続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『1-1-9 無題』

2019-08-30 07:06:22 | 美術ノート

   『1-1-9 無題』

 無題、名付け難い感情の具現。有るが見えず、見えるが存在を確定し難いもの。
 顔はあるが下部は涙型の球体であり、立脚が不能な態である。

 存在とは安定して地に着く事だったろうか。もちろん横にしたり転がしたりすれば落着くが、人の顔がある以上足で立つことが基本だと思いがちである。物理的には望ましい形態、常態を思い描く。

 しかし、肉体の内部、精神(心理)における形態を推しはかる時、必ずしも重力下において立つという論理は当てはまらない。脳と直結する心理・思考を形に定着することは視覚に保証がないのでどうにでもできる(拡散・抽象)。しかし、あえて凝縮という球形にしている。

 閉じている。
 心理は走り出すことも飛翔もせず、移動(前後左右)の術もない状態である。思い留まる一刹那の描写かもしれない。
 自動的ではなく他動に委ねる・・・自らの発信ではなく外部のエネルギーに依存する態である。

 見ること、感じることの振幅は、自己内部ではなく外部(景色・時間空間・歴史)からの熱量に反応する結果かもしれない。


 写真は『若林奮 飛葉と振動』展・神奈川県立近代美術館より


『セロ弾きのゴーシュ』91.

2019-08-30 06:43:16 | 宮沢賢治

「あゝあ。鼠と話するのもなかなかつかれるぞ。」ゴーシュはねどこへどっかり倒れてすぐぐうぐうねむってしまひました。
 それから六日目の晩でした。金星音楽団の人たちは町の公会堂のホールの裏にある控え室へみんなはぱっと顔をほてらしてめいめい楽器をもって、ぞろぞろホールの舞台から引き上げて来ました。


☆蘇(よみがえり)の話(ものがたり)である。
 等(平等)を録(書き記し)化(教え導くこと)が目(ねらい)であり、番(くみあわせる)。
 混ぜた章(文章)は隠れている。
 絡(つながり)は、談(話)の図りごとを徴(集める)考えである。
 解(ばらばらにして)道(物事の筋道)の理(道理)を考える質(内容)である。
 信仰との絡(つながり)の記は毎(その度に)替(入れ替え)韻(音)に頼る。


『城』3255。

2019-08-29 07:33:51 | カフカ覚書

このさい、個人的感情なんかは、斟酌するわけにはいきません。当たりまえの話ですよ。だから、この件についてこれ以上すこしでも議論をすることはお断りします。


☆個人的な感情など、氏族への顧慮などは取り除くようになるでしょう。理解し得ることです。それゆえ、少しでも核心に触れることはありません。


若林奮『1-1-2 Untitled』

2019-08-29 06:46:23 | 美術ノート

   『初期彫刻/Early Sculpture』
    1-1-2 Untitled 1957

 初期の作品は直線ではなく球体である。
 凝縮、説明のつかない曖昧さ、しかし厳然と存在するものである。球体に近いものは宇宙において自然に形成される形態である。
 在ることの原初、自分に対峙するもの、等しく見つめ得るもの。

 凸凹があり、各所に連続した丸い穴が任意に開いている。この空洞は何だろう。整列には規約の意があり、社会性など人為的なエネルギーの集約にも見える。感想は重複してそれを受け入れる態である。

 完全な球体ではなく歪んでいる(ごく自然態である)、故にこの物の重心は一つしかなく回転を余儀なくされることはない。この物には焦点はなく距離(空間)はこの物の中で完結してしまう。つまり対象を見るという眼差しではなく、自己内部の主観的な景色である。
 確率の高い安定ではなくむしろ不安定で曖昧な立ち位置を死守しているとさえ言えるが、転がしても再びこの位置に戻るに違いないと思われる。

 彫刻とは見える対象の具現化(抽象をも含めて)であるが、この場合、精神、内的感情空間の具現化のような気がする。
 強いて言えば、世界は表裏一体である。

 1-1-1 Untitled


 写真は『若林奮 飛葉と振動』神奈川県立近代美術館より


『セロ弾きのゴーシュ』90.

