しなこじダイアリー

日常生活のあれこれ

「ミュシャ展」 パリの夢  モラヴィアの祈り

2013-05-09 07:09:05 | 美術館 博物館

                

                     「ミュシャ展」  パリの夢 モラヴィアの祈り

              

                チェコ人ミュシャ

 

                   

                      パレットを持った自画像

                  1860年、今日のチェコ共和国、モラヴィア地方にある
                  小さな村で生まれた。

                  チェコ人というアイデンティティと祖国愛は生涯変わらぬ
                  精神的支柱であり、画業を通して祖国のために働くことが
                  夢でした。
                  その決意はスラヴ統一を象徴するロシア民族衣装を着て
                  自画像や写真に現れることやミュンヘン、パリ、ニューヨーク、
                  シカゴなど行く先々でスラヴ協会を結成し、コミュニティーの
                  リーダー的存在となっていたことからもうかがえる。

              

                サラ・ベルナールとの出会い

 

                      

                          ジスモダン

                   挿絵画家ミュシャがデザイナーとして一躍有名になる
                   きっかけとなったポスター。
                   女優サラ・ベナール主演のポスターがパリの街頭に
                   飾られるや評判になった。
                   

                

                   椿姫               ロレンザッチオ

              ミュシャがベルナールのために製作した2作目のポスター(左)
              初めて男役ロレンザッチオを好演した時のポスター  (右)

                 

                  メディア               トスカ

                 ミュシャは血塗られた刀剣を持つメディアが死体を前に
                 立ち尽くす鮮烈な情景を創造。

                 トスカはのちにプッチーニによってオペラ化され、
                 三代歌劇のひとつとなった。

              ミュシャ様式とアールヌーボー

            印刷技術の飛躍的な発展と、ベル・エポックの消費文化の恩恵を受けて
            ポスターは新たな視覚文化のジャンルとなり、黄金時代を迎えた。

            企業間の商品競争が高まるにつれ、自社製品を消費者にアピールする
            必要から宣伝ポスターの需要が急増し、多くの画家がポスターのデザインを
            依頼された。
            この新たなジャンルに登場したのがミュシャである。

         

           カサン・フィス印刷所   ルフェーヴル=ユティル ビスケット:シャンペン風味

     ミュシャはサラ・ベルナールのポスター以外にもさまざまな商業ポスターを手がけている。

     ルフェーブル=ユティル社はフランス有数のビスケットメーカー、ミュシャは同社の公式
     画家であり、ポスターやカレンダーのほか商品のラベルやパッケージのデザインも
     手がけている。

                 

                        ショコラ・イデアル

 

                

                       ムーズ川のビール

                 片手で泡立ったビールのジョッキを持ち、もう一方の手を
                 顎に添えてひじを付いた女性。
                 ミュシャのよく知られた画風に比べて、よりリアリスチックな
                 調子で描かれている。

                 ムーズ川はフランス北東部を水源とし、ベルギー、オランダを
                 経て北海に注ぐ川。
                 

                  

                        モナコ=モンテカルロ

                   この作品は、パリ、リヨン、マルセイユを結ぶP.L.M.
                   鉄道のための観光ポスター。

                

                   モエ・エ・シャンドン;ドライ・アンペリアル
                                ;ホワイトスター・シャンペン

               ドン・ペリニヨンをはじめ世界的に有名なシャンペンのメーカー。
               同社の2種類のシャンペンのために製作されたのがこの2点の
               ポスター。

           

               ネスレ社の奉祝ポスター (ヴィクトリア女王即位60年記念)

 

            

                  ウェイヴァリー自転車

              アメリカのインディアナポリスにある会社の製品だが、ヨーロッパの
              主要都市で売られていた。

     

      ルフェーブル=ユティル                  ビスケット;ブドワールの箱
              ビスケット;マディラ酒風味の箱

           

                  フランス香水<ロド>のセット

 

                  美の探究

             ミュシャのポスター作家としての名声を不動のものとしたのは、
             装飾パネル画の成功であった。

             装飾パネル画とは、宣伝ポスターから広告の文字要素を取り除き、
             純粋に室内装飾と観賞を目的として製作された。

        

                  夢想

           花と女性の芸術家ミュシャの典型的な作例のひとつ。
                    1898年の迎春用にパリのシャンプノワ社から依頼されてデザインした
           社名入りの作品、その後画面上端の飾り枠にあった社名など文字が取り
           除かれ、一般向けの装飾パネルとして販売するためにアレンジされた。

               

                 パリスの審判 (ヴィエマール印刷会社のカレンダー)

               万年カレンダーとして企画された作品。 画面下方の3つの
               マスクの口内に日付が現れる仕組み、枠内には古代ギリシャ
               神話の物語が表されている。

           

              サロン・デ・サン ミュシャ展         ノートルダム石鹸の習作


                パリ万博と世紀末
         
             1900年パリ万国博覧会は、前世紀の人類の偉業を讃え、新世紀への
             さらなる躍進を願って開催された世紀のイベントであった。

             1896年から本格的な準備の始まったこの大事業は、アールヌーボーの
             広がりと並行して急ピッチで進み、この最先端の芸術精神が展示品から
             会場の建築物に至るまで席巻したパリ万国博覧会は、後に「アール
             ヌーボーの勝利」と評される。

                  

                   パリ万国博覧会の公式晩餐会のメニューの下絵

            パリのアートシーンの注目を集めていたミュシャにも仕事の依頼が殺到した。
            しかしミュシャにとって、このイベントは華やかで豊かなるヨーロッパ文明の
            陰に潜む闇の部分を再認識させられる契機となった。

