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白瀬城 伊勢 その2 員弁川の絶壁の上に築かれた城郭 遺構の残りは良好だが主郭の位置に疑問が残る

2024-08-08 | 歴史
白瀬(しろせ)城は三重県いなべ市藤原町本郷にあります。その1では城域の西側半分を見学しましたが、その2ではj地域の東側を見学したいと思います。今回の参考資料も (1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976 (2)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008 と (3)「三重の城」福井健二著1979 などです。※白瀬城その1はこちら

白瀬城 員弁川沿いの水路を渡る橋13からの道aが城道か
 その1では中部電力の保守道bを使って城域に入りましたが、道aの方が古くからの道だった可能性がありそうでした。資料(3)によると白瀬城は東側に領地が隣接する治田氏に攻められて落城したとされます。

白瀬城 員弁川からの水路を渡る橋13がある
 水路は員弁川からの農業用水を得るための水路のようで、後世のものだと思われました。水路沿いの道あ は狭く、車での通行は✕でした。橋13からは道aがあり堀切Eへと通じていました。

白瀬城 道a沿いの城主近藤弾正吉綱墓
 後世に建てられた墓のようで、道aが城への登城路として認識されていたのではないかと思われます。

白瀬城 近藤弾正吉綱の墓標
 墓標の正面には城主だった近藤弾正吉綱墓と陰刻されていましたが、裏面には事績がビッシリと陰刻され顕彰碑のようでした。明治辛丑(辛丑は明治34年)の建立となっていました。

白瀬城 堀切E 北から 右にⅣ郭
 東方向の治田氏に備えていた城の、東側の尾根を断ち切る堀切Eは重要だったと思われ、深い堀切で道aが通る堀底道としても使われていたようでした。

瀬城 Ⅳ郭の虎口10の枡形 南東上から
 道aはⅣ郭の北辺の虎口10から枡形地形を通ってⅣ郭に入っていたように見えました。

白瀬城 堀切F 東から 
 Ⅳ郭から北に延びる小尾根を断ち切る堀切Fは高い切岸を削り出し、堀底道としても使われていた可能性もありそうでした。

白瀬城 Ⅱ郭 南から 奥に鉄塔
 Ⅱ郭は平坦な曲輪でした。鉄塔建設に伴って発掘調査現が行われましたので往時の姿ではないかもしれません。資料(1)の記述からⅡ郭が本丸だった可能性も有りそうで、そのつもりで見ると面積もあり一番厳重な守りの曲輪になっているようにも思えますがどうでしょう。

白瀬城 Ⅱ郭 南東端と堀切C 南から
 Ⅱ郭-Ⅲ郭間の堀切Cは曲りがありました。曲りは横矢の意味が有ったかもしれないと思いましたがどうでしょう。堀Cの南端部には通路地形がありましたが、後世の道かも知れません。

白瀬城 堀切D 南から
 Ⅳ郭西辺は堀切Dと土塁8でⅢ郭とは遮断されていたようです。堀切Dの南端部には土橋状の通路が在りました。これも後世の道かも知れませんね。

白瀬城 古保川に突き出した平場11 南西から 左下に小保川
 資料(1)で「北は小保谷でさえぎられている」とあり小保谷が小保川のことだとすると、侍屋敷は小保川の南側、郭群の北側にあった思われます。

白瀬城 古保川は堀の役割だった
 城域の北側を流れる小保川は、小保谷ともいわれた往時の姿をとどめているとすれば、水堀としての役割を十分に果たせそうでした。

白瀬城は主郭(本丸)の位置に疑問が残りましたが、断崖絶壁から見下ろす員弁川や水堀に見える古保川などと共に堀切・土塁などのいくつもの城郭遺構がよく残っていて楽しく見学できてよかったです。

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