湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

木村重成の血染めのすすき

2011年05月01日 | 詩歌・歳時記
米原から北に長浜市があり、西に彦根市がある。両市とも城下町ではあるのだが、気質が全く違う。
長浜は商人の町だ。進取の精神にあふれ、新しいものに果敢に取り組んでいく。
秀吉の名残りが今も色濃く漂っている。長浜城博物館の建設費用の大半は、市民の寄付で賄われたのだ。

一方、彦根は徳川時代の封建的な気風に包まれて、ゆったりとして、静かであり、古風である。
前市長の伊井直愛氏は、伊井家直系の子孫であり、大老・直弼の曾孫だったかな?。
穏やかな風貌のなかにも、威厳と品格をそなえ、お殿様然とした、かくやあらんと言うお方であった。
     
彦根城を出て、外濠を渡る。一筋の道の両側に、城下町を模した食事処、土産店、ローソク屋などが、
ひとつのコンセプトに統一されて並んでいる。市の補助を受けて、整備された新しい観光スポットだ。
名付けて「夢京橋キャッスルロード」。
その中程に「宗安寺」の赤い門が見えてくる。浄土宗の名刹である。

豊臣家が滅んだ、かの大阪夏の陣の折り、 勇猛果敢に戦い、
討ち死にした木村長門守重成の首塚が、今も丁重に祀られている。一説には、秀頼の乳兄弟という。
合戦に望むにあたって、兜に名香をたきこめ、首実験の折り、その床しさに家康も感嘆したと言う。

伊井家の安藤長三郎が、その首をもらいうけ、傍らの薄の穂に包み、
彦根のわが菩提寺であるここ宗安寺に祀ったのである。
この血染めの薄は、みたび、場所を変え、今も宗安寺に現存している。

この往来を「朝鮮人街道」と呼ぶのだが、江戸時代に唯一交易していた朝鮮からの通信師一行が京から、
江戸へ下る道なのだ。国土を広く見せるため、やたら曲がりくねっている。
安土城の麓を巻くように道が続いている。

この一行の上官たちが、宿泊したのが宗安寺である。そのため、赤塗りの正門のとなりに、
肉類を搬入するためのやや小ぶりの黒門が、今は扉を閉ざして歴史の語り部のごとく存在している。

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