しなこじダイアリー

日常生活のあれこれ

 「二条城展」 

2012-09-05 22:07:21 | 美術館 博物館

                 「江戸東京博物館」で開催中の「二条城展」、江戸博友の会
                 恒例の学芸員の方の解説を聞いてから見せていただいた。

 

                 

          天下を治めること。それは京都を治めることなくして果たせなかったことでした。
                    徳川家康が慶長8年に築き上げた二条城は、戦のための拠点ではなく、
          朝廷を敬いつつ掌握するという、幕府が持つ力を目に見えるものにする場所
          でもありました。

 

               二条城の障壁画

          政治の場、儀式の場、そして生活の場である御殿が実質的には城の中心的な
          建物であった。
          その御殿の内部を飾るのが障壁画である。  建物を構成する壁、襖などの建具
          天井に貼り付けられた絵のことである。

 

        

              二の丸御殿 遠待三の間

         二の丸御殿中最も規模が大きい棟で、部屋数は10、その一の間から三の間は
         虎の間と呼ばれるように「竹林群虎」が画題です。

         対面に先だって控えている昇殿者たちを虎たちが威嚇する。 群れの中に当時
         雌の虎と考えられていた豹が混ざっている。

 

                

                   二の丸御殿  遠待勅使の間(上段)

            狩野派と二条城壁画、寛永の壁画制作は、すべて狩野派の手による。
            しかし部屋ごとの筆者の特定については、現時点でも決着は着いていない。

 

          

            二の丸御殿  式台老中一の間 「蘆雁図」 裏方の間を飾った名品

          

             二条城創建   <京に響く徳川の天下>          

           関が原の戦いに勝利した徳川家康は、その翌年から京の城館の築城に
           取りかかた。  着工は慶長7年(1602)で、竣工は同8年三月。

           完成したばかりの二条城では家康の征夷大将軍拝命を祝う宴が催された。
           家康の創建した二条城は、後の時代と異なる構造で、まさに徳川将軍家の
           京での邸宅のようであった。

           また二条城は秀吉没後の豊臣家との争いの舞台に巻き込まれた。
           慶長16年(1611)には家康と豊臣秀頼の対面の場となった。

           一説にこの二条城での会談をもって、家康は豊臣家を滅ぼすことを決意した
           とも言われている。  
           そして豊臣家滅亡となった大坂の陣では二条城は家康の本陣にもなった。
           慶長期の二条城は、波乱の舞台として歴史に登場し、天下に徳川家康の
           覇権を知らしめる役割を担っていた。  (「二条城展」 図録より)

 

                 

                     徳川将軍家の紋を浮き彫りにした鬼瓦

                 

                    櫓や門の屋根から城内を見守ってきた鯱瓦

 

        

             唐門欄間彫刻 松竹梅に鶴と亀

           御殿の栄華を寿ぎ、訪問者を迎える華麗な造形  
                                 (唐門が現在改修工事中で展示された)

   

          

           東照大権現霊夢像  元和九年         東照宮御影  四月十七日拝礼

         徳川家光が夢で見た祖父家康の姿       幕府儀礼で拝された家康の肖像画

 

               

                     洛中洛外図屏風 (部分)

                  天守がそびえる家康が築いた二条城

 

               二条城大改築  <東福門院和子の入内と寛永の行幸>

 

      

           徳川秀忠像                     徳川秀忠像

       神像で表現される徳川秀忠             二条城を拡張した秀忠の肖像

 

       

            東福門院像                   仏舎利宝塔 (東福門院所持)

      幕府と朝廷の融和を背負った凛々しくも       並んだ菊と葵が東福門院和子の
      柔和な面持ち。                      運命を鮮やかに映し出す。

      「東福門院入内図屏風」に描かれているのは幕府と朝廷を結ぶ華麗な行列でした。

 

      

                  

          二条城で後水尾天皇を迎えた、二条城を政治の舞台とした徳川家光

 

 

        

              二の丸御殿 飾金具

        

                 御殿を華麗に彩るかざり職人の技の競演

 

                

                 洛中洛外図屏風  描かれた寛永行幸と家光の二条城
                                         (部分)

 

           

               葵紋銚子   饗応に欠かせない酒器

 

 

              寛永障壁画の輝き <日本絵画史最大の画派、狩野派の粋>

         寛永の大改修に際し、狩野探幽率いる画工集団・狩野派が新調した二の丸御殿
         障壁画は、徳川家が威信をかけて造営した城の御殿とともに伝来した現存唯一の
         作品群であり、豪華絢爛な近世障壁画の代表作として日本絵画史上に燦然と
         輝いている。

         二の丸御殿は、遠待・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の六つの棟から
         なり、障壁画はそれぞれの棟や部屋の機能に応じて描き分けられている。
         狩野派は常に支配者の傍らで絵の御用を務めてきた。

 

  

                 花下遊楽図     狩野長信筆

 

        

                 探幽を支えた長老、春の宴を描く

 

                

                二条城障壁画製作のリーダー、晩年の面影 「狩野探幽」像

 

  

           二の丸御殿  大広間四の間  松鷹図 狩野山楽または探幽作

           将軍の武勇を示す二条城の代表作  

 

        

         二の丸御殿 黒書院廊下杉戸 花籠図   廊下の杉戸にも室内と同じ美的感覚

 

               

              黒書院四の間  菊図  親密な空間を演出する優美な花たち

 

          

 

       白書院二の間   西湖図   将軍のプライベートルーム、白書院の障壁画

 

        

               白書院一の間天井画  花卉図   天井にも豪華な障壁画

 

 

                激動の幕末   <大政奉還の舞台として>

         三大将軍家光が上洛した寛永11年(1634)から後の十代将軍は、二条城に
         滞在することなく、その間、「二条在番」と呼ばれる武士たちが、幕府から派遣され
         二条城の警備・管理を行っていた。

         行幸御殿や中宮御殿などは移築、二の丸御殿も主要な建物を残して解体・撤去
         され、寛延3年(1750)には落雷で天守が焼失、天明の大火で本丸御殿も
         焼失した。
         このように寛永行幸の時から様変わりした二条城は、幕末まで歴史の表舞台に
         出ることはなかった。

 

   

         京都上洛将軍二条城出門の図  

      尊皇攘夷や倒幕運動の波が押し寄せる文久3年(1863)三月、14代将軍家茂は、
      光明天皇の賀茂行幸に御供するため上洛し、将軍としては約230年ぶりに二条城に
      入る。

      幕府の権威回復のため京、大坂、江戸を奔走した家茂は20歳で急逝した。

 

 

        錦絵の題材になった家茂の上洛   「江戸名所尾張町の図」

 

     

        盛装した徳川慶喜の肖像       二条城で大政奉還を決意した将軍徳川慶喜

      

             

                陣羽織 (伝徳川慶喜所用)

            徳川慶喜が所用したと伝えられる陣羽織とナポレオン三世が
            徳川慶喜に送ったと伝えられる軍帽

 

             

              大政奉還 下図  黒書院で大政奉還の決意を述べる

              15代将軍となった徳川慶喜は、慶応3年(1867)10月
              二条城二の丸において大政奉還の意思を発表。
              これが朝廷に伝えられて勅使が出され、幕藩体制に
              終止符が打たれた。
              家康による二条城創建と同年に成立した江戸幕府は、
              その幕引きもまた二条城において行われたのである。

 

                 離宮時代  <華麗なる宮廷文化の移植>

            明治維新後、明治17年(1884)宮内省の所管となり、二条離宮と
            称されることになる。

            江戸中期に御所に描かれていた障壁画が大広間や黒書院の長台の
            間に貼りなおされ、御所近くにあった宮家の邸宅。旧桂宮御殿が
            移築されて新たな本丸御殿となった。

            また二の丸御殿の妻飾りは菊紋の飾り金具が取り付けられ、唐門では
            葵紋を裏から打ち直して菊紋とされた。
            御殿内の内装も離宮にふさわしい宮廷風意匠が導入され、幕府の城は
            新しい時代の宮殿として生まれ変わったのである。

 

             

                  本丸御殿一の間  松鶴図

                幕末京都の狩野派の実力を示す旧宮家の障壁画

 

                 世界遺産二条城  <文化財を守る・伝える>

             昭和14年(1939)二条城は京都市に下賜され、史跡として
             管理されることとなった。
             第二次世界大戦中には、戦火を逃れるため、二の丸御殿の
             障壁画、彫刻、飾金具は一時的に郊外に移された。

 

             

                   保存修理事業

             昭和47年(1972)より二の丸御殿内の障壁画を模写と替える
             「模写事業」が始まり、順次進められている。
             平成14年(2002)から取り外した障壁画の「本格修理事業」が
             開始されると共に、同16年には展示・収蔵館が完成し、原画を
             良好な保存環境のもとに保管し、公開することが可能になった。

             また同6年(1994)には二条城は、「古都京都の文化財」として
             世界遺産に登録された。

             

             もう15年以上も前のことになりますが、二条城の障壁画などの
             修復作業の部屋を見せてもらったことがあります、休憩時間で
             実際に作業は していませんでしたが、部屋の雰囲気を今でも
             よく覚えています。

 

             江戸初期、徳川家康の建造した二条城は、京都観光のうち、
             年間1,2を争うほど多数の人々が訪れているそうです。

 

                「二条城展」は江戸東京博物館で9月23日まで。


「高橋由一」展

2012-06-24 07:48:37 | 美術館 博物館

                  東京藝術大学美術館で開催中の近代洋画の開拓者
                  「高橋由一展」東京では初の大回顧展です。

 

                 

                     会期は24日、日曜まで

 

                    

              まず最初に目にするのは丁髷姿の自画像 (39才慶応2~3年ごろ)

              武家に生まれ、狩野派に学び、洋画の絵師になった由一  人物画
              歴史画、名所風景画、静物画、など洋画に命をささげた全貌を
              知ることができます。

              江戸末期に洋画とともに西洋から導入された写真は人々に新しい
              視覚体験をもたらした。
              由一は肖像画を多く描いたがその製作にしばしば写真を利用している、
              同時に写真にない油絵の利点を主張している。
              真を写すのは同じでも油絵は色彩の再現性と耐久性の点で優れて
              いると。

 

            

                 芝浦夕陽 明治10年ごろ(1877)  名所風景画の中の作品

                あかね空、あかね雲ともに広重の風景版画によく見かける特徴がある、
                構図の共通性が見られる作品。
                美しいあかね色が印象に残る作品でした。

 

                    

                      花魁 (おいらん)  明治5年(1872)ごろ

             誰もが断ったモデルを、新吉原の稲本楼で人気を博した小稲が承諾した。
             当時23,4才下髪に結い、これ以上挿せないほどのかんざしを挿し、豪華な
             刺繍の打掛を着て由一の前に座りモデルを務めた。