            スラヴの同胞のための仕事を渇望していたミュシャは当時オーストリア=
            ハンガリー帝国の占領下にあったボスニア=ヘルツェゴビナのパビリオンの
            内装を請け負うことを喜んだが、祖国がオーストリアの植民地政策にあるのに
            自分がパリ画壇でもてはやされ、帝国を代表する芸術家としてプロジェクトを
            請け負う矛盾した現実に悩み、 ミュシャは祖国とスラヴの同胞のために働く
            決意を新たにした。
                

            パリが博覧会の準備で沸いていた1898年、中世の石工ギルドに起源を
            発するともいわれるフランスのフリーメイソン組織フランス大東社に入団した。

            1918年にチェコスロバキア共和国として独立すると、ミュシャはそれまで
            抑圧されていたチェコのフリーメイソン活動を復活させ1923年には初代の
            グランド・マスター(最高大総監)に就任する。

                 

                      <月と星;月> 月の下絵

           ミュシャ様式の中の女性の姿も、世俗的な誘惑者あるいは美の化身から
           形而上的な存在えと昇華されてゆく。

 

        

               ヤロスラヴァの肖像

           1909年アメリカ滞在時代にニューヨークで生まれたミュシャの娘、その後
           15年にプラハで生まれた息子のジリと共に繰り返し描かれ、チェコの紙幣の
           デザインにもモデルを務めている。

           力強い視線のヤロスラヴァの目を引く頭に巻かれた白い布は、チェコの
           民族衣装。
             

              ミュシャの祈り

           
           1904年最初の訪米のあとミュシャは活動拠点をアメリカに移し、資金
           集めに奔走していたが、資金援助を得て「スラブ叙事詩」を実現する
           ために、1910年に長年離れていた祖国へ戻った。

 

                

                   モラヴィア教師合唱団のポスター

            プラハで再出発したミュシャは、新築のプラハ市民会館の装飾に着手、
            1911年その仕事を終え、以後17年の歳月を<スラヴ叙事詩>の
            製作のために費やすことになる。

            これに並行して愛国的なイベントのポスターや民族的なテーマを描いた
            絵画を次々に制作してパリでの決意を実行に移してゆく。
              

                 

                     チェコスロバキア共和国独立10周年記念

                今回ミュシャのチェコ民族衣装コレクションも展示されている。

                        

                           スラヴ叙事詩展

                 「スラヴ叙事詩」は基本寸法6x8mの大作20点にも及ぶ、
                 ミュシャの後半生を代表する大規模な連作である。
                 アメリカの富豪の資金援助により1911年から製作が開始され、
                 最終的には20点すべてがプラハ市に寄贈されたのは、チェコ
                 スロバキア共和国独立10周年の年1928年であった。

                 叙事詩という表現形式に大きなインスピレーションを与えたのは
                 アメリカ滞在中に聞いたボストン交響楽団の演奏によるスメタナ
                 作曲の交響詩「我が祖国」であった。

                 ミュシャは芸術を通してスラヴ民族の文化を世に知らしめ、
                 スラヴの団結を促す仕事に余生を捧げる決意をしたという。

                 

                    母と子;子守唄 (プラハ・ハラホル合唱教会の壁画
                                      歌のための習作)

              
            

                 

                   参考図  プラハ聖ヴィート大聖堂のステンドグラスの窓
                   
                           (最終下絵が紹介されています)

              1933年ヒトラーが台頭すると、「スラヴ叙事詩」の中に「希望の光」を
              モチーフに使って戦争の恐怖をテーマにした作品に取り組んだ。

              さらに1936年、迫り来る戦争と祖国の将来に心を痛めたミュシャは
              人類の叡智への願いを込めて三部作<理性の時代><叡智の時代>
              <愛の時代>に着手した。

              しかし1939年の春ドイツ軍がプラハに侵攻、祖国は再び独立を失う。
              3月15日、ミュシャはゲシュタボに逮捕される。
              5日間尋問された後、帰宅を許されるが、前年から肺炎を患っていた
              ミュシャの健康状態は悪化する。
              79歳の誕生日を迎える10日前、7月14日プラハにて死去。
              ミュシャの三部作も未完に終わった。

              ドイツ軍に集会や演説が禁止されていたにもかかわらず、弔問に
              訪れ大勢の人々の前でチェコ芸術アカデミー会員マックス・シュヴァ
              ビンスキーが追悼演説を行った。

 

              音声ガイドから流れるスメタナの交響詩<我が祖国> が印象に
              残り、図録を見ながらも流れてくるような気がしました。
              「アルフォンス・ミュシャ展」 素晴らしかったです。

                 (森アーツセンターギャラリーで5月19日まで開催)
              
              
              
             


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (しなこじ)
2013-05-13 07:13:45
雲母舟さん
写真展多くの方に見ていただけてよかったですね。
良い雰囲気の会場でした。

ミュシャ展、しつこく写真を紹介してしまいましたが、
どの作品も意味があり外しがたかったのです。
ミュシャが祖国に戻り取り組んだ「スラヴ叙事詩」も
紹介されていましたが、私のイメージの中のミュシャの
作品だけになり、少し気になっています。
返信する
Unknown (雲母舟)
2013-05-12 21:41:20
しなこじんさん

先日は写真展にお忙しいなか、お越しくださり、
ほんとにありがとうございました。
お会いできて、とても嬉しかったです。

ミュシャ展、気になっていました。
丁寧にご紹介くださり、ありがたいです。

美しいものはやはり時代を超えて
輝いていますね。
展覧会に行った気分にさせていただきました。
返信する

コメントを投稿