@秀吉に仕えた茶の湯・茶人法号名利頓休(利休)は茶への目利き以上に茶を飲んでもらう客人に対しても最高のおもてなしをしていた。心に残るおもてなしで利休は、多くの茶人もさることながら朝廷・公家・武将たちの心を掴み一流の茶人となった。秀吉の利休に対する最後の命「切腹を申付ける」では何が背後にあったのか、どうしてこのような最後を迎えることになってしまったのか。この小説ではやはり秀吉を超える器量が天下を狙う者に映ったのかも知れない。物的証拠(山門の利休像)で世間の目を誤魔化しているかも知れないが、やはり天下人秀吉の恐れは「次の天下人」を恐れ、生きている間に亡き者にする事だに違いない。平和な時代を迎えた秀吉は人の心を掴む茶の「巧み・技」から、次の天下人は武力では無く茶の湯から「心からの敬愛・尊敬される人物」だと悟ったことではないだろうか。 現代の敬われる人材とは、ここにある仏典・三毒の焰「貪欲・瞋恚・愚痴」(むさぼり・怒り・愚かさ)を心得ていることかも知れない。人に対する心からの「おもてなし」(気配り)は、学ぶところが多い。
『利休にたずねよ』山本兼一
- 茶人は常に命がけで絶妙の境地を求める。最後まで己の美学を貫き、天下人秀吉に疎まれ、切腹を命ぜられた千利休。心の中にいつも潜んでいたのは、19歳の時に殺した女だった。利休に艶やかな感性を与えた、その姫た恋と人生の謎に迫る。
- 魚屋の千与兵衞の息子与四郎(名利頓休・利休当時19歳)は茶の師匠武野紹鷗から預かった高麗の女(三好一族将軍長慶に差し出す女)を国許に帰すことで共に逃亡するが追い詰められ 利休の持っていた毒を飲み心中を図る。が女は死に、利休は自殺できず師匠に匿われる。この高麗の女が利休の茶の心になり「茶の神髄」を追求するようになる。(初恋の思いが生涯の遺恨となる)
- 信長の名物狩りの市に宗易(利休)の持ち込んだ水墨画は信長の悪評価となりその場で破り捨てるという事態になり信長の茶頭は津田宗及。
- 利休の最初の茶の間は「待庵」、北向き、前代未聞の2畳であった。窓は竹の格子、縁側は無く、障子戸もつけず、天井はいくつかに仕切って広くみせ、腰を折って入る小さな潜り戸(79cm)、部屋の壁には軸をかけず、花を活けず、虚ろなままにしていた、それは心を落ち着かせる世界を作った。
- 秀吉は利休の茶の道具を随分巻き上げたが、釉薬の入った小壺だけは譲らなかった。利休の茶の湯の心・精進は「あの女に茶を飲ませたい」それだけを考えた。釉薬を入れる小さな壺にはあの女の爪(形見)が入っておりいつも肌身離さず持っていた。その小壺は瓦屋の絶妙な釉薬の技術で作り上げた軽く手の平に馴染む絶妙な壺となっていた。
- 帝から賜った法号名利頓休・利休は秀吉に仕え茶頭となるが、「お前は恐ろしい男だな」と言われるくらい茶の湯で人々の心を掴む技を持っていた。茶に対する鋭い目、鋭い気、鋭い全身など、茶に対するものは全て武将の世界にも及ぼすと秀吉は観た。秀吉の恐れは利休の茶の信念が秀吉を超えることを恐れた。それは一つの例として島津征伐の際には利休の懐柔する文で戦わずして島津は恭順したこともあった。
- 秀吉の黄金の茶室は帝・朝廷の肝を驚かせる利休の発案からのもので、金を15貫目、茶の釜(18貫目)にも大金を費やして購入していた。
- 利休の茶の湯でのおもてなしは秀吉の嗜好を巧みに仕込み、茶の濃さ、熱さ、茶菓子、その後の酒と飯・おかずなども用意周到に用意していた。旬で時期に筍の料理、青竹に鞘に入れた輿米菓子など。秀吉の期待を必ず良い方に裏切って、いつも予想しない美味しいものを用意、思いかけぬ趣向で驚かせた。利休の茶の湯に対する美しさからくる侘び寂びはいつも境地を求めていた。利休の茶の湯の点前には人の動きを心得ており道具の持ち方、あしらい方等に無駄がなく自然だった。
- 秀吉の利休を死に追いやった理由は山門の上に茶頭風情の草履を履いた利休の像であった。帝も関白もお通りになる大徳寺山門である。その時の利休は秀吉の家臣から見た利休は、いくつもの顔を持っており、慇懃、傲慢、繊細と思えば無頼、摩訶不思議な茶人だと言われた。最後まで寺が独自に作った山門の木造に対する詫びる気持ちはなく、秀吉の詫びさえ入れれば恩赦をすることに依怙地になっていた。
- 人の世には三毒の焰「貪欲・瞋恚・愚痴」(むさぼり・怒り・愚かさ)
- 利休には宗恩という正室に二人の男の子があったが10になる前に亡くなり、妾が二人いた。
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