             目の前の花魁をあるがままに描こうとする、まだ慣れてない油絵の具に
             心躍らせて描いたといわれる。

             鼈甲のかんざしの透け感、独特の質感など表現の追求はそれまでの
             浮世絵の美人画には無い重苦しいほどの雰囲気がただよいます。

             しかし完成後「私はこんな顔じゃありません」と言って泣いて怒ったと
             伝えられます。                                   
             
             江戸時代の美人画は「美しく描かれた女性」だったのです。

 

              静物画   明治9年(1876) 49才で本格的油絵技法を習得し、
                      10年から13年ごろにかけて多くの静物画を描きました。

 

              

                    桜花図  明治12-3年(1879-80)

             桶の木目から削られた板と汚れ、かけ替えられたタガと跡まで克明に描き
             物の質感表現に優れている油絵の特質を生かした作品。

      

            

                   鴨図  明治11年ごろ

             食肉用の鴨がぐったりと置かれ、手前にはフキノトウ、食材も多く描いた

 

             

                   甲冑図 (武具配列図)  明治10年

               作品中最大の大きさの「甲冑図」西南戦争直後に描かれた甲冑図は
               武士の世の終わりを象徴するようです。

 

             

                      鮭   

             由一のトレードマーク「鮭」新巻鮭 実寸は120cmほどある巨大な鮭、
             明治10年ごろ描かれて、最も充実した時期に描かれた代表作。
             その質感表現は「写真みたい」というより「触ってみたくなる」迫真性がある。
              
               

 

 

                  

                 上の紙に書かれた作品を真ん中に左に麻布に描かれた鮭、
                 そして右は板に描かれた鮭、板目をそのままそこに鮭が
                 実在するかのようです。 荷札に「日本橋中洲町」とある。

                 黒い麻布に描かれた鮭は、由一が明治20年東北旅行の折
                 滞在した山形県北村山郡楯岡の旅館に伝わるものです。

                 <それぞれに描かれた鮭の質感を見比べるのも楽しい>

                 由一には絵が好きで画家になりましたといった甘さは微塵もなく、
                 洋画を日本に普及するのが自分の果たすべき使命という自負に
                 溢れていました。
                 

                 「天絵楼」という画塾を開き、展覧会を開催したり、「臥遊席珍」
                 という日本初の美術雑誌を創刊したり、「螺旋展画図」に描かれて
                 いるユニークな美術館を考案したがこれは実現しませんでしたが、
                 まさに近代洋画の開拓者でした。


           

 

          


江戸東京博物館 特別展 「日本橋」

2012-06-08 07:20:32 | 美術館 博物館

                 特別展「日本橋~描かれたランドマークの400年~」
                 「えど友」(江戸博友の会)の特別観覧会が開催されました。
                 

 

            

                   江戸博の学芸員の方の解説を聞いてから見学です

 

                   

                   400年以上の歴史がある日本橋、石の橋になってから
                   101年目、昨年架橋100年でしたが記念の展覧会は
                   延期になり、今回開催されることになったのです。

                   江戸から東京にかけての絵の展覧会ですが、江戸が半分
                   明治以降が半分、日本橋が描き続けられ、その描く方法も
                   技術も変化しています。

                   

 

                   

                   江戸東京の象徴として日本人に愛され、浮世絵などにも
                   描かれてきた日本橋、江戸時代に木造で架橋されました。

 

                   

                     江戸東京博物館の日本橋です

 

            

              江戸日本橋より富士を見る図   渓斎英泉 (文政1818~29)中頃

           富士山と江戸城を背景にして日本橋を描いた江戸時代の典型的な構図による
           作品、周囲にアルファベット風の囲みがある「蘭学枠」という通称を持つシリー
           ズのひとつ、青の濃淡を基調とした構成は江戸期に人気を博した表現。
           日本橋図でありながら 、独特な印象の作品。

 

                  

                 東都名所年中行事 四月「日本橋初かつお」 歌川広重

                 季節感を添えて江戸名所を描いた12枚揃えのひとつ、
                 旧暦四月の風物詩である初かつおとともに日本橋を
                 描いたもの。
                 擬宝珠(ぎぼし)のある柱と2人の女性の立ち姿が、日本橋を
                 舞台にした美人画としても楽しめる作品。

                 かつお売りが描かれるのは魚河岸が近いことを表していて、
                 魚を売る棒手振りが描かれることは魚河岸の活気をも
                 表しています。

 

            

                冨獄三十六景 江戸日本橋  葛飾北斎  天保(1831~3)

             川の向こうに江戸城と富士が望めるここは日本橋、渡る人々の中央に
             擬宝珠が見える、擬宝珠により日本橋と分かる。
             (擬宝珠は幕府により作られた橋にのみ付けられた柱の黒い飾り)

             橋の下を流れる日本橋川も重要です、海に面した隅田川につながっており、
             この川からさまざまな物資や文化が江戸に運びこまれました。

             逆に日本橋川から川を下り、隅田川に合流した後、上流に向かったのは
             江戸見物を楽しむ人や、浅草見物や、吉原に向かう人々を運んだのです。
             都市江戸の陸路と水路の十字路となっていた日本橋は魅力です。

 

             文明開化が到来し、明治維新を迎えた日本橋でしたが、絵に描かれる
             姿は、江戸時代の定型化された名所絵から一転激動の時代に合わせて
             時々刻々と変化してゆくことになります。

 

           

        東京日本橋風景   歌川芳虎  明治三年 

   3枚続きの錦絵、正面に日本橋を描いた図、正面左に威容を誇るのは高札場、その下に
   この年営業許可が下りた人力車の幟が見える。
   人力車、馬車、自転車などさまざまな乗り物が描かれていておもしろい。

