わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

コンピューターはにんげんのともだち

2010-11-23 21:10:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

ペグモ「SOSペンペンコンピューター」

約30年前の「ひらけ!ポンキッキ」に流れていたナンバー。


元四人囃子のメンバーだった長沢ヒロらによって結成されたパンク・ニューウェーブを意識したバンドで、マニアックに作り上げたテクノ風ロックがたまらないものである。。。

注目は歌詞で、地球環境やこの曲が作られた頃、画期的で便利なものと言われていた「コンピューター」があまりにも便利すぎて人間が怠け者になるのではというメッセージのある内容である。

僕らが生まれてくるずっとずっと前には・・・

2010-11-23 21:05:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

ポルノグラフィティ「アポロ」

この曲は世紀末の1999年9月8日にリリースした衝撃的卑猥的デビュー曲。

デビュー当時のメンバーは、

野村道子と同じ潜在能力の岡野昭仁(V;アキヒト)、

泉ピン子と同じ潜在能力の新藤晴一(g;ハルイチ)、

長谷川町子と同じ潜在能力のTama(b;シラタマ)の3人グループで、

音楽プロデューサーの本間昭光(ak.homma)と企画プロデューサーの田村充義で、1999年デビュー以来彼らを支える体制をとっている。


ポルノグラフィティの原点は、因島高校在学時に新藤が中心となって結成した『NO SCORE』というバンドである。結成時は新藤と彼の従兄弟からなるバンドで、ここに同級生であった岡野やTamaらが新藤の誘いに応じて加わった。当初、新藤がヴォーカルパートを担当していたが、コーラスとしてスカウトした岡野の方が歌が上手かったことから、彼にヴォーカルを譲って自身はギター担当となった。

そのときは「音楽(ロック)への憧れ」「かっこよさそう」「青春時代独特の勢い」という理由が大きく、実際に高校の文化祭で演奏した成果は「自分たちでも下手だと感じたほど」という出来映えであったが、演奏を聴いた同級生や後輩からの声援に夢を抱くようになった。

高校卒業後の1994年頃に大阪へと移り、アマチュアバンドとしての活動を開始し、その頃より『ポルノグラフィティ』を名乗るようになる。当時は新藤・岡野・Tamaにドラマーを加えた4人組編成。当初は中尾天成がメンバーであったが1995年に脱退、代わって織畠英司がメンバーに加わった。

1995年頃よりアマチュアや若手バンドを対象としたコンテストで活躍するも、成績は2位止まりだった。1997年に織畠英司が脱退するが、同年の『ソニーミュージック SDグループオーディション』で合格、ソニー・ミュージックレーベルのSME Records(現SME Records)やアミューズとの契約を得る。これを機に上京し、活動拠点を東京に移した。

1999年9月8日、アキヒト・ハルイチ・シラタマの3人で『アポロ』をリリースしてメジャーデビュー。メンバーそれぞれの長所を発揮し、また話題を呼んだこともあって、次々とヒットを重ね、ファンを増やしていく。なお、デビュー当時は作品のほうが注目され、バンド名の認知には時間がかかってしまった。

ライブを中心にテレビやラジオ、イベントへの出演をこなすなど精力的に活動する彼らであったが、デビュー5周年を迎える直前の2004年6月にTamaがソロ活動を行うために脱退を表明。直後に発売されたベストアルバムが3人編成のラストアルバムとなった。後のメンバーの発言によれば、その頃が2009年時点において唯一、解散や活動休止を考えた時期であったという。

Tamaの脱退後は2人体制となり、『シスター』を発表してリスタート。メンバーが2人になったことで、メディアからは「2人組ユニット」として紹介されることも少なくないが、本人達は「2人組バンド」と主張している。しかし、現在では「既存や過去のポルノグラフィティの姿に留まらず、常に進化し続けよう(新たな“ポルノグラフィティ”の確立)」というコンセプトや目標を掲げ、様々なことに挑戦しながら活動している。