2019-08-29 06:19:54 | 宮沢賢治

「いや、そのことではないんだ。たゞたべるのかときいたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待てよ。その腹の悪いこどもへやるからな。」
 ゴーシュはセロを床へ置いて戸棚からパンを一つまみむしって野ねずみの前へ置きました。
 野ねずみはもうまるでばかのやうになって泣いたり笑ったりおじぎをしてから大じさうにそれをくはへてこどもをさきに立てて外へ出て行きました。


☆字に複(重なるもの)を和(調合する)章(文章)である。
 質(内容)の個(一つ一つ)には法(神仏の教え)が逸(隠れている)也。
 繕(つくろう)質(内容)也。
 究める照(あまねく光が当たる=平等)がある。
 律の我意を推しはかる講(話)である。


若林奮『振動尺試作Ⅳ~Ⅶ-あるいはスプリング蒐集改(2nd Stage)』

2019-08-28 06:54:24 | 美術ノート

   『振動尺試作Ⅳ~Ⅶ-あるいはスプリング蒐集改(2nd Stage)』

 スプリングって何?・・・跳躍台、ばね?
 台座はいつものように浮いている。
 4種類の振動尺が並列している。酷似しているが、各々微妙に異なっている。この差異は何だろう。
 角が丸みを帯びたもの、線状が幾本もあるもの、亀裂(分断)があるもの、ストレートだが多少距離の短いもの、どちらが前面だか説明がないが、それぞれ異なる表面処理がなされている。

 振動尺・・・分かり難いが、時間を伴い、距離も必然的に関係する空間における現象である。
 現象を測る、つまり目に見えない、認めることが困難な抽象的な仕事の具現化を、鑑賞者は何度も反芻しながら近づいていくしか術がない。

 スプリングとは何を示唆しているのだろう。風などの外力による共振の形だろうか。
 対象に対して目を開き、その時間と空間の質を確認する。(厳密には空気の中の原子は常に振動しているが)ミクロの目で見るということではなく、精神の目で測る試みである。不可視なものを触覚で確認するという仕事に対して、鑑賞者は否定的にならざるを得ないが、譲歩して見るという第一歩である。《見えないものを見る》という基本に副いたい。


   写真は『若林奮ーVALLEYS』横須賀美術館より


『セロ弾きのゴーシュ』89.

2019-08-28 06:25:41 | 宮沢賢治

「ああよくなったんだ。ありがたうございます。ありがたうございます。」おっかさんのねずみもいっしょに走ってゐましたが、まもなくゴーシュの前に来てしきりにおじぎをしながら「ありがたうございますありがたうございます」と十ばかり云ひました。
 ゴーシュは何かかあいさうになって「おい、おまへたちはパンをたべるのか。」とききました。
 すると野鼠はびっくりしたやうにきょろきょろあたりを見まはしてから
「いえ、もうおパンといふものは小麦の粉をこねたりしてこしらへたものでふくふく膨らんでゐておいしいものなさうでございますが、さうでなくても私どもはおうちの戸棚へなど参ったこともございませんし、ましてこれ位お世話になりながらどうしてそれを運びになんど参れませう。」と云ひました。


☆双(二つ)の全ての記は自由に運(めぐらせている)。
 化(教え導く)也。
 蘇(よみがえり)現れる照(あまねく光が当たる=平等)は、爆(はじけ)奮(ふるいたたせる)望みである。
 詞(言葉)の途(すじみち)は、法(神仏の教え)である。
 太陽の畏(尊敬すべき)意(考え)に和(調子を合わせて)して、運(めぐらせている)。
 太陽の薀(奥義)である。


『城』3253。

2019-08-28 06:14:12 | カフカ覚書

ですから、フリーダという女は、即刻酒場にもどらなくてはならないのです。酒場にもどったらもどったでまた障害になるかもしれませんが、そのときはまた出ていってもらうまでです。しかし、いまさしあたっては、どうしてももどる必要があります。


☆フリーダ(自由)は直ちに再び酒場(転換点)にもどらねばなりません。多分、まさしく妨げになるかもしれませんが、その時は出て行くようになります。しかし、差し当たりは戻らねばなりません。


若林奮『振動尺試作Ⅲ』

2019-08-27 10:04:35 | 美術ノート

   『振動尺試作Ⅲ』

 振動が一定ではないこと、対象物(焦点)との間に感じるストレス、違和感は潜在意識の中で解消され《無/空間》として理解される。
 しかし、異物は時空の中に必然的に存在する。

 振動は必ずしも一定ではない。
 感じうる時空は視界に映る凸凹を削除し、直線的に集約される。拡散であると同時に集約である形、眼差しは一方向のみであり、背後に視線はない。
 音や光波に交じる建物あるいは山川などの風景は、眼差しの中で簡略化され、無意識下に昇華されていく。

 精神的な眼差しや精神的な質的変換は、現象としては証明できない。永遠の試作として曖昧さを残したまま触覚による再現に問うしかないのではないのではないか。


 写真は『若林奮ーVALLEYS』横須賀美術館より