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三河・田内城 その1 と「設楽の山城展」見学

2021-11-10 | 歴史

愛知県北設楽郡設楽町清崎に奥三河郷土館が移設・新築され、隣接して道の駅も出来、奥三河の観光と城巡りの拠点となりました。先ごろ奥三河郷土館で「設楽の山城展」が開催され(10月31日終了)ていましたので見学に行き付近の田内城も訪れました。


奥三河郷土館 移転・新築され立派な施設となった
 詳細は【公式】愛知県設楽町の観光サイト「設楽町観光ナビ」HPで確認ができます。奥三河郷土館の移転・新築を機にということでしょうか、設楽の山城の整備が行われ案内の(新)標柱も立てられそれを紹介する展示会が行われました。


奥三河郷土館 設楽の山城展 パンフレット  ※終了しています


奥三河郷土館 設楽の山城展  会場
 真新しい会場には設楽の山城だけでなく武田信玄が開発し信長、家康も採掘を続けた津具金山の詳細な図面や資料なども展示されていました。はやりの御城印も販売されていました。


奥三河郷土館 津具城の立体模型   製作:加藤博俊さん
 会場には設楽の山城の一つである津具城の精巧な立体模型が展示されていました。会場の係員さんにお聞きしたところ、加藤博俊さんの製作とのことでした。ちなみにパンフレットや現地案内板に掲載された山城の精密な縄張図は加藤博俊さんの測量・作図とのことでした。


奥三河郷土館  設楽の山城関連のパンフレット
 今回整備され、(新)標柱が立てられた7城の縄張図付きの個別パンフレットと設楽の山城の全体像が分かるパンフレットが作られました。一連のパンフレットが会場で入手できました。 ※奥三河郷土館に常備されているようです。


田内城 奥三河郷土館から車で4分、見学用駐車場完備
 田内城は愛知県北設楽郡設楽町田内にあります。城域の東側から南側にかけては豊川に面した自然地形の切岸、北側は急峻な深い谷地形でした。西側には貝津の地名が残り、資料(1)によると谷が入り込んだ湿地帯で自然の要害になっていたようです。こうしてみると田内城は四周が天然の要害だったのですね。
 築城・城主は(1)によると、島田を拠点とする島田菅沼氏の一族の菅沼伊賀守貞盛によって天文年中(1532~1555)に築城、その後 定勝、三照と続き、三照が新城市の井道に移って廃城になったとされます。
 今回の参考資料は (1)設楽の山城「田内城」パンフレット と (2) 「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997  です。



田内城 「設楽町観光ナビ HP」より引用  ※図を回転させて北を上に調整
 田内城パンフレット(1)  及び  現地案内板にも同様の縄張図が掲載されています。
以前は本長篠から田口までの田口線が城域と豊川(寒狭川)の間を走っていたようですが今は廃線となり道路として利用されています。  (1)の縄張図の遺構名称は作図にあたって付与したものと思われ 資料(2)の縄張図では曲輪名称としてⅠ Ⅱ Ⅲ を用いていました。 ※今回は資料(1)の遺構名称でブログを書きます。


田内城 見学者用駐車場が完備されていて、ありがたい!
 見学路の入口近くに見学者用駐車場があり、表示板もありました。山城巡りでは安心して車を停められる駐車スペースを見つけるのに苦労する場合も多いのですが、田内城は有り難い配慮がなされていました。


田内城 大手口 南下から (新)標柱が立つ
 田内城も今回整備されて(新)標柱が立てられていました。(新)標柱の解説には「城の正面や南方に備える」とありましたので西側が城の正面で見学路が大手道だった可能性がありそうでした。南側に掛けては尾根の緩やかな下りとなっていて、曖昧な削平が行われていました。大手口から細い道を下ると下段の平地へ出ます。


田内城 本曲輪  南から  新設の案内板が見える 見学路は大手口➔腰曲輪➔二の曲輪➔虎口➔本曲輪と進む
 現在の道は大手口から腰曲輪を通り二の曲輪を経て虎口から本曲輪へ入るようになっていますが、防御を考えると直線的な道で本曲輪に向かいますので、往時の道ではないさそうでした。資料(2)によると二の曲輪には以前、墓地があり周囲が改変を受けているため二の曲輪と本曲輪の連絡形態ははっきりしないとされています。それでは大手道を登ってきた道はどんな経路で本曲輪に入ったのでしょうか?
 長くなりましたので、続きは 田内城 その2 で考えたいと思います。

 


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