続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

🈞デュシャン『レディ・メイド:木製コート掛け』

2019-06-28 07:04:01 | 美術ノート

   『レディ・メイド:木製コート掛け』

 床に固定?本来壁に固定すべく用途の物である。床に固定したのでは使用目的の意味を削除されてしまう。
 意味のあるものが意味が通用しない状況に設置されることの不遇。
 目的は達し得ない、目的はこの物の主旨である。

 物から存在理由を剥奪する設置、誤用。
 コート掛けの死である。役に立たず、むしろ障害物と化したコート掛けには唖然とするほかない。

 しかし、そこには仕掛けた本人(作家)の意思がある。
「存在とは何であったか」
 水は生命に必須の物質であるが、災害においては生命を脅かす負の物質と化す。
 コート掛けは生活において便利なものであるが、床に設置されたのでは不便なうえに邪魔である。

 物は主張の術をもたない。ただ在るがままである。人間の叡智(知恵)によって、物は然るべき効果を生むような配慮がなされる。
 有益―無益、有害―無害・・・。

 床に設置されたコート掛けは、無益であるばかりか有害でもある。鑑賞者はこの提示を踏み越えていく、軽い軽蔑と失笑を残して。しかし、デュシャンは何気ないものの配置の誤用による社会のシステムを危惧している、有るべき正しい機構に矛盾はないかと。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschenより)


『セロ弾きのゴーシュ』49.

2019-06-28 06:52:18 | 宮沢賢治

「いやになっちまうなあ。」ゴーシュはにが笑ひしながら弾きはじめました。するとくゎくこうはまたまるで本気なって「かっこうかっこうあかっこう」とからだをまげてじつに一生けん命叫びました。ゴーシュははじめはむしゃくしゃしてゐましたがいつまでもつゞけて弾いてゐるうちにふっと何だかこれは鳥の方がほんたうのドレミファにはまってゐるかなといふ気がしてきました。どうも弾けば弾くほどくゎこうの方がいゝやうな気がするのでした。


☆照(あまねく光が当たる=平等)の談(話)は翻(形を変えてうつす)記である。
 逸(隠れた)章(文章)は冥(死後の世界)を究める談(話)である。
 化(教え導く)帖(ノート)には法(神仏の教え)の記はある。
 断(思い切った)段(手立て)の記である。


『城』3213。

2019-06-28 06:36:55 | カフカ覚書

この静かな夜のいざないは、はなはだ魅惑的です。そのいざないに応じると、もう役人であることをやめたも同然です。もっと正確に言うと、非常に幸福なのです。


☆この誘いは死の沈黙である。この誘いに従うと、公務を帯びた人もただの人になり、先祖の境遇は稀にもあり得ることではなく願いも閉じられてしまうのです。さらに考えると、絶望は非常に運がいいとも言えます。


🈞デュシャン『ボトルラック』④

2019-06-27 07:00:00 | 美術ノート

 現今、目の前に見えず現れていない物を予期させる(見せる)という作品である。
 黒雲を見れば、雨を予想する。しかし、青空がいずれ雨になるとは予想の範疇にはない(衛星による予想はあるが…)。
 ボトルラックを見て、すぐに細菌(目に見えない微生物)を想起する人はいない。
 しかし、千変万化の天気予報とは質が違い、対象物には人が欲するだけの用途がある。だいたい同じ大きさのボトルを50本も差す頑丈なラックとあれば、用途は再利用の可能性が高い。ボトルは空になっただけでは再利用不可であり、細菌の発生は免れない。

 その細菌(黴菌)の発生はむしろ必然的な傾向である。必ずや生じるであろう現象に着眼し、これを作品として提示したのである。

 ここには時間経過という時空が秘密裏に存在している。鑑賞者が察知し未来の時間を推理する。
 つまり、《見えないものを見る》のであり、《無い物に有る物》を被せるのである。

「存在とは何か」、ありありと見えているものを指して「存在している」と確信するが、見えていないものを予期することは「存在」と言えるか否。

 ボトルラックの形態に有意義を見出し、納得し、購入する。このシステムを軽んじるわけではない。人はそうして学習し続けている。
 見えることの確信と見えないものへの疑惑。ボトルラックは鑑賞者の前でボトルラックであり続けるだけであり、決してそれ以上を語ることはない。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschenより)


『セロ弾きのゴーシュ』48.

