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遠江・横岡城(志都呂城)& 一豊堤と大井川の旧流路の確認

2019-01-15 | 歴史
横岡城は静岡県島田市横岡字城之壇にあります。横岡城は志戸呂城とも言い大井川の旧流路の左岸の崖上に築かれています。応仁年間の築城で、明応年間に今川親氏によって勝間田城などとともに攻め落とされた(静岡の中世城館跡より)。
 城郭遺構は後世の茶畑造成で改変が著しく遺構の多くが失われている。


遺構の西側に浅く堀跡が残る
かつては主郭部を取り巻いて堀が残されていたようだが、今は一部しか見ることが出来ない。その堀も土砂で埋まって浅くなっていた。


茶畑に井戸が残る
茶畑の中に埋もれるようにして井戸が残されている。城之壇の集落から城址に行く道をお尋ねした御婦人がご親切にも現地に案内してくださって、井戸跡を教えていただいたので見ることが出来た。茶畑にすっかり埋もれて気づかなかったかもしれない。


残された堀跡
わずかに残された堀跡も竹林となり、踏み込むのをためらうような状態であった。この堀は崖の斜面に有るので茶畑にならずに残ったようで貴重な存在だ。


現地案内看板の抜粋
埋もれかけた横岡城だが現地には教育委員会が立てた案内看板がありました。その中に大正時代の調査図があり、井戸などの図の中に「現今は田 三百年前ハ大井川」の記述が有るのが気になりました。


城下から牛尾山方面を望む
「現今は田 三百年前ハ大井川」の記述に従えば崖下から見る城下の景色は「今は田」ですが古くは大井川が流れていたのですね。
 調べてみると、遠くに見える牛尾山と城下までが大井川の旧流路だったのがわかりました。


牛尾山から一豊堤を見る
天正18年に小田原合戦で勝利した豊臣秀吉の命で関東移封となった徳川家康の後に掛川に入った山内一豊、駿府に入った中村一氏が大井川の流路を付け替える工事を行い今の流路になったようです。中村一氏は牛尾山の東側を開削(下図A)して今の流路を作り、山内一豊は堤を作って旧流路を遮断(下図B)しました。
 実は中村一氏の開削工事のほうが大変だったかもしれませんが、形として残った山内一豊の名を冠した「一豊堤」が名を残したのでしょう。


流路変更の前後 国土地理院地図をカシミール3Dスーパー地形で加工・加筆
それまで横岡城、諏訪原城の直下を流れて、今の金谷、島田のあたりを乱流していた大井川が現在の流れに変わりました。
 金谷の町、島田の町が今見る形になったのは意外に新しいのだと知りました。


牛尾山から大井川の旧流路越しに横岡城、牧之原台地を見る
牧之原台地の上には諏訪原城が築かれています。今の地形だと諏訪原城の崖下には金谷の街が有りますが、往時は諏訪原城の直下を崖を削るようにして大井川が流れていたことになるようです。

 来月17日(日)には東海古城研究会の見学会で諏訪原城、小山城を訪れる予定なので大井川の旧流路を踏まえた諏訪原城の立地を確認したいと思います。


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