しなこじダイアリー

日常生活のあれこれ

両国橋上流隅田川周辺散策 その壱

2010-10-05 08:24:23 | Weblog
         江戸東京博物館友の会「えど友」の見学会に参加しました。
         今回は広重「江戸百景」周辺探訪の両国橋上流、隅田川周辺の散策です。

         出発は「両国橋大川ばた」絵の両国橋です。


 

      浅草橋側の標識です、たまには渡る橋ですが、通路側のこんな模様には気がつきませんでした。


                   

      両国橋ー江戸最大の火事、明暦の大火(1657)では、隅田川に橋がなかったため、10万人以上の焼死者や
      溺死者を出したと言われる、この様な惨事が起きないように幕府は寛文元年(1661)に、隅田川に橋を架け、
      さらに東西の橋詰めには火よけのための広小路を設けた。


 

       広重のころの両国橋は今より西岸で80m、東岸で70m下流にかかっていた。

       東岸の堤防の上に高速6号向島線が走る   スカイツリーの下が、今日の解散地です。


                          

         両国橋西詰、浅草橋側を両国広小路と呼び、橋ができた事による本所、深川地域の開発が進み、
         火よけ地広小路には店や、芝居などの見せ物小屋が並び、江戸いちばんの盛り場に発展した。



 

       両国橋からすぐの柳橋は、神田川が隅田川に注ぐ河口部に設けられた橋です、渡し船の往来では不便で、
       元禄11年木橋が架けられました。 名前の由来は諸説あり不明。
       
       江戸時代には隅田川の船遊び、向島への船便、特に吉原に向かう客を目当てにした船宿が集まっていた。
       そして幕末の頃から、新橋とともに花柳界として、有名な場所になりました。


 

       柳橋芸者は遊女と違い、歌や踊りなどで芸を立てることを誇りとし、プライドが高かったと言われる。



 

       隅田川テラスはこんなに整備され、気持ちのよい散歩道になっています
       
       「両国花火」絵
       八代将軍吉宗の治世に、全国的な大飢饉やコレラの流行で100万人以上に使者が出た。
       幕府はこれら死者の慰霊と疫病払いを享保17年(1732)5月28日に両国橋付近で水神祭と川瀬餓鬼会を催し、
       翌年5月28日には隅田川の川開きを行い花火を打ち上げた、これが両国川開きのはじめである。

       川開きとは、江戸市民がこの日から8月26日まで隅田川に船を浮かべて納涼が許された合図でもあった。



                   

                     蔵前橋の全景


 

        御米倉はいまの蔵前橋をほぼ中心に、川に沿い700m、2万7千900坪に広がっていた


                   

                      浅草御蔵跡の碑


 

      元和6年(1620)この付近一帯を鳥越神社の丘陵を崩した土で埋め立て、一番堀から八番堀まで
      櫛形の船着き場が設けられ、年貢米を収納する幕府の御米蔵が建てられた、蔵前の地名の由来です。
      御蔵の8本の掘り割りは大正初期までありましたが、護岸工事のため取り壊されました。



                  

        蔵前橋を渡りテラスで解説を聞く私達グループ、紫のキャップの人が、本日の先導案内人さん
        170数名が17班に分かれてそれぞれ先導案内人さんが付いて歩き、説明を受けます。
                


                  

                    次の目的地の厩橋(うまやばし)です


                  

             観光船が行き交う隅田川、手前の柵には屋形船が、説明を受けて初めて知りました


 

         「御厩河岸」(おんまやがし)の絵
      厩橋のたもとから右岸100m下流あたりに御厩河岸がありました、対岸の本所石原町との間に渡し船があり
      これを御厩河岸の渡しとといっていました。

      渡し船の渡し銭は、武士は無料、町人は2文であった。
      絵に描かれた渡し船の2人の夜鷹も往復4文の元手が必要であったようです。

                   

                    駒形橋が見えてきました

                  駒形橋から、吾妻橋を経て言問橋とその周辺は次回にします。