2019-06-27 06:47:17 | 宮沢賢治

 ゴーシュがすっかりおこってしまっえ、
「こらとり、もう用が済んだらかへれ」と云ひました。
「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいゝやうだけれどもすこしちがふんです。」
「何だと、おれがきさまに教はってるんではないんだぞ。帰らんか。」
「どうかたったもう一ぺんおねがひです。どうか。」くゎくこうは頭を何べんもこんこん下げました。
「ではこれっきりだよ。」
 ゴーシュは弓をかまへました。くゎくこうは「くっ」とひとつ息をして
「ではなるべく永くおねがひいたします。」といってまた一つおじぎをしました。


☆曜(日光)の済(救い)を運(めぐらせる)談(話)である。
 化(形、性質を変えて別のものになる)で、教(神仏のおしえ)を記している。
 逸(隠した)等(平等)の化(教え導くこと)を解(分かるように)究める。
 即ち、営(こしらえながら)逸(隠している)。


『城』3212。

2019-06-27 06:39:50 | カフカ覚書

彼がだまって眼のまえにすわっているということだけで、こちらは、彼のあわれな生活のなかにはいっていき、まるで自分の持物のようにそのなかをさがしまわり、徒労な要求の苦しみをともにしてくださいと誘われているようなものです。


☆すでに無言で居合わせていた先祖はその哀れを看破し活気づけ自分のことのように身に受け、来世での死の召喚に同情していた。


🈞デュシャン『ボトルラック』③

2019-06-26 07:11:04 | 美術ノート

 威風堂々とした印象を与える作品(レディ・メイド)である。
 しかし、「これがなに?」という疑問の残る提示でもある。

『ボトルラック』並置でなく逆さに差す、つまりは中を空にするための装置に他ならない。コップ立てに等しい案であるが、この場合ボトルの数が50個差せる物であれば、家庭用とは考えにくい。再利用、再びの製品化を図るためだとすると…不衛生は時を追って露呈するのではないか。
 細菌の繁殖は驚くほど拡大する。

 そのプロセスの警告であり、その見えないものが主眼である。
 見えていないがそのプロセスをたどれば見えるものが現出する。

《見えることとは何か》
 物理的な現象は精神を脅迫する、しかし見えていない状況にあってはそれを予知することは困難であり想定外である。
 経験、実験などのデーターの集積によってそれが判明し、あらかじめ時間の経過によって現出する何物かを見ることになる。

 提示された作品(レディ・メイド)に、鑑賞者はボトルラックの風袋を見る、確かに見るが、その使用による経過…ずっと先の時間までを計測することはない。
 作品とはそういうものだからである。
 切断された(停止された)時間、現今、見えないが、このボトルラックの使用によっていずれ見えてくるであろう現象を予測できず、また予測の強要もない。

 デュシャンは黙って『ボトルラック』を鑑賞者の前に差し出すだけである。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschenより)


『セロ弾きのゴーシュ』47.

2019-06-26 06:58:29 | 宮沢賢治

 するとくゎくこうはたいへんよろこんで途中からかっこうかっこうかっこうかっこうとついて叫びました。それももう一生けん命からだをまげていちまでも叫ぶのです。
 ゴーシュはたうとう手が痛くなって
「こら、いゝかげんにしないか。」と云ひながらやめました。するとかゎくこうは残念さうに眼をつりあげてまだしばらくないてゐましたがやっと
「……かくこうかくうかっかっかっかっか」と云ってやめました。


☆図りごとを注(書き記す)教(神仏のおしえ)を逸(隠している)。
 照(あまねく光が当たる=平等)という冥(死後の世界)の教(神仏のおしえ)の趣(考え)を通して運(めぐらせている)。
 竄(文字文章を入れ替えると)念(考え)が現れるように運(めぐらせている)。


『城』3211。

2019-06-26 06:24:05 | カフカ覚書

一度も見たことのない、いつも待っていた、一日千秋の思いで待ちかねていた、しかし、いつも会えるわけがないとおもっていた陳情者がですよ、突然そこに腰をかけているのです。


☆決して傷痕を見ることなくいつも待っていた、つねに理性に従う方法で、いつも待ち続け、決して会えることがないと思っていた相手に命中したのです。


🈞デュシャン『ボトルラック』②

2019-06-25 06:54:37 | 美術ノート

 見えないものを描く、浮上させる。それは、どんな技法を持っても表現という見える形にすることは出来ない。

《見えないものを見せる》

 デュシャンの思考回路の鋭敏さにひたすら心服するが、
《見えないものを見せる・・・が、見ようとしなければ永遠に見えない》という問題を鑑賞者に突きつけている。
「どうだ!」と、デュシャンは言って静かに挑戦状の答えを待っている。

『ボトルラック』、鑑賞にも耐える大きさ、祈りの形にも似て宗教的な感性をも呼び覚ます力学的にも安定した美しい形状である。
 しかし、不満足なものであり、場所塞ぎであると判るまでにそんなに時間を要さない必然性に欠けた物である。
 おそらく瞬間的には分からず、使用の過程で目的を欠く物だと実感するに違いない。
 この時間を経て実感するであろう物の正体こそが、デュシャンの黙して示す《見えないもの》である。

《見えないものは見えない》、しかし、問題はここにある。
 デュシャンの提示する挑戦状に鑑賞者は応えなければならない。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschenより)