飯盛山城は愛知県豊田市足助町にあります。初代足助氏は平安末期に足助の地に入り、足助氏を名乗り黍生城を築き、二代重秀が築城したのが飯盛山城とされ八代まで居城した伝わります。戦国時代になって鈴木氏が足助に入り足助鈴木氏として天正十八年の家康の関東移封まで続きました。今回の参考資料は (1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001 (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 (3)現地案内板 などです。※飯盛山城は、城郭遺構だけでなくその歴史も興味深いので2回に分けて掲載したいと思います。今回はその1です。
飯盛山城 足助七城と称される城塞群の中心にある
足助氏は飯盛山城を中心として黍生城、臼木ヶ峰城、城山城、大観音城、真弓山(足助)城、成瀬城を築いて居館は飯盛山城の麓(現 香積寺)に設けたとされてきましたが、近年の発掘調査により真弓山(足助)城は後の足助鈴木氏によって築かれた可能性が高いとみられています。※黍生城→こちら、真弓山城(足助城)→こちら、大観音城→こちら
足助氏は飯盛山城を中心として黍生城、臼木ヶ峰城、城山城、大観音城、真弓山(足助)城、成瀬城を築いて居館は飯盛山城の麓(現 香積寺)に設けたとされてきましたが、近年の発掘調査により真弓山(足助)城は後の足助鈴木氏によって築かれた可能性が高いとみられています。※黍生城→こちら、真弓山城(足助城)→こちら、大観音城→こちら
飯盛山城 斜面に平場が多数あり最高所のⅠ郭への道は何本もある
史料(1)によると足助氏がこの地を去った後に山下の居館とされる場所には香積寺が建立され、鈴木氏の時代には山上の城郭としての改造が行われたと考えられ、戦時中は食糧確保のために多数の平場が開墾されたようで、足助氏の時代の遺構の確認は困難になっているようです。
飯盛山城 香積寺参道の石段を登る道a 香嵐渓遊歩道から
香積寺創建時に足助氏の館跡は改変を受けたようで、参道として石段が設けられ土塁などの改変が行われたようです。
飯盛山城 香積寺山門 左に土塁A2
石段を登ると香積寺山門があります。資料(1)によると天保年間(1830~44頃)に土塁を切り開いて山門と参道aを設けたとされます。
石段を登ると香積寺山門があります。資料(1)によると天保年間(1830~44頃)に土塁を切り開いて山門と参道aを設けたとされます。
飯盛山城 車の道b 奥に山門 北西下から
道bは舗装された車の道になっていました。道aができる前には歩く道が在ったかも知れないと思いましたがどうでしょう。
飯盛山城 土塁A1 北東から
土塁は山門と参道で切り開かれていますが、残存する土塁は規模の大きさや高さなど、見ごたえありのみどころでした。
飯盛山城 平場10 北から
図2で分かるように香積寺(往時の居館)は東西を尾根で囲まれた谷地形の平場にありました。東側は尾根の天端を削平した平場10などや土塁A1・2のように尾根を成形した遺構がみられました。
飯盛山城 香積寺境内の石垣 南下から
香積寺の本堂が立つ平面の石垣は、とてもカッコ良い姿でしたが、城郭遺構としての石垣ではなさそうですね。
飯盛山城 鈴木氏五代の墓地
図2の地点1の平場は歴代住職の墓地でした。地点2の平場には鈴木氏五代の墓が祀られ案内板も立てられていました。
飯盛山城 地点2の平場 装束塚と足助氏、滝野、成瀬氏の墓地
飯盛山城はいくつもの歴史が折り重なった場所で、現地案内板によると平安時代に京から落ち延びた公家と足助重範の娘滝野との間に生まれた子が後の犬山城主の成瀬家の始祖となったとありました。装束塚は京に帰った公家の残された装束をここに埋めたとされます。