   明治6年(1873)西洋型木橋への架け替え、明治15年鉄道馬車の敷設など日本橋は
   文明開化最先端をゆく名所のひとつとして、鮮やかな舶来絵の具を用いた華やかな
   錦絵にたくさん登場することになる。

   (明治15年(1882)三代歌川広重による「鉄道馬車往復日本橋の図」には日本橋の上を
   走り始めた鉄道馬車が描かれている、多くの人が行き交う中、魚を運ぶ棒手振りが大通り 
   に一人しか描かれていないのは、人々の興味、関心が文明開化の新風俗に向かって
   しまったからでしょうか。)

 

                

                  日本橋(夜明け)    川瀬巴水  昭和40年

           日本橋北側下流から眺めた図、縦型画面にすっきり描かれた日本橋
           柱の装飾が印象的、石造りの橋をより美しく見せるため、全体に淡い
           青色に包まれた画面と、一部が淡い赤に染まった朝焼けの雲が美しい
           近代の日本を代表する作品です。

 

           石で造られた橋は、明治44年(1911)4月3日に開通した。
           花崗岩を主要材料とした西洋風アーチ橋に、青銅製の獅子や麒麟など
           日本人に親しまれたモチーフの装飾を施したこの橋によって江戸時代
           以来の日本橋のイメージが一新します。

           幸い関東大震災や、第二次世界大戦でも破壊されることなく残り続け、
           平成11年(1999)重要文化財に指定されました。

             

           400年以上の歴史を持つ日本橋の姿を江戸から明治、大正、昭和に
           至るまでの浮世絵や版本、絵巻、そして近代版画や写真など、江戸東京
           博物館のコレクション130件紹介されています。
           加えて日本橋近くの版元から安永三年(1774)に出版された「解体新書」や
           明治初期に橋のたもとで営業を開始し、全国へ広がった「人力車」なども展示。

 

           * 筆者不詳の「隅田川風物絵巻」(日本橋部分・18世紀中ごろ)
           この絵巻には「影からくり絵」の細工が施され、絵の裏側から光を当てると
           昼の景色が一転夜景として浮かびあがります。

           今回特殊な装置でこれが見られます、ゆっくり立ち止まり観賞しました。
           驚きの影からく絵りでした。

                     日本橋定点観測400年、変化は都市そのもの歴史と共に楽しめます。

 

           現在の日本橋は何回か紹介しています、日本橋の真上を横切る首都高は
           美しい日本橋を台無しにしているように思えます。
           日本橋三越に行くときに一駅手前の日本橋で降りて、徒歩で橋を渡ることも
           あります、江戸時代好きには五街道の始まり日本橋は特別なのです。
           


            


ボストン美術館「日本美術の至宝」

2012-05-27 22:43:11 | 美術館 博物館

                東京国立博物館で開催中のボストン美術館展に出かけた。
                 

                 

                

                    五月の上野の森は新緑が美しく爽やか

 

                

                「かつて海を渡った幻の国宝が一堂に里帰り」というのを見て
                なぜ国宝が海を渡った? と興味は別の方向にも広がった。
                

                アーネスト・フェノロサ 聞いたことはある名前、でもよく知らない、
                いろいろ調べてみた。

                ボストン美術館草創期に在職していた、日本の美術、芸術に
                深い関わりのある人だった。

                日本のお寺に関係があったような・・・それも調べてみたら
                滋賀県の三井寺(園城寺)に京都クラブの人たちと行ったとき
                解説の先生が一緒だったので、くまなく見せてもらえたのです。
                そしてこちらに足跡があったのです、これは後に触れるとして・・

                音声ガイドを聞きながら日本の至宝を見ているうちに、”里帰り”と
                フェノロサの関わりが分かってきました。

 

            

             雲龍図(部分)  奇才 曽我蕭白の江戸時代・宝暦13年(1763)の作品
                        
             東洋美術の殿堂ボストン美術館には10万点を超える日本の美術品が
             収蔵され、その量と質において世界有数の地位を誇っている。
                                         

 

                    

                       普賢延命菩薩 平安時代・12世紀中ごろ
                                        
                「仏のかたち、神のすがた」の中の1点で「普賢延命菩薩像」
                四方を固める四天王が付いているのは珍しいそうです。
                    
                普賢菩薩が乗る蓮華座は3つの頭を持つ1頭の象が支えている。
               

 

                   

                   唐織 「紅地流水芦菊槌車模様」 江戸時代・18世紀
                 
                  明治時代海外に渡った工芸品は、多くの人を魅了した、
                  日本の工芸が技術的に高度な発達を遂げていたからです。
                  彼らを感嘆させた精緻な技の美です。
                   
                 
                  
            フェノロサは初来日のときショックを受ける。 明治維新後の日本人は
            西洋文明を崇拝し、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを
            受けていた。

            写楽、北斎、歌麿の名画に芸術的価値があると思っておらず、狩野派
            土佐派といったかつての日本画壇代表流派はすっかり忘れられていた。

            仏像、仏画など仏教に関するものは、政府の圧力により、ただ同然で
            破棄されていた。
            全国の大寺院は寺領を没収され、経済危機に陥り、寺院を叩き売るなど
            追い詰められていた。 (廃仏毀釈は日本人の手で日本文化を破壊した)
 
            フェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本
            美術の保護に立ち上がった。
            古美術の収集や研究を始めると同時に鑑定法を習得し、全国の古寺を
            旅した。
            日本人が愛する幽玄の精神を学ぶために能楽も学んだ。

            1884年政府の宝物調査団に任命され文部省職員となり、弟子の
            岡倉天心と奈良や京都の古寺を歴訪する。
            

            フェノロサ27歳の時長男誕生、名前を”カノー”と命名。
            32歳の時には法隆寺の秘仏(誰も見たことなかった)救世観音に出会い
            その翌年には三井寺にて受戒し締信の法名を授かった。

