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北条家の敗北要因を知る『小田原合戦』

2024-09-09 07:44:17 | 歴史から学ぶ
北条家の敗北要因:北条氏は広大な領土関八州での佐竹氏や宇都宮市などと攻撃・協定・和睦・敗退の繰り返していたこと、また最後まで家康との協定を堅持させたいと思ったが秀吉の人質(家康への秀吉の妹・母を人質に出し家康が秀吉の配下)で強力な人脈補強不足で協定がぐらついた。更に伊達政宗からの支援が無くあっけなく敗北した経緯がある。だが、北条家の敗北の内部的根本は氏照と氏直との軋轢、氏照の八王子城を見捨て当主を欠いた弱腰戦略と小田原城での各拠点の戦力のない人質含め4万人以上が籠城していたことだ。現代、北条氏の敗北で学ぶ事は、企業の弱点は必ずや内部からの告発・抗争・派閥争いなどの要因が外的要因と重なった時に大きな動きとなることだ。それはマスメディアとの不和だったり、自我自尊が強く競争相手との不順な戦略が命取りになる事だろう。
『小田原合戦』下山治久
「概要」後北条氏はなぜ秀吉から攻略を受けたのか。小田原合戦における後北条氏の動向を近年の戦国史研究の成果をもとに解明。秀吉の天下統一戦における小田原合戦の歴史的意義を探る。
ー北条家にとっての脅威・小田原合戦への予兆
    北条家は伊豆、相模、武蔵、下総、上総、駿河、下野、上野を支配(関八州)
    北条氏政は武田勝頼に妹をとがせ織田に対抗意識を持たせる
        周りに囲まれた敵国、今川・武田・織田・徳川・関東周辺に広がった反北条軍勢
    織田が今川義元を桶狭間の戦いで破り徳川家康と同盟を結ぶ
    甲斐・信濃の守護職の武田勝頼は織田・徳川・北条で包囲され敗北(長篠の合戦)
    今川・織田・武田の3国の当主がそれぞれ亡くなり国替えの時期を迎えた
    織田は滝川一益に関東官領職を与え北条領土を攻め関東一円での勢力を拡大
    北条は甲州武田での攻めで徳川との和睦協定(徳川の督姫を北条氏直に嫁がせる)
    徳川は三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国を領土とする大名になる
    秀吉vs徳川での長久手の戦いには北条は参画せず関東一円での佐竹らと小競り合い
    秀吉と家康の和睦で北条は脅威であったが家康の支援、伊達政宗へも同名の期待した
    北条氏直は鉄砲の装備に力をいれる(鉄砲は主に近畿地方のみで硝煙材料は輸入品)
    秀吉が関白になり真田昌幸が織田を離反し北条はこぞって家康の味方に馳せ参じる
    秀吉と家康との和睦・人質条件(妹の朝日を嫁がせ、母を人質)で秀吉の配下となる
    秀吉は全国に「惣無事令」(紛争処理・交戦権を関白が命令)で北条を押さえつける
    北条は防衛の為の小田原・八王子普請を急がせ秀吉に対しての対抗姿勢を出す
    農兵徴用命令を出すなど武器兵糧などの備蓄も万全体制を敷く
    上野の沼田城の領有権で北条氏と真田昌幸の領土策定問題が秀吉の怒りを駆った
    1589年11月24日から秀吉は北条攻めの準備を開始
        秀吉軍21万騎に対して北条軍3万42百騎(地方を入れて10万騎という説)
    秀吉による全国統一の総仕上げとして小田原合戦が始まる
        12月25日の韮山城を攻めたが長期戦の覚悟、20万石の兵糧と2万枚の黄金
        箱根峠など容易く突破し小田原城を包囲(小田原城には約10万の人が籠城)
        1590年4月27日江戸城開放など家康の快進撃、関東奥地の多くの城を陥落
        6月22日秀吉の一夜城構築・石垣城は80日で建設
ー小田原城の陥没
    5月22日岩槻城が陥落、家康は下総、上総などの諸城を陥落させた
    八王子城の城主氏照が人質をとって小田原城へ、八王子城は僅か半日で滑落
        八王子城に残った兵は4千人ほどで前田、上杉、真田の5万の大群で攻撃を受けた
    秀吉の訓戒で前田利家など一時謹慎処分となる(小さい城だけを攻撃したこと)
    小田原城主氏直と氏照との軋轢による戦略総意の仲違い
    1590年7月11日小田原城開城、忍城も、山中城も3ヶ月後開城となる
    氏政、氏照、松田憲秀、大道寺政繁は切腹、氏政は家康の督姫と離縁後、高野山へ追放
    関東6カ国を家康に与え信濃は真田、甲斐は加藤、伊達政宗は秀吉の配下となる



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