2009年にデビュー10周年を迎え、ライヴは通算400公演を達成、観客動員数はのべ100万人を超えている。

記念すべきデビュー曲についてですが、

発売当初はタイアップがない上、ポルノグラフィティ自体もほぼ無名であったことからオリコン・シングルチャートでは初登場84位であったが、彼らの出身地因島ではかなり話題だったようで、因島を擁する広島のチャートでは1位だった。後に音楽番組への出演や『ここがヘンだよ日本人』のタイアップもつき、オリコン週間シングルチャートでは最高5位を獲得し、累計で40万枚以上の売上を記録した。

しかし、関係者の予想以上に売れたことから、メジャーデビュー早々、一発屋の危険性をはらんでしまった作品でもある。
デビュー曲で売れすぎてしまったせいか、一時期“アポログラフィティ”というバンドの“ポルノ”という認識があった様である。

セールス的には1stアルバムよりも売れ、メンバーも「ポルノグラフィティ=アポロのイメージを払拭するのはかなり苦労した」と後に語っている。

この「アポロ」の由来は「アポロ計画」から来ているとのこと。by新藤晴一

「アポロ計画」とは、NASAによる人類初の月への有人宇宙飛行計画である。1961年から1972年にかけて実施され、全6回の月面着陸に成功した。

アポロ計画(特に月面着陸)は、人類が初めて有人宇宙船で(かつ2010年現在では唯一)地球以外の天体に到達した事業であり、宇宙開発史において画期的な出来事であるだけでなく、人類史における科学技術の偉大な業績としてもしばしば引用される。

その中で代表するのが、この歌に登場する「アポロ11号」。

「アポロ11号」といえば、1969年7月16日に月に向け発射し、7月20日に、人類初となる月面着陸し歴史に残る宇宙船。

人類初、月に足を踏み入れた時の「アポロ11号」船長ニール・アルゼン・アームストロングの言葉で歌といきましょう!

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」

衝撃のファーストタイム

2010-11-23 21:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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フォリナー「Feel Like A First Time(衝撃のファーストタイム)」

1976年、イギリス人の元スプーキー・トゥース(春日)のメンバーだったミック・ジョーンズ君と元キング・グリムゾンのイアン(そこダメぇ)・マクドナルド(100円マック)がオーディションでアメリカ人3人をスカウトし、1977年にアメリカでデビューしたロック・バンド。

イギリス人とアメリカ人が混在するという、当時では珍しいメンバー構成で、そうしたことから「フォリナー(=外国人)」と名付けられた。但し、実際の読みは「フォーリナー」の方が近い。

ハードロックやアメリカン・プログレ・ハードのジャンルに分類されるが、その莫大なレコード売上から産業ロックの代表的な例として挙げられることも多い。

音楽的な実権はイギリス人のギタリストのミック・ジョーンズが握っており、アメリカ人のルー・グラムの叙情的なヴォーカルが大きな特徴だった。

結成初期はハードなロック色の強い演奏も見せていたが、後期になるとキーボードを前面に押し出したソフトなサウンドに徐々に変貌を遂げていった。

1970年代後半から1980年代終盤にかけて、ロック音楽市場に巨大な存在感を放ち、多大な成功を収めた。

この曲は、記念すべきデビューアルバム「栄光の旅立ち」からのシングルカットで全米4位、年間(1977年度)31位を記録している。
アメリカ人とイギリス人の衝撃のファーストタイム、ハードロックの決めてます!!

あたしはビートルず

2010-11-22 20:45:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

aiko「カブトムシ」

本日は、永遠の「あたし」、aiko氏のお誕生日ということでアップしました。


この曲は、世紀末1999年秋から冬にかけリリースしたナンバー。

彼女にとっては4枚目のシングルで前作「花火」に続き、2作目のオリコンチャートTOP10入りとなり、人気音楽アーティストのひとりとなり、この曲が収録されているメジャーデビューアルバム「桜の木の下」はオリコンアルバムチャート1位を獲得し、100万枚以上の売り上げで2000年度オリコンアルバムチャート10位と大ヒットとなる。。。