            1896年2度目の来日東京高等師範学校教授となる。
            そしてこの年三井寺・法明院を訪ね茶室「時雨亭」に滞在、今も愛用の
            地球儀、望遠鏡、蓄音機が保存されている。

            その後も「浮世絵展覧会」や「北斎展」開催のため来日、1901年(48歳)が
            最後の来日となる。
            1908年滞在先のロンドンで心臓発作で急逝 享年55歳
            生前から墓は法明院にと願っており、翌年分骨され三井寺・法明院に埋葬
            されました。  戒名は「玄智院明徹締信居士」

            フェノロサについては「貴重な日本の美術を海外へ流出させた」と批判する
            意見もあるそうです。
            
            フェノロサは日本人の気づかなかった”美”を日本画に見出し、価値が
            分かるから購入したのであり、彼が集めた2万点の美術品をボストン
            美術館は大切に所蔵・展示している。
            フェノロサは天心に嘆く「日本人が売るから買い求めるのです、もったいない」
            と・・・

           

            岡倉天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感、
            日本初の芸術教育機関東京芸術学校(現東京芸大)を設立、初代校長と
            なる。  フェノロサは副校長に就き美術史を講義する。

 

            最終的に日本政府が美術品の海外流出に歯止めをかけたのは1933年、
            すでに膨大な美術品が流出した後だった。

            長くなりましたが、まだまだフェノロサのことに関しては書ききれません、
            「ボストン美術館展」は素晴らしい日本の美術品の里帰りでしたがそれ以上に
            アーネスト・フェノロサのことを知るきっかけになったことも感慨深かったです。
               

            

        


千葉市立郷土博物館

2011-12-22 10:50:55 | 美術館 博物館

               以前住んでいたことのある千葉に出かけるというの息子夫婦に
               同行して、帰りにお城が見えたので聞いてみると、千葉市立郷土
               博物館というので立ち寄ってみることにしました。

 

                 

                      坂を上るとお城です

 

                 

                        千葉常胤と猪鼻城跡

                源頼朝の挙兵に参加、鎌倉幕府樹立の大きな手柄を立てた。
                幕府成立後、千葉氏は下総第一の豪族に成長。

 

                 

                まず目に付いたのはガラスケースの来年の干支に関する品々

 

           

                最上階(五階)から見えた景色、公園が広がっているようでした

 

         

         

               戦後の住宅   ちょっと懐かしい展示でした

 

         

               三階には千葉氏のことが詳しく解説されていました

          千葉氏探検シートという千葉氏関連の12問題の問題がおもしろそうだったので
          試してみることにしました。

          千葉の礎を築いた千葉氏について、一族の興亡と妙見信仰の展示がされて
          その中から、答えを探しました。

          たとえば質問1千葉氏は天皇の子孫でした。ではその天皇の子孫を下から
          選んでください。
            1) 清和天皇  2) 桓武天皇  3) 後醍醐天皇  (正解は2)

          展示物を読めば分かる問題です、結構面倒でしたがおもしろかった。
          ここを出る頃には千葉の成り立ちに詳なりましたよ。

 

          

               出口で採点されました100点  満点でした

 

         

                 全問正解でいただいた花の種

 

 

                

                    帰る頃には夕日が当たるお城が綺麗でした

 

          

             お城に向かう所にこんなお休みどころがありました、帰りには
             もう閉まっていて残念でした。  お団子が名物とか・・・

 

             地元の人たちでも知らない方が多いかも知れませんね。
             広々した高台で木も多く静かでくつろげる場所でした、千葉の歴史に
             詳しなれますよ。 観覧券は大人60円でした。

 

 

 


特別展 「法然と親鸞 ゆかりの名宝」

2011-11-09 08:16:58 | 美術館 博物館

                  

                  

                   今年は法然上人の800回、親鸞聖人の750回遠忌

 

           

                     上野の森で

 

 

 

                

                       師弟800年ぶりの再会

 

                

                        師は法然上人

 

 

                

                       弟子は親鸞聖人

 

                  末法の世に天災や戦乱が重なった時代ーすべての人々を救いたいと願った
          師と弟子がいた。
          「念仏を唱えれば救われる」と説いた浄土宗の宗祖・法然(1133~1212)と
          その教えを受け、浄土真宗の宗祖となった親鸞(1173~1262)です。

          今年は法然没後800回忌、親鸞没後750回忌にあたります。

 

               

                      阿弥陀如来および両脇侍坐像 (重文)
            
                      総高4メートル近く、迫力の三尊像

 

           法然は美作(岡山県)の豪族の家に生まれ、幼くして父を失い、比叡山に
           入山した。  「知恵第一の法然房」と称えられるほどの逸材だった。

           しかし法然自身はそれでは満足できなかった、どうすればすべての人が
           救われるのかわからなかったからだ。
          
           早々に出世コースから外れ、聖たちが集まる場所で、黙々と勉学に
           打ち込み、43才になった法然は、唐の善導という僧の著作から、
           念仏によってすべての人が救われる道を見出し、山を下りて庵を結び、
           その教えを説き始める。  このとき親鸞は3才だった。

 

                           

                            阿弥陀如来立像 (重文)

                        法然の一周忌に造立、像内に結縁した
                        数万人の名簿が収められている。

 

