roman people were not living under a monarchy, but were free, and they had made up their minds to open their gates even to an enemy sooner than to a king. It was the universal wish that whatever put an end to liberty in the City should put an end to the City itself.
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この返事を聞いて、ポルセナ王もローマ人の決意の固さを納得し、タルクィニウス王をローマに戻す助力を断念した。それだけでなく、ローマ人の捕虜を全員釈放し、自領に戻っていった。一方、タルクィニウス王も、万策つき仕方なく娘婿の住むトゥスクルム(Tusculum)に隠棲した。ローマにようやく平和な日々が戻ってきた。

以前にも述べたが(希羅聚銘:(第20回目)『自由を何よりも重視した共和制ローマ』)、ローマ人にとっては、王制とは、敵よりも忌み嫌うものであると同時に、自由が何にも増してありがたいものだという感情が、現在のヨーロッパ人にも脈々と受け継がれているように私は感じる。1989年のベルリンの壁崩壊以降の東ヨーロッパに起こった小国家の独立(バルト三国、スロバキア、旧ユーゴの各国、など)がそれを証拠だてるものである、と私は考える。

ところで、タルクィニウス王が隠棲したトゥスクルム(Tusculum)というのは、ローマの東南25Kmの所にあり、ローマの貴族の館が立ち並ぶ高級別荘地である。私がこの名前を始めて耳にした(正しくは目にした)のはキケロの『Tusculanarum Disputationum』(トゥクルム荘対談集)であった。それで、トゥスクルムは昔からずっとローマ領だと思っていたが、そうではないことをこの節の話で知った。当時は、わずか数十キロ離れると完全に別の国であった、ということになる。時代時代に合わせて我々の持っている観念もそれに合うように調整しなおさなければいけないのだと改めて考えされた次第である。
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