飯盛山城 平場4 奥上にⅢ郭 西から 右手に虎口5
香積寺の裏手から足助氏の墓所などを見ながら登ってきた道Cは途中の稲荷社の参道も兼ねた香嵐渓の遊歩道でした。途中いくつもの平場が在りましたが、往時の腰曲輪か戦時中の耕作地跡かの区別は難しかったです。平場4まで登ってくると、いかにも山城の腰曲輪といえるような平場をみることができました。虎口地形5も遊歩道の一部ですが、位置関係から多少の改変はあるとしても虎口としても良いのではないかと思いましたがどうでしょう。
飯盛山城 Ⅲ郭 西から 奥にⅠ郭
Ⅲ郭はいかにも腰曲輪ですが、資料(1)によるとⅠ、Ⅱ、Ⅲ郭は大正時代の公園造成時に改変を受けているとされますので、現況がそのまま往時の城郭遺構とは言えないようです。
飯盛山城 Ⅰ郭西辺の高い切岸 南から
Ⅰ郭は周囲が急峻な斜面で、写真の切岸も見ごたえありの見どころでした。飯盛山城は山上の曲輪に土塁は見られませんが、この切岸が在れば必要がなかったかも知れませんね。
飯盛山城 Ⅰ郭虎口 西から
Ⅲ郭から道eを登ると虎口に出ました。現況では右側に遊歩道が整備されていましたが、ヒョットすると左側の溝状の部分が虎口だったかも知れないと想像してみました。
飯盛山城 Ⅰ郭 東から
Ⅰ郭は写真のように大岩が沢山見られ、現地案内板によると飯盛山城は古代から信仰の場所だったとされます。いわゆる磐座信仰の場所として数々の伝説も生まれたようです。現在も多数の足絵馬が奉納されていました。展望台も設置され周囲の見晴らしも良好でした。
図2の地点1の平場は歴代住職の墓地でした。地点2の平場には鈴木氏五代の墓が祀られ案内板も立てられていました。
飯盛山城 地点2の平場 装束塚と足助氏、滝野、成瀬氏の墓地
飯盛山城はいくつもの歴史が折り重なった場所で、現地案内板によると平安時代に京から落ち延びた公家と足助重範の娘滝野との間に生まれた子が後の犬山城主の成瀬家の始祖となったとありました。装束塚は京に帰った公家の残された装束をここに埋めたとされます。
飯盛山城 平場4 奥上にⅢ郭 西から 右手に虎口5
香積寺の裏手から足助氏の墓所などを見ながら登ってきた道Cは途中の稲荷社の参道も兼ねた香嵐渓の遊歩道でした。途中いくつもの平場が在りましたが、往時の腰曲輪か戦時中の耕作地跡かの区別は難しかったです。平場4まで登ってくると、いかにも山城の腰曲輪といえるような平場をみることができました。虎口地形5も遊歩道の一部ですが、位置関係から多少の改変はあるとしても虎口としても良いのではないかと思いましたがどうでしょう。
飯盛山城 Ⅲ郭 西から 奥にⅠ郭
Ⅲ郭はいかにも腰曲輪ですが、資料(1)によるとⅠ、Ⅱ、Ⅲ郭は大正時代の公園造成時に改変を受けているとされますので、現況がそのまま往時の城郭遺構とは言えないようです。
飯盛山城 Ⅰ郭西辺の高い切岸 南から
Ⅰ郭は周囲が急峻な斜面で、写真の切岸も見ごたえありの見どころでした。飯盛山城は山上の曲輪に土塁は見られませんが、この切岸が在れば必要がなかったかも知れませんね。
飯盛山城 Ⅰ郭虎口 西から
Ⅲ郭から道eを登ると虎口に出ました。現況では右側に遊歩道が整備されていましたが、ヒョットすると左側の溝状の部分が虎口だったかも知れないと想像してみました。
飯盛山城 Ⅰ郭 東から
Ⅰ郭は写真のように大岩が沢山見られ、現地案内板によると飯盛山城は古代から信仰の場所だったとされます。いわゆる磐座信仰の場所として数々の伝説も生まれたようです。現在も多数の足絵馬が奉納されていました。展望台も設置され周囲の見晴らしも良好でした。
飯盛山城 山下の足助八幡宮 足絵馬が授与されている
足助八幡宮は、古くからの文書が保管され、周辺の歴史解明に役立っています。飯盛山城山頂で見かけた足絵馬はここで授与されているようでした。
以下その2へ続きます。