              親鸞は9才で出家、比叡山に上ったが「自分のような煩悩が多い人間が
              本当に救われるのか」という苦悩から逃れられずにいた。

              29才になって親鸞はついに山を下り、法然と出会う。
              法然は悩める親鸞に「念仏すれば誰でも救われる」といった。
              親鸞の視界が晴れた瞬間である。   以来親鸞は生涯かけて法然を
              信じぬく「たとえ法然にだまされて念仏をし、地獄に堕ちたとしても後悔
              しない」と決意する。

              法然の元にいたのは流罪になるまでの6年間。  以後二人の再会は
              かなわなかったが、親鸞は教えを受け継ぎ、思索を深めた。
                (親鸞聖人については、4月と9月の「親鸞めぐり旅」で紹介)

 

     

           国宝  阿弥陀二十五菩薩来迎図 (早来迎)

       法然と親鸞が信仰の対象とした阿弥陀如来にまつわる作品のひとつ。

       阿弥陀如来と25人の諸菩薩が麓の庵で息を引き取ろうとしている人のもとへ
       急峻な山肌を一気に下る、そのスピード感から「早来迎」とも呼ばれる。

       阿弥陀如来と諸菩薩はみな金色、 先導の観音菩薩が往生する人に蓮台を
       差し出す傍らで、勢至菩薩が合掌する。
       九つのランクがあるとされる来迎の最上位「上品上生」の場面です。

 

                  

                        国宝 山越阿弥陀図

                     阿弥陀如来の左右に勢至菩薩と観音菩薩が、
                     下方には四天王と童子が描かれる。
                     数ある山越阿弥陀図の中でも最古と見られる。
                       (鎌倉時代)

                 こうした法然と親鸞の生涯をまとめた絵巻きや絵伝も多く
                 出品されている。
              
                国宝「法然上人行状絵図」は阿弥陀が如来になるとき立てた
                48の誓願にちなんで48巻にも上る。
                法然と弟子たちの集大成とされ、現存する日本絵巻史上最大規模
                約240段にも及ぶ場面が色鮮やかに描き出される。

 

 

                       

                          重要文化財 選択本願念仏集        

                 二人の思想の神髄を、端的に知ることができるのが書です。
                 選択本願念仏集は法然の教義書で浄土宗の根本聖典、
                 巻頭の21文字が法然自筆とされる。

                法然はこの書で専修念仏の教えを著し、修行や仏像の造立などで
                往生できるとした従来の仏教を根本から揺るがした。
                法然は非難を予想し、この書を公にせず、弟子の中でも教えを
                深く理解するわずか6人しか書写を許さなかったとされる。
                その一人が親鸞だった。

 

                     

                         国宝  教行信証

               「教行信証」は、親鸞が仏典などの論訳を引用して自身の教えを
               解説したもの。
               親鸞の自筆で浄土真宗の根本聖典。 個性的な筆致で、朱筆や
               書き直し、張り紙をするなど、晩年まで改訂し続けており、庶民と
               同じように、肉食や妻帯を実践した親鸞の思索が読み取れる。

 

 

                          

                    「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

 

           

                   重文 歎異抄 蓮如筆   悪人正機説が書かれた段

           「歎異抄」親鸞の死後、異なる教義を説くものが出たことを嘆き弟子の唯円が
           まとめたとされる書物。 蓮如による現存最古の写本。(部分)

           自分の力で迷いから離脱できる手段を持っている善人が往生できるので
           あれば、手段を持っていないために「悪人」でしかありえない人でも、
           阿弥陀仏による救いを信じることで往生できる。

 

 

          1192年      鎌倉幕府成立

                    法然      親鸞

          1198年    66才 「選択本願念仏集」を著す

          1201年    69才     29才  法然に親鸞が出会い門弟となる

          1205年    73才     33才  法然が「選択本願念仏集」の書写を
                                   親鸞に許す。

          1207年    75才     35才  専修念仏が禁止される
                  四国に流される    越後に流される

          1211年    79才     39才  流罪を許される

                  帰京を許される  関東各地で布教する

          1212年    80才死去

          1221年       承久の乱

          1224年             52才  娘の覚信尼が誕生

          1262年             90才  死去 (新暦換算では1263年)

 

          4月に親鸞誕生の京都をめぐり、比叡山も訪れ、9月に新潟県直江津の
          親鸞流刑地、居多ヶ浜からゆかりの寺社をめぐる旅をしました。
          今回この師弟800年ぶりの再会を見て、法然ゆかりの地も訪れてみたいと
          思っています。

 

 

 


東京都庭園美術館

2011-10-30 08:25:18 | 美術館 博物館

                 港区白金台にある「東京都美術館」が30日で閉館、
                 11月1日より改修工事のため全面休館になるそうで、
                 アールデコの館を見に出かけた。

 

           

            連日混み合っているようで、比較的空いているという夕方4時頃から
            出かけることにしたら、ちょうど最後の3日間はライトアップもされて
            写真撮影も許されて、混雑はしていたけれど、ゆっくり見られました。

 

 

     

 朝香宮邸として1933年(昭和8年)に建てられた建物をそのまま美術館として公開したもです

 

 

           

                    館内に入る前に日本庭園を散策

 

 

           

                     茶室「光華」

 

 

                  

                        池泉廻遊式庭園

 

                  

               蹲、灯篭、飛び石などは全国から名石などを集めて造られています

 

  

              中庭に面した芝生には多くの人が佇み館を見入っていました

 

 

         ライトアップされた建物に戦前に撮影された旧朝香宮邸での日常風景や
         婚儀の際の映像を投影していました。

 

        
       
       

                 外側の壁に映し出されていました

 

