限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・25】『遊於物之外』

2010-03-13 14:18:19 | 日記
『貿首之讎』(ぼうしゅの仇)という物騒な単語がある。文字通りに訳すと『首を交換する』であるが、その意図は『あいつが死んでくれるのであれば、自分の首を差し出してもよい』というほどの憎しみを表す。これは秦の公子の樗里疾(ちょりしつ)と宰相の甘茂がお互いにとてつもなく憎しみ会う、貿首之讎の間柄であったと戦国策は伝える。

逆に、友のためなら身代わりに死んでもよい、と言うのが『刎頸の友』(ふんけいの友)という単語だ。その昔、ロッキード事件の時、元首相の田中角栄と政商の小佐野賢治との間柄は『刎頸の友』と呼ばれた。これは、どうも壮士どうしの間柄で使われる単語であり、紳士の間柄では使うのはふさわしくないのではないか、と感じる。紳士の間柄は『莫逆之友』(ばくぎゃくの友)という単語の方がふさわしい。

『莫逆之友』というのは、荘子の大宗師篇にある次の話から取られている。ある時、子桑戸、孟子反、子琴張という三人が『一緒に天に登り、霧に遊び、無極に心を遊ばせる間柄でいたいものだ』と言って、お互いの顔をみて莞爾(にこり)と微笑みあい、『莫逆於心』(心から分かり合えた)と言う。つまり、べたべたするのではなく、お互いに自由でいながら、完全に信頼しきっている親友関係を『莫逆之友』と呼ぶのだ。

この続きの部分に今回の座右の銘に連なる語句がある。

三人の親友の内、子桑戸が死んでしまったので、孔子の弟子の子貢がお悔やみにいった、という仮想の話が展開される。あれほどまで緊密にしていた親友の一人が死んでしまって、さぞかし落ち込んでいるのであろう、と思ったが、あに図らんや、二人の友は琴(ギター)をかき鳴らし、歌を歌っていたというのだ。子貢は、こいつらは全くの無礼者だ、と怒って帰り、孔子に告げ口をした。すると孔子は、感嘆したようすで、『彼らは、方之外に暮らす者であり、我々は方之内に暮らす者だ。外内は相い及ばず』と、この二人の行為を礼讚した。つまり、礼儀の枠に縛られた人間(孔子と子貢)の規律などは、礼儀の枠の外に居るものから見れば、考慮するに値しないというのだ。(ここでの孔子は当然のことながら荘子の唱える無為自然を賛美するピエロにすぎない。)



さて、その荘子から下ること千数百年、北宋の時代に蘇軾という詩人がでた。今から千年も前の人であるにも拘らず、蘇軾は中国人の間ではあい変わらず根強い人気があるという。人気の理由は、私の見るところ、中国人の文人の理想である、細かいところには拘泥しない『大人の風格』があるからであろう。また、小平同様、しぶとく過酷な政争を何度もくぐって生き抜いている。その上、温情豊かな政治家であるだけでなく、書家あるいは詩人としても超一流の人である。

世の中の大きな誤解の一つに中国の官僚は皆儒家であって、四書五経を読み、実践していたというのがある。蘇軾もトップの成績で科挙に合格したのであるから当然このような儒学の素養は身につけて、官界ではそのように振舞ってはいるものの、彼のプライベートな面での精神的支柱は確実に老荘思想であった。ついでに言うと、彼の政敵と目されている王安石も大政治家であるが、精神的支柱は仏教であった。

蘇軾のそういった考え方が良く現れているのが『超然台記』である。内容は、『田舎暮らしは大変ですねと人から言われるが自分はちっともそう思ったことはない。山水の風物を楽しみ、その土地土地になじみのある歴史に思いを馳せると、心が落ち着く』と言う。結局それは、心の持ちよう次第だ。『遊於物之外』(物の外に遊ぶ)、つまり、世間体や財産、名誉などに囚われないでいると、どこに居ても人生を楽しむことが出来る、というのが彼が確信し、実践していた所だ。
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