続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

六月尽。

2014-06-30 06:46:24 | 日常
 ちょうど半分、一年の半分が経過・・・ああ、という思い。否定も肯定もない、動かしがたい事実だから一存を持っての進退はあり得ない。

 ありのままに甘受せざるを得ない現実の重み。時の経過を厳粛に受け止め、むしろ感謝の意を持ってこの変移を享受すべきなのだと思い直す。押し出されて今があるのではない、一歩一歩進んで来たからこその今日を、悲観の色に染めたりしては不敬である。

 時の流れは誰も止められない。「ちょっと待って!」はありえず、「置いてきぼり」もない。ただ自分自身の感覚にズレが生じて、時空に対する錯誤に迷い込むことは往々にしてあるかもしれない。
 少なくとも西暦においては、半分を終える六月尽である。

(淋しいなどと感傷的になっている暇はない、とにかく前へ進むのだ!)というほど威勢もないけれど、従順に暦に従って季節の情緒を楽しむような風流人になれたらと夢想する。
 
 自分が生きる世界ではない、世界(時空)の恩恵により生かされて在る自分なのである。時空への慕情、六月尽・・・。
 時間と空間という見えない大宙の中で、日々新しい自分と向き合う、覚悟を持って過ごしたい。

『ポラーノの広場』382。

2014-06-30 06:32:04 | 宮沢賢治
だんだん近くなりますと、それは頑丈さうな変に小さな腰の曲がったおぢいさんで、一枚の板きれの上に四本の鯨油蝋燭をともしたのを両手に捧げてしきりに斯う叫んで来るのでした。


☆襟(心の中)の願いは常に遍(もれなくいきわたる)照(普く光があたる=平等)である。
 耀(光り)の極(いきつくところ)は、万(すべて)の死の翻(つくりかえ)である。
 お迎えの由は、老いに嘱(ゆだねて)了(終る)。
 主な法(仏の教え)は、死と共に雷(神なり)→神になるということである。

『城』1668。

2014-06-30 06:05:46 | カフカ覚書
まだすっかり服装をととのえおわっていなかったKとフリーダは、自分たちのささやかな財産がめちゃめちゃになってしまったのを呆然とながめていた。助手たちは、あきらかい服を着ようなどという考えはなく、ふとんのなかから首をのぞかせ、生徒たちは、それを見てさんざんおもしろがっていた。



☆まだ完全に兆しは見えなかった。Kとフリーダ(平和)は自分たちの所有している小舟が棒にもたれかけられ、だめになるのを見た。助手(脳、知覚)は、明らかにその兆しを考えようとはせず、覆われたがらくた(いかさま)の権力を非難した。

自明の理。

2014-06-29 06:59:39 | 日常
 たまに「何も食べないのに太るの」という人がいる。黙って聞き流しているけれど、食べずに太るというのは、そういう気分に過ぎない。

 「太っている人ってすごいわ、なんか向き合ってしゃべっているのに、彼女のお皿はいつの間にか空っぽなの」と少食で親を困惑させた従妹のAちゃんの驚愕。
 やっぱり旺盛な食欲ゆえの・・・。

 何回か同じ時刻の電車を待ち、見かけた女の人がいる。隅っこの同じベンチの端に腰掛け、コンビニの袋を開けサンドウィッチを二パック食べる、いつもパターンは決まっている。
 多分朝食なのかもしれないが、それにしても片隅でとはいえ、混みあう場所で食べ物を口にする勇気は強い欲求無しには出来ない芸当。当たり前のように非常に太めであることがわたしの胸を痛めた。(ああ、やっぱり食べれば太るのね)

 近所に「生活保護を申請しています」と言っていた一人暮らしの50才くらいの巨漢がいる、どうしているのかは知らないが見る間に痩せたのには、びっくり。「ぼくは、数日間何も食べないでいても平気です」なんて言っていたけど、(食べないと痩せるんだ)と、心底驚いてしまった。


 友人に「わたしは呆けても、徘徊はしないわ、だって太って今より歩けなくなっていると思うから」と言ったら、
「あら、うちのおばあちゃん、呆けたら痩せちゃって、歩けなかったのが歩き出してどこへでも姿を消して大変だったのよ」とのこと。

 痩せれば、足の不具合は解消されるんだ・・・そういえば整形の医師に、
「今の体重のままだと十年後には・・・」と忠告され、「・・・はい、気をつけます」と、きっぱり。


 ああ、自明の理、分かっているけど・・・。

『ポラーノの広場』381。

2014-06-29 06:43:09 | 宮沢賢治
 そのうちに、私は向ふの方から、高い鋭い、そして少し変な力のある声が、私の方にやって来るのを聞きました。

 私はシと読んで、此。
 向ふはコウと読んで、講。
 方からはホウと読んで、法。
 高いはコウと読んで、光。
 鋭いはエイと読んで、永。
 少しはショウと読んで、照。
 変なはケンと読んで、遍。
 力はリキと呼んで、力。
 声はショウと読んで、照。
 私のはシと読んで、志。
 来るはライと読んで、頼。
 聞きましたはブンと読んで、文。


☆此の講(はなし)には、法(仏の教え)の光がある。
 永(いつまでも続く)照(普く光があたる=平等)には、遍(あまねくゆきわたる)力(精神的な力)がある。
 照(普く光があたる=平等)を志す法(仏の教え)に頼む文(文章)である。