             朝香宮家は久邇宮朝彦親王第8王子鳩彦(やすひこ)が
             1906年(明治43)に創立された宮家です。

             鳩彦王は、1910年5月に明治天皇第8皇女充子(のぶこ)内親王と
             ご結婚され、1921年(大正10年)に白金台の御料地1万坪を
             下賜されました。

 

 

 

                

 

                

 

         

                正面玄関ガラスレリーフはルネ・ラリック作

 

                 

                       大客間の奥の明かり

 

                 

                      大客間のシャンデリアもラリック作

 

 

           

 

                 

 

           

                   大食堂壁画  アンリ・ラパン作

 

 

           

                部屋によって全部明かりが違います

 

 

         

               大客間の扉とタンバン

 

          

 

         

         

         

         

 

         

                   朝香宮充子妃殿下像(洋装)

 

 

         

 

                 

 

 

        

                   書斎

 

 

        

 

                

                      ゴールドの美しいペンダントライト

 

 

                

 

 

             

                   ウインターガーデン (床)        

                ワシリー・ラウンジチェアセット (復刻版)

 

 

 

                

 

                

 

 

         

                                    ロイヤルコペンハーゲンの置物

 

 

 

 

                

                 6時からピアノ演奏が始まり、ひと時サティの調べが
                 館内を優しくつつみました。 (演奏は島田璃里さん)

 

 

                

 

          

 

                     

 

                     

 

           

                「アールデコの館」で秋の宵のひとときを過ごしました。

 

 

 

 


箱根ガラスの森美術館

2011-10-23 07:16:40 | 美術館 博物館

                 

                     ガラスの森美術館は賑わっていました

 

 

         

               ゲートは入ると”ガラスの木”が出迎えてくれます

 

 

                

                         小さな入り口を入ると

 

 

                

                    すぐ目の前が開けました池の中のシャンデリア

               パラッツォ・ドゥカーレ・シャンデリア 高さ2,7m、500以上の
               ガラスのパーツによって組み立てられ、地上から空へ向かって
               高くそびえる形態に特徴がある。

 

      

          池に架かる橋、光の回廊は小さなクリスタルガラスがレースのカーテンのよう

 

 

        

                  ライトアップされたらきれいでしょうね

 

 

                

 

                

 

  

 

     

       このシャンデリアを見て驚きました、江戸東京博物館で開催中のヴェネツイア展で
       見たばかりの「ガ・レッツォーニコ」様式のシャンデリアと同じだったのです。

 

 

                

                     

 

           

                   「海との結婚」

            海よ、我は汝と結婚せり。 真に永遠に汝が我がものであるようにーーー
            これはヴェネチアで今日も行われている「海と結婚」の儀式で、海中に
            聖マルコの指輪を投じながらヴェネチアと海との結婚を宣言する際に
            使われる言葉です。

            かつては深紅のガウンと「コルノ帽」で正装したヴェネチア共和国の
            最高指導者がドージェ(提督)プチントーロ(ドージェのご用船)の船首に
            立ち、この言葉を唱えることによってヴェネチアの永遠の海洋支配を
            祈念したと言われています。

 

           

           この船は、在りし日の栄光のヴェネチアに思いを込めて後世のガラス工人が
           制作したもの。

           ドージェの指揮のもとに何度も海の覇権を巡って大戦争を経験したヴェネチア
           海軍。 ヴェネチア共和国の誇りが、再び光のファンタジーとして蘇りました。

 

 

           

                      ドージェ ニッコロ・マルチェッロのモザイク画

             1473~74年にドージェ(提督)の位にあった、マルチェッロ提督は
             金ずくめの衣装をまとうことを好んだおしゃれな人物で、それ以降の
             ドージェがまとうようになったと言われています。

 

 

                     

 

            

           ドルフィン脚赤色コンポート        エナメル彩りワイングラス

             私の中ではヴェネチアン・グラスはやっぱり赤が魅力です

 

 

                

                        童子ピエロのブラケット・ミラー

 

 

         

                 ミルフィオリのスタンド

          ガラス棒で作ったミルフィオリを切って埋め込んで作ります。

          ミルフィオリはトンボ玉制作の時に作ったことがありますが、金太郎飴のように
          模様を作り細くのばしカットして、土台にのせて埋め込み模様にします。

 

                      

                          ミルフィオリ・グラス双耳瓶

 

 

                

                       白レース服の少女

 

           

                   人物キャンドル・スタンド一対

              木彫りの人物半裸像とヴェネチアングラスのキャンドルスタンド

 

         

 

       

        1987年世界文化遺産に登録されたヴェネチアは今では年間2000万人もの
        観光客が訪れ、人々を魅了してやまない、世界でも類のない都市なのです。

 

 

                

 

                

                    庭を散策してみました

 

 

        

                     深紅のバラが一輪、この赤が好きです

 

 

                

                     本当にありそうな気がしたクリスタルのススキ

 

 

                 

                     紅葉の小径を見つけ行ってみると

 

 

                 

                    あじさいのような花を見つけ

 

 

 

           

                  近づいてみたらこれもクリスタル製でした

 

 

                 

                  紅葉はまだでしたが、こんな美しいものが見つかりました

 

 

        

 

                

                      水車のある建物の入り口

 

 

                

 

           

                    素敵な庭でした

 

 

                  

                         ミュージアムショップも華やかでした

 

              今秋いちばん冷え込んだ日でしたが、憧れの美しいヴェネチアグラスを
              見られて心が温かくなったひとときを過ごしました。

 

 

 


箱根ラリック美術館

2011-10-21 07:46:52 | 美術館 博物館

                箱根ラリック美術館はガラス好には憧れのところです。

 

           

