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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

江口 週/考。

2012-10-14 06:04:34 | 美術ノート
 神奈川県立近代美術館/鎌倉で開催されている「江口週展/漂流と原型」
 
 1960年《木(さくら)》
 この作品を見ていると(この亀裂さえなければ)という印象を抱く。しかし、そうではない、この亀裂に向かって、作家は格闘している。木である痕跡を消去するためと言ってもいい。木でありえないようなフォルムを模索、まったく別の存在に変換させるべく・・・存在というより内的宇宙観といったほうが適切かもしれない。自然の営みの大意。硫酸酸化第一鉄によって黒く染上げる別物への手段。
 しかし、この木の亀裂はそれに拮抗し主張する「わたくしは木である」と。この不可思議とも思える闘いの証明がこの作品である。

 1965年《鍬形の碑 No.5》
 木という素材を媒介にしている以上、どうしても何かを連想させる。質量形は設置空間を変質させる存在である。であれば、どんなに否定しても仕切れない造形としての近似が生じてしまう。いっそ鍬形と限定してしまったほうが余計な考えを除去できるかもしれないという作家の意図を感じる題名である。作品そのものは、木であることを想起させない形を目指している。木であるというより、自然には存在しない形を意図したのではないか。木がこんな風に婉曲するとは断じてありえないからである。U字型にも歪みが認められるし、第一円筒形の筒型の欠損など人工の技以外の何ものでもない。固定されているが、元来立ち処ろを失った物のようにも見える。鑑賞者が向き合った際、どこにどう対峙したらいいのか戸惑うばかりである。
 木を死(枯れているが本当の死であるような)に追い込んだ形状(彫刻)、しかし、木は木であることを止めず、木そのものであることを、その重さ、手触り、質感、香りで主張している。
 作家は強靭な策を弄して、木を木の本質から遠ざけようとしているが、木はその本質を持って木でしかないことを主張する。このせめぎ合いが、作品の内なるエネルギーとなって沈思の感動を与えている。

 1972年《痕跡を持つ柱状のかたち》
 あきらかに人の手による痕跡のある木。垂直に立ち、組み立てを想起させる十字の切り込みがある。自然界に垂直はない。十字という形状も人為的なものである。
 痕跡を持つ・・・作家は肯定的な立場からストレートに木に応酬する。柱状であると、建築物の一端を担うパーツであると提示する。このことで木は木としての尊厳を傷つけられるが、木は木であることを自ら止めることは出来ない。しかし、作家はむしろ木に対する敬意を表しているに違いない。そのためにももう少し高い位置での提示ということを考えていたと思われる。奉ってもいいという風でもある。

 1984年《あるはじまりのかたち》
 簡略化した人体(女)に見えるこの作品、抱擁と、少し膨らんだ胸とお腹。しっかり立っているが、バランスを見ると危うい感じもしなくはない。
 台座の余白には男が・・・。つまりは人の誕生、原初である。

 1996年《記憶の解体》
 がっしり組まれた椅子をも想起させる作品・・・細部にはささくれ立ったような切り込みの痕がある。
 木そのもの、むしろ木である重さに耐えている感すらある作品。
 この作品の前には十字の作品(木)ともう一つ、つまり三つの作品で一つの空間設定を果していたらしい。
 この作品を見れば、衝動的に座りたくなるのはごく日常的な心情である。しかし椅子としては少し高い位置に座席がある。もちろん座れるが、(作品であれば座ることを想像するしかないが)当然足をぶらつかせることになる設定。座った人間は十字を足の下に見ることになる、足蹴にする角度と言い換えたほうがいいかもしれない。十字といえば、宗教面でも天の南北の十字でも、崇高というイメージがあり、到底足蹴は拒否されるべき否定されるべき設定である。
 人間優位の椅子、十字に対する畏敬の念・・・ここで木は木である主張の影を落す。人間の観念(至高なものへの崇拝)は、物を軽々と越えていくことがある。
 しかし、これはあくまでも人間の側からの思い込みに過ぎず、木は木として在り続けるしかないのである。

 2012年《方形の構図》(写真)
 わたしはこれを見て、考え込んでしまった。何気ない風に置かれたこの三つの木。(作家が木であるというので木と書いているけど、これは建築現場に置かれた木材の態でもある)
 座るには倒れそうだし、低すぎる感もある。この三つの相関関係に意味を見出せない。
 しばらく眺めているうちに、作家は人為的意味を廃しているのではないかという疑惑が頭をもたげた。空間設定という力学的意図が欠如している。直方体ではなく少し歪みの認められる形の三点は何かを想起させない。むしろ想起を拒否している感さえある。「木が在る」という状況は、美ではないが、真(ありのまま)ではある。人が立つように、木が立っている風景。奇妙だけれど、木が主役であり、人の考えを介入させないような黙示がある。
「木そのものの存在」であり、図りごとの消去である。つまり、人の優位性の撤退、木が生きていること(二度目の生)への畏れであり、存在の同等性を提示せしめた作品ではないかと思う。
 長きにわたって考えた木との格闘、木は木で在り続け、人はその本質を侵せない。釘を一本も使わない日本古来の木組みの手法は、木が生きているものとしての扱いから生まれている。木の中に宿る霊への畏敬の念にほかならない。

 木の中に眠る長い年月は、物言わぬ確かな精霊が宿っている。木であることの誇りは人間との共存を約束し、人間の横柄な扱いにも耐えている。
 作家は木を素材として、木との対話を怠らなかったはずである。逆目はいけない、あくまでも正目は第一の基本であるとし、見えているイメージ(信念)を形作ってきた。もちろん即興的な変異は必然のこと、あるがままに木に対峙してきた作家の謙虚にして言葉少ない発言の中に貫き通してきた「宇宙の中のわたし」と「宇宙の中の木」という相関関係の密度にふれたような気がした
昨日のアーテストトーク、やっぱり現場に感動はある!(ありがとうございました。)
 
『漂流と原型』換言すると『時間と存在』であり、『木に対峙した思考の経由と、本質の主張』ではないかと思う。

『ひのきとひなげし』20。

2012-10-14 05:48:25 | 宮沢賢治
 東の雲のみねはだんだん高く、だんだん白くなって、いまは空の頂上まで届くほどです。
 悪魔は急いでひなげしの所へやって参りました。

☆等(平等)が運(さだめ)である考えを吐く(言う)。
 空(根拠のない)超(程度をこえた)章(文章)を届ける。
 和(争いをおさめる)真の救い、暑(多くの)惨(いたましいこと)の。

『城』1063。

2012-10-14 05:34:52 | カフカ覚書
「わかりました。では、ここは一応、シュヴァルツァーは火球執事の息子だというわたしの言葉を信じていただくことにしておきましょう。ところで、わたしは、当地に着いたその日にうちにこのシュヴァルツァーなる男といまいましい鞘当てを演じてしまいました。

 日/Tage→Tagen/わかる、理解する。
 到着/Ankunft→ankanfen/土地を買い定住する。

☆わかりました。では、ここでは一応シュヴァルツァー(暗黒)は要塞に沈んだ太陽だということにしておきましょう。ところで、わたしは土地を買い定住することを理解しているうちに、いまいましい先祖が出現したのです。