『城』1667。

2014-06-29 06:14:53 | カフカ覚書
オイル・サーディンの油とコーヒーの残りがながれだし、コーヒー・カップはこなごなに割れてしまったが、女教師は、そんなことにはいっさいおかまいなしで、すぐに片どけるのが小使の任務ですよと言わんばかりの涼しい顔をしている。


☆何よりもまず、引きつるような馬鹿話を読むと、ひどい馬鹿話の傷があった。、教示は罪過を見なくても、すぐに愚作として整理されるべきだという。

楽しい造本づくり。

2014-06-28 06:42:07 | 日常
『かんたに出来る手作り造本講習会』横須賀三浦教育会館にてー10:00~12:00/根本義孝先生

 この記事を見て、即申し込んだ。絵本は夢の領域で、とても出来そうもない、それでも手掛かりとなる造本は是非作りたい!

(でも、二時間でできるの?)
「何かのキットを使うんですか?」と先生に質問。
「いえいえ、ぼくのは自己流でして、『ダンボールがあれば』という式です。じつはダンボールフェチでしてね、ダンボールを見ると楽しくて~」と、先生。(なんてステキな先生なんだ!)

「ぼくの作った造本が真ん中のテーブルに置いてありますから見てください。」
 なるほど、面白くて楽しい、アイデアいっぱいの造本の数々・・・(なんかすごく楽しそう~)
「抽象を描かれるんですか?」
「抽象でも具象でも彫刻でも何でもです」と、先生。

(何のこだわりもなくて、なんかすごくいいわぁ~)なんか笑いたくなっちゃう感じ。

 教えられるままに手を動かしていたら、あら不思議、何となくそれらしいものが完成。(十分ステキだし、簡素、素朴な雰囲気で、わたしの気持ちにぴったり!)

「中身は自分で作ってくださいね」と、先生。
(それが問題、でもきっと頑張ってみます!)

 根本義孝先生ありがとうございました。

『ポラーノの広場』380。

2014-06-28 06:27:10 | 宮沢賢治
向ふでもこっちでも、繃帯をしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいていました。

 向ふはコウと読んで、交。
 繃帯はホウ・タイと読んで、法、他意。
 顔はface→Faith(信仰)。
 人はジンと読んで、仁。
 火はカと読んで、果。


☆交(入り組む)法(仏の教え)の他意は、信仰であり、仁(博愛や同情の心)による果(結果、終末)である。

『城』1661。

2014-06-28 06:13:03 | カフカ覚書
ところが、それをあきらめても、なんの役にもたたなかった。そのとたんに、こんどはがちゃんという大きな物音が起こったのだ。というのは、運の悪いことに、昨夜の食事の残りを教卓から片づけておかなかったからである。おおな教師は、教卓のうえにあったものをことごとく定規で払いのけてしまった。なにもかも床のうえに吹っとんだ。


☆ところが、それをあきらめても、助けにはならなかった。そのとたんに、こんどは先祖の大きな騒ぎが起こったのだ。というのは、不運なことに、死の伝説(作り事)を読解するマイナス(負)を取り除けておかなかったからである。初心者は負であるなにもかもを血統と共に遠くに隔ててしまった。すべては現世のほうへ吹き飛んでいった。

料理ベタ。

2014-06-27 06:44:39 | 日常
 料理が不得手である。食べるものがあればそれで満足という育ち方をしたせいかもしれないけれど、妹は上手だし得意そうでもある。何につけても少しの工夫を付け加え、彩を考え、食べる人を喜ばせようとする。

 持って生まれた資質の違い?
 惣菜の範疇ではあるけれど教室にも通いそれなりの努力もしたけれど、意欲に欠け上達などは夢の夢・・・。

 それでも料理番組を見るのは大好きだけど、その微妙な極意と言うものに反応できない。見ているだけというお馬鹿な状態を脱することがない。
 単純に「塩麹」がといえば、それを作り真似をする。「レモン塩」がといえば、すぐに飛びついて作ってみる。でも、そのレベルで留まってしまう、つまりはワンプロセス、ワンパターン。

 美味しいものは毎日食べている(?)なぜなら、何を食べても美味しくて食べ過ぎる傾向を押さえているのだから。

 過日、人参の切れ端を食べていたら息子たちに「お母さんばっかりずるい!」とねだられたので、「えっ、これが食べたいの?」と差出し、呆れられたことがある。「そんなもの、おいしそうに食べないでよ」と。


 こんなわたし、「お母さんのアレが食べたい」と言われることがない。料理ベタは人生の大きな損失だと今さらながらに愕然とする。(本当にごめんなさい)

 長男は一人暮らしだけれど、料理が得意かもしれない。バイトで習った調理法を披露してくれたこともあるし、弟の結婚前には皆を招いて食事会を催してくれたりしている。毎年ラッキョウも浸けている由、教えなくても・・・の口である。
 次男は所帯を持っているので、わたしが心配することもないと思っている。

 
 栄養バランスだけは、考えているつもりのわたし・・・。息子たちの食卓を気にしている。(どうか身体に良い食事をして人生を全うして下さいね)料理ベタの母親からは言われたくないかもしれないけれど・・・。