以後はシングル、アルバムは常にTOP10入りを果たし、多くのファンをつかみ今にいたる。。。

そんなケイト・ウィンスレットと同じ潜在能力の彼女でありますが、

1975年11月22日、大阪府吹田市で誕生。

小学生高学年の頃から家庭の事情で親戚の家で暮らすようになるが、両親は離婚していない。この時から歌手を目指すようになる。

中学生の頃、父の友人である円‘とんで’広志は、

歌手になりたいaikoを「苦労するから辞めておけ」と反対していた。

高校生の頃からはピアノを使用し、作曲を始める。また、高校卒業までは友人と共にバンド活動を行っていた。

1995年、19歳の時に出場したコンテストで、初めて自分で作詞・作曲した曲「アイツを振り向かせる方法」を披露し、グランプリを獲得した。その際のタイトルは「アイツをふりむかせる方法」であった。なお、この曲は2000年に発売された「桜の時」に収録されている。短期大学在学中には友人と共に『ドーテイオムニバスCD Vol.1』を共同自主制作し発売。

1996年、4月からfm osaka『COUNTDOWN KANSAI TOP40』のパーソナリティとなり、以降、3つ番組のパーソナリティを務める。

また、出場したコンテスト「The 5th MUSIC QUEST JAPAN FINAL」では椎名林檎らと共に優秀賞を受賞。その為、椎名林檎とは現在も交友がある。

1997年、コンテストに出場していたaikoに目を付けたポニーキャニオンの音楽プロデューサーから連絡が入り、12月20日にインディーズ1stアルバム『astral box』発売。1998年にはインディーズ1stシングル「ハチミツ」、インディーズ2ndアルバム『GIRLIE』を発売。4月、aikoのもとに映画主題歌の話が入り、メジャーデビューの話が進む。

1998年、7月に1stシングル「あした」でデビュー。映画『新生 トイレの花子さん』の主題歌に起用されるなど、関西のFMラジオを中心に話題を集める。初となるワンマンライブ『LOVE LIKE POP!』を江坂ブーミンホールにて開催。そして、「花火」、「カブトムシ」で多くのファンをつかむこととなる。。。

ファン層として、

2005年にオリコンが行った「好きなアーティストランキング」では総合1位を獲得。世代別では10代女性が2位・10代男性が4位、20代女性が1位・20代男性が3位、30代総合は3位、40代総合では14位など全世代を通して認知はあり、特に10代、20代女性からの人気が高い。

翌年の2006年に行われた同調査では総合1位、2007年は4位、2008年は3位を獲得している。 2009年は7位、2010年は5位とランクアップしている。

趣味・嗜好として、

幼少期から水泳、ピアノを習う。絵を描く事も得意であり、「桜の時」や「DECADE」などのジャケットはaikoが描いている。

交友関係として、

優香 、KAN、椎名林檎、ポルノグラフィティ、田村淳(ロンドンブーツ1号2号)、コブクロ、矢井田瞳など交流がある。。。


この曲について、当時DJを担当していたCDKTOP40の生放送終了後、自宅にて放送時のテンションのまま作り上げたことをライブ中のMCにて公表。

カブトムシは季節柄「夏」をイメージするが、aiko版では、本人曰く「冬」と言っている。

昆虫では1番強いとされる存在だが甲羅1枚剥がすだけで、柔らかくなって、脆くなり、実は寂しい昆虫では無いか。とaikoは捉え、「自分を守る為でもあるが、虚勢を張っている」そんな恋する自分をカブトムシに例えて歌っている。

アップしたのは自身がパーソナリティをしていた「オールナイトニッポン」で、多くの音楽アーティストとの交流のあるいちリストのゆず(北川悠仁、岩沢良治)と一緒に歌っている貴重な音源です。

(YouTubeより)削除しないことを願います!

あたし事ですが、本日「35」歳になりました!

