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日常生活のあれこれ

 「二条城展」 

2012-09-05 22:07:21 | 美術館 博物館

                 「江戸東京博物館」で開催中の「二条城展」、江戸博友の会
                 恒例の学芸員の方の解説を聞いてから見せていただいた。

 

                 

          天下を治めること。それは京都を治めることなくして果たせなかったことでした。
                    徳川家康が慶長8年に築き上げた二条城は、戦のための拠点ではなく、
          朝廷を敬いつつ掌握するという、幕府が持つ力を目に見えるものにする場所
          でもありました。

 

               二条城の障壁画

          政治の場、儀式の場、そして生活の場である御殿が実質的には城の中心的な
          建物であった。
          その御殿の内部を飾るのが障壁画である。  建物を構成する壁、襖などの建具
          天井に貼り付けられた絵のことである。

 

        

              二の丸御殿 遠待三の間

         二の丸御殿中最も規模が大きい棟で、部屋数は10、その一の間から三の間は
         虎の間と呼ばれるように「竹林群虎」が画題です。

         対面に先だって控えている昇殿者たちを虎たちが威嚇する。 群れの中に当時
         雌の虎と考えられていた豹が混ざっている。

 

                

                   二の丸御殿  遠待勅使の間(上段)

            狩野派と二条城壁画、寛永の壁画制作は、すべて狩野派の手による。
            しかし部屋ごとの筆者の特定については、現時点でも決着は着いていない。

 

          

            二の丸御殿  式台老中一の間 「蘆雁図」 裏方の間を飾った名品

          

             二条城創建   <京に響く徳川の天下>          

           関が原の戦いに勝利した徳川家康は、その翌年から京の城館の築城に
           取りかかた。  着工は慶長7年(1602)で、竣工は同8年三月。

           完成したばかりの二条城では家康の征夷大将軍拝命を祝う宴が催された。
           家康の創建した二条城は、後の時代と異なる構造で、まさに徳川将軍家の
           京での邸宅のようであった。

           また二条城は秀吉没後の豊臣家との争いの舞台に巻き込まれた。
           慶長16年(1611)には家康と豊臣秀頼の対面の場となった。

           一説にこの二条城での会談をもって、家康は豊臣家を滅ぼすことを決意した
           とも言われている。  
           そして豊臣家滅亡となった大坂の陣では二条城は家康の本陣にもなった。
           慶長期の二条城は、波乱の舞台として歴史に登場し、天下に徳川家康の
           覇権を知らしめる役割を担っていた。  (「二条城展」 図録より)

 

                 

                     徳川将軍家の紋を浮き彫りにした鬼瓦

                 

                    櫓や門の屋根から城内を見守ってきた鯱瓦

 

        

             唐門欄間彫刻 松竹梅に鶴と亀

           御殿の栄華を寿ぎ、訪問者を迎える華麗な造形  
                                 (唐門が現在改修工事中で展示された)

   

          

           東照大権現霊夢像  元和九年         東照宮御影  四月十七日拝礼

         徳川家光が夢で見た祖父家康の姿       幕府儀礼で拝された家康の肖像画

 

               

                     洛中洛外図屏風 (部分)

                  天守がそびえる家康が築いた二条城

 

               二条城大改築  <東福門院和子の入内と寛永の行幸>

 

      

           徳川秀忠像                     徳川秀忠像

       神像で表現される徳川秀忠             二条城を拡張した秀忠の肖像

 

       

            東福門院像                   仏舎利宝塔 (東福門院所持)

      幕府と朝廷の融和を背負った凛々しくも       並んだ菊と葵が東福門院和子の
      柔和な面持ち。                      運命を鮮やかに映し出す。

      「東福門院入内図屏風」に描かれているのは幕府と朝廷を結ぶ華麗な行列でした。

 

      

                  

          二条城で後水尾天皇を迎えた、二条城を政治の舞台とした徳川家光

 

 

        

              二の丸御殿 飾金具

        

                 御殿を華麗に彩るかざり職人の技の競演

 

                

                 洛中洛外図屏風  描かれた寛永行幸と家光の二条城
                                         (部分)

 

           

               葵紋銚子   饗応に欠かせない酒器

 

 

              寛永障壁画の輝き <日本絵画史最大の画派、狩野派の粋>

         寛永の大改修に際し、狩野探幽率いる画工集団・狩野派が新調した二の丸御殿
         障壁画は、徳川家が威信をかけて造営した城の御殿とともに伝来した現存唯一の
         作品群であり、豪華絢爛な近世障壁画の代表作として日本絵画史上に燦然と
         輝いている。

         二の丸御殿は、遠待・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の六つの棟から
         なり、障壁画はそれぞれの棟や部屋の機能に応じて描き分けられている。
         狩野派は常に支配者の傍らで絵の御用を務めてきた。

 

  

                 花下遊楽図     狩野長信筆

 

        

                 探幽を支えた長老、春の宴を描く

 

                

                二条城障壁画製作のリーダー、晩年の面影 「狩野探幽」像

 

  

           二の丸御殿  大広間四の間  松鷹図 狩野山楽または探幽作

           将軍の武勇を示す二条城の代表作  

 

        

         二の丸御殿 黒書院廊下杉戸 花籠図   廊下の杉戸にも室内と同じ美的感覚

 

               

              黒書院四の間  菊図  親密な空間を演出する優美な花たち

 

          

 

       白書院二の間   西湖図   将軍のプライベートルーム、白書院の障壁画

 

        

               白書院一の間天井画  花卉図   天井にも豪華な障壁画

 

 

                激動の幕末   <大政奉還の舞台として>

         三大将軍家光が上洛した寛永11年(1634)から後の十代将軍は、二条城に
         滞在することなく、その間、「二条在番」と呼ばれる武士たちが、幕府から派遣され
         二条城の警備・管理を行っていた。

         行幸御殿や中宮御殿などは移築、二の丸御殿も主要な建物を残して解体・撤去
         され、寛延3年(1750)には落雷で天守が焼失、天明の大火で本丸御殿も
         焼失した。
         このように寛永行幸の時から様変わりした二条城は、幕末まで歴史の表舞台に
         出ることはなかった。

 

   

         京都上洛将軍二条城出門の図  

      尊皇攘夷や倒幕運動の波が押し寄せる文久3年(1863)三月、14代将軍家茂は、
      光明天皇の賀茂行幸に御供するため上洛し、将軍としては約230年ぶりに二条城に
      入る。

      幕府の権威回復のため京、大坂、江戸を奔走した家茂は20歳で急逝した。

 

 

        錦絵の題材になった家茂の上洛   「江戸名所尾張町の図」

 

     

        盛装した徳川慶喜の肖像       二条城で大政奉還を決意した将軍徳川慶喜

      

             

                陣羽織 (伝徳川慶喜所用)

            徳川慶喜が所用したと伝えられる陣羽織とナポレオン三世が
            徳川慶喜に送ったと伝えられる軍帽

 

             

              大政奉還 下図  黒書院で大政奉還の決意を述べる

              15代将軍となった徳川慶喜は、慶応3年(1867)10月
              二条城二の丸において大政奉還の意思を発表。
              これが朝廷に伝えられて勅使が出され、幕藩体制に
              終止符が打たれた。
              家康による二条城創建と同年に成立した江戸幕府は、
              その幕引きもまた二条城において行われたのである。

 

                 離宮時代  <華麗なる宮廷文化の移植>

            明治維新後、明治17年(1884)宮内省の所管となり、二条離宮と
            称されることになる。

            江戸中期に御所に描かれていた障壁画が大広間や黒書院の長台の
            間に貼りなおされ、御所近くにあった宮家の邸宅。旧桂宮御殿が
            移築されて新たな本丸御殿となった。

            また二の丸御殿の妻飾りは菊紋の飾り金具が取り付けられ、唐門では
            葵紋を裏から打ち直して菊紋とされた。
            御殿内の内装も離宮にふさわしい宮廷風意匠が導入され、幕府の城は
            新しい時代の宮殿として生まれ変わったのである。

 

             

                  本丸御殿一の間  松鶴図

                幕末京都の狩野派の実力を示す旧宮家の障壁画

 

                 世界遺産二条城  <文化財を守る・伝える>

             昭和14年(1939)二条城は京都市に下賜され、史跡として
             管理されることとなった。
             第二次世界大戦中には、戦火を逃れるため、二の丸御殿の
             障壁画、彫刻、飾金具は一時的に郊外に移された。

 

             

                   保存修理事業

             昭和47年(1972)より二の丸御殿内の障壁画を模写と替える
             「模写事業」が始まり、順次進められている。
             平成14年(2002)から取り外した障壁画の「本格修理事業」が
             開始されると共に、同16年には展示・収蔵館が完成し、原画を
             良好な保存環境のもとに保管し、公開することが可能になった。

             また同6年(1994)には二条城は、「古都京都の文化財」として
             世界遺産に登録された。

             

             もう15年以上も前のことになりますが、二条城の障壁画などの
             修復作業の部屋を見せてもらったことがあります、休憩時間で
             実際に作業は していませんでしたが、部屋の雰囲気を今でも
             よく覚えています。

 

             江戸初期、徳川家康の建造した二条城は、京都観光のうち、
             年間1,2を争うほど多数の人々が訪れているそうです。

 

                「二条城展」は江戸東京博物館で9月23日まで。


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