               ラリックのカーマスコットを装着したクラッシックカー

 

 

           

                   早い時間だったので人影もなく

 

 

                 

                      林の中の美術館棟に続く道は静かでした

 

                 

                     ルネ・ラリック (1860~1945)

                   アール・ヌーボーとアール・デコの時代を駆け抜けた
                   フランスを代表する宝飾とガラス工芸作家

 

                 

                     香水瓶  「彼女たちの魂」

                  宝飾細工は早くからその才能を注目されていた、
                  その後、香水商コティと出会い、ガラス工芸家へ転身。
                  有名な香水商から注文が殺到したそうです。

 

                 

                      ベッドサイドランプ 「日本の林檎の木」

 

 

                 

                      ペンダント/ブローチ  「冬景色」

 

 

                 

                        ブローチ  「シルフィード(風の妖精)」
                               あるいは、「羽のあるシレーヌ」

 

 

                 

                      建築装飾でも卓越したセンスを発揮

                  1925年アール・デコ博では会場のモニュメントとなる
                  ガラス噴水を制作、大変な話題になりました。

                 息をのむほど美しいジュエリー、眩いばかりのガラス工芸に
                 時を忘れ見入りました。

 

 

           

                  サロン・ド・サラ の庭

            フランスの伝説的女優、サラ・ベルナールに捧げられた一室、ラリック作品に
            魅了されたサラは、数々の宝飾品の製作をラリックに依頼している。

 

 

                 

                           秋の風情が素敵な庭でした

 

                19世紀末に頂点を極めたラリックの傑作を堪能したあとに
                庭を散策してみました。

 

                 

                      ツワブキの咲く小道や

 

                 

                         小川の辺も絵になる秋の景色

                 ”へびがでます”の小さな看板に、この季節なら大丈夫とは
                 思いつつ、奥に行くことができませんでした。

 

 

           

 

           

 

                  

                        ” ショップ パッサージュ ” 

 

                   オリエント急行や豪華客船ノルマンディー号などの
                   建築装飾でも卓越したセンスを発揮するなど、
                   生涯にわたりその豊かな感性と斬新な発想で
                   常に話題を集める存在でした。

 

                   ひとつ残念だったことは、展示してある「オリエント急行」の
                   車内でティータイムを過ごせなかったこと。
                   完全予約制と時間が合わなかったことでした。
                   それは次回のお楽しみとしましょう。

 

 

 


ヴェネツィア展  Ⅳ

2011-10-11 07:16:00 | 美術館 博物館

                     第3章     美の殿堂

                ヴェネツィアのパラッツオには収集室、絵画のギャラリー、
                家族の文書室といった貴重なスペースがあった。

                15世紀には収集家や古物愛好家たちが存在していて
                その収集品は大変有名であった。
                
                博物学的ともいえる基準によって集められた、家門に代々伝わる
                古画や、現役の画家に注文されたり、絵画市場で購入された
                絵画が収められた。

 

                

                  聖母と洗礼者聖ヨハネ  (ヴィットーレ・カルパッチョ)

                我が子を贖い主としての将来の死と復活の運命を予感した
                聖母が、息子に悲しげに祈りを捧げる様子が描かれている。

 

 

                

                    天使より戴冠される聖母子 (ロレンッオ・ロット)

                 ロレンッオ・ロットは16世紀のヴェネツィア絵画において
                 もっとも偉大な主役の一人であった。

 

 

         

                春                        レダと白鳥

 

         

              驚き                          踊り子

 

                      

                            アモールとブシュケ

                「一連のこの絵はどうも向こうの同じ人が選んだようです」
                と学芸員談

 

 

        

                柱廊のあるカプリッチョ(奇想画)  (カナレット1687~1768)

       基本的に想像上の産物で、建築要素はほとんど「実在不可能」なものとなっている。
       カナレットを始めヴェネト地方の景観画家たちは、市場の執拗な需要に応え、
       「カプリッチョ(奇想画)」を非常に精力的に制作した。

 

 

           

              プンタ・デッラ・ドガーナ付近のカナル・グランデ   (カナレット工房)

          描かれた画面はカナル・グランデ入り口付近、左方には「海の税関」が見える。
          多くの船員や漕ぎ手が働く、あらゆる船舶が行き交い、活気に満ちている。
          そこは他の港から到着した貨物や輸出される貨物を通関せねばならなかった。

 

 

           

                  サテール教会付近のカナル・グランデ           

            上の絵とは反対側から見たカナル・グラン出入り口付近の光景。
            「海の税関」の倉庫が反対側から描かれている。  この絵の制作年代は
            上と同じ1740年代はじめの頃。

            右前景にゴシック様式装飾のサン・グレゴリオ修道院が描かれている。
            この修道院は現在では完全に姿を消してしまい、ネオ・ゴシック様式の
            大きなパラッツオに取って代わられてた。

 

 

         

           「アドリア海の真珠」と賛美されるヴェネツィアは、世界有数の観光地。
           7世紀末から18世紀末まで、千年以上ヴェネツィア共和国として栄えた。

           展示は「黄金期」「華麗なる貴族」「美の殿堂」で構成。
           海軍国らしい船の模型、貴族の暮らしを描いた絵や生活用品など158点を
           展示しています。  ヴェネツィアの魅力いっぱいでした。

 

           カルパッチョというイタリア料理、薄切りの牛肉やマグロにホワイトソースを
           かけた前菜、その命名の由来は、カルパッチョ作品だという。
           彼の絵に特徴的な白と赤の鮮やかさを記憶していたシェフが、白いソースと
           牛肉やマグロの赤をそれに重ねたとされる。