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三河・丹野城 文明期に築城、わずか一年あまりで廃城となった山上の城郭

2020-06-13 | 歴史

丹野城は愛知県蒲郡市相楽町にあります。付近は、さがらの森として整備され、駐車場も完備で、城址への遊歩道も整備されていました。
 丹野城は応仁・文明の乱にのとき守護細川成之の命で萩原芳信が当地に赴任し、文明元年(1469)に山下の全福寺の僧徒を動員して築城し翌年には廃城になったと伝わります。
 今回は「史跡散策 愛知の城」と「愛知県中世城館跡調査報告3」を資料として出掛けました。


丹野城 昭和6年の地形図 国坂峠から続く尾根が弱点だった。Cの道は明治期の地図には無い
 「今昔マップ on the web」で明治期の地形図を見るとCの道はまだ有りません。往時、牧野氏の本拠地と蒲郡を結ぶメイン街道は国坂峠を通るAの道だったと考えられます。丹野城から見ると国坂峠からだと尾根伝いで容易に侵入される危険性のある場所だったと思われます。
 Bの道は平坂街道として江戸期には三河湾の海岸線を通る交易の主要道でした。
※地形図を張り合わせましたのでつなぎ目が出ています。

             
丹野城 全福寺と城址間には旧道が通っていた。往時の交通量は不明だが主要道ではなさそう
 萩原芳信は全福寺の僧徒を狩り出して丹野城を築いたとされ、現地案内板によると仏具を溶かして武器を作ったとなっていました。もともとこの地を領していた牧野氏が反撃に転じた時には萩原芳信は家臣に反旗を翻され、自害したとされます。よほど歓迎されない存在だったようですね。
 相楽と牧山を結ぶ旧道が全福寺の脇を通っていたようですが、後世まで残る主要道ではなかったようです。
 ※全福寺跡には礎石が残り周辺はよく整備されていました。

       
丹野城 国坂峠方向(北西)の尾根の堀切③と腰郭①は厳重
 牧野氏が侵入してくるとすれば国坂峠方面の尾根か街道Aのある北側からと考えられます。そのためでしょうか③の堀切は深く①の腰曲輪はⅠ郭北側を多く削り込んで切岸を作り出していました。
 

丹野城 主郭は御堂山と呼ばれる。地元有志の方が建てた城址碑がある
 Ⅰ郭には土塁が有りませんでした。堀切と切岸を防御施設としていたようです。御堂山の名前の由来を想像すると、いつの時代にか山上にある程度の規模の堂宇が有ったのかもしれませんが今は見当たりません。


丹野城 Ⅰ郭西側 尾根を断切る大きな堀切③ 南から    右手にⅠ郭
 堀切中央部に土橋地形④がありました。土橋で尾根から直接Ⅰ郭に入れては堀切の効果が薄れるので、城郭の土橋ではなくて後世の山道か現代の遊歩道と見ましたが、どうでしょう。 


丹野城 Ⅰ郭北側の腰曲輪① 切岸右上にⅠ郭  西から
 Ⅰ郭の北側の法面は腰曲輪を大きく削り出して守りを固めていました。犬走りだけの南側とは対象的でした。


丹野城 Ⅰ郭南側の犬走り② 自然地形に通路をつけた程度。左上にⅠ郭  西から
 丹野城は北と西に防御の意識を集中しているためでしょうか、南側は通路状の犬走りしか見当たりませんでした。


丹野城 遊歩道を登りきったⅠ郭東側にも腰曲輪状の平坦地があり、石造物⑤が祀られている。
 御堂山遊歩道を登り切ると平坦地が有り石積の壇の宗教施設が有りました。御堂山の由来の宗教施設ではなさそうですね。平坦地は北側の帯曲輪が東側にも回り込んだものの可能性もありそうでした。 
 ※ピンボケ写真ご容赦!

牧野氏の攻撃で萩原芳信は逃げ延びる途中で家臣の裏切りにあって自害したと伝わりますので、防御性能の低い城郭だったと言えるのではないかと思いました。ヒョットすると堂宇も萩原芳信に接収されていた可能性もありますね。
 
寺領を奪われ、築城に駆り出され、堂宇も荒廃した全福寺の僧徒らが、萩原芳信を悪く言う伝承を残したのもうなずけますね。

丹野城では古い時代のコンパクトな山城を見学でき、山上からの眺望も素晴らしく、登ってきた甲斐が有りました。


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