笑うふたりに幸せを・・・

2010-11-22 20:30:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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都はるみ & 岡千秋「浪花恋しぐれ」

本日は11月22日ということで、語呂あわせで「い・い・ふー・ふ」つまり「いい夫婦」の日ということで、夫婦を描いた曲といえば、この曲ということでアップしました。

この曲は、マッシュルームカットでちょび髭の岡千秋さんのコンサートに来ていたコメカミのホクロがトレードマークの都はるみさんが彼のしゃがれ声に引かれ、デュエットが実現し、1982年にリリース、ロングランヒットもあって、1983年オリコンシングル年間チャートでは18位を記録している。

この曲のモデルは初代桂 春団治(かつら はるだんじ、1878年8月4日 - 1934年10月6日)である。

天才的な巧みな話術で、戦前の上方落語界のスーパースター的存在であった。

従来の古典落語にナンセンスなギャグを取り入れた大胆な改作で爆笑王として人気を集め、当時の先端技術でもあったレコードに落語を吹き込み、多くの人を魅了した。

破天荒な生き方でも著名で、関西の俗に言う破滅型天才芸人のいまだ代表にして定型といえる存在である。

借金・女遊び・酒乱が高じた振る舞いは、常に話題となった。

その生き様は、演劇・歌謡曲など、様々な形で語り継がれている(ただし脚色も多い)。大阪弁で言う「やたけた」「ごりがん」「すかたん」といった性格を全て併せ持つ、その憎めない振る舞いは、当時も現在も、人々からはむしろ共感・同情の目で見られ、大阪の人情味に触れる際に欠かせない存在となっている。

破天荒な生き方や金遣いの荒さはある意味で上方芸能の伝説となり、横山やすし、藤山寛美、やしきたかじんなどの初代春団治をリアルタイムで知らぬ後世の関西の芸能人にまで多大な影響を与える事になる。また、川藤幸三は、「球界の春団治」と言われていた。川藤は酒好きではあったが、最低年俸で契約してもらったエピソードなど、金遣いが荒いわけではなかった。

得意ネタは『いかけ屋』『うなぎ屋』『へっつい盗人』『ちしゃ医者』『からし医者』『野崎詣り』『寄合酒』など。その多くはSPレコードに残されている。

上方落語において、その生き方・落語が現在までも話題になっている人物は、初代春団治がはじめてである。

借金・女遊び・酒乱なご主人を支えていたのが妻の存在である。

その妻トミは春團治が貧乏の極みにあったときも黙々と夫を支え、金銭感覚のない夫の代わりに内職で生計を立てていた。

後妻の志うは世間知らずな上に、完全に春団治に惚れ切っていたため、その莫大な資産を全て春団治に使い果たされても、文句も言わず、喜んで金銭を出してやっていた。

一方の春団治も、周囲の者に志うのことを「御寮人さん」と呼ばせ、常に顔を立てていた。ともかくも、この二人の間に夫婦の愛情があったことは疑い得ない。

後年、志うは酒で身体を壊し晩年の春団治の看護ができなくなり、トミとトミと春團治の間にできた一人娘が看病し、胃癌に苦しみながら「これでわいも依願(胃癌)免官やなあ。」とか、忠臣蔵の勘平の科白をもじって「かく(胃癌のこと)なり果つるは利の当然。」などと苦しい駄洒落を言って寂しそうに笑っていた。

志うは夫の死後、奈良県桜井市の親戚に引き取られ、翌年、その家の玄関脇の小部屋で寂しく世を去ったという。

先妻、後妻、主生活が駄目な夫にほれ込んだもの。

それは「大物になる」というでっかい夢があるから。

ひとりになると、酒におぼれ何もできない、「私」がいれば、でっかい夢をつかめる・・・

妻って自分が持っている「夢」(だれもが持っている)というものを夫に捧げる姿は偉大です。

絶妙な二人の夫婦の絡みご堪能ください。

王者の魂

2010-11-21 20:15:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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実川俊「王者の魂」

「あんしんパパ」名義での「はじめてのチュウ」(わしやま音楽祭Vol.11最後のナンバー)以来の登場。

実川さんは、バンド活動、「はじめてのチュウ」、音楽プロデュースなど行っているが、

実はこの曲も手がけている。

この曲は東洋一の大巨人、初代全日本プロレス社長、1本5000円の葉巻を吸うのが日課だったプロレスラージャイアント馬場の入場テーマ曲でおなじみ。

1938年に生まれ、1999年に天国へ行き、王道にプロレスを開いてラブにやっているでしょう。

身長209cm、体重135kg、恵まれた体躯を生かし、主に、相手のロープの反動を利用したカウンターキックである「十六文キック」をはじめ、「空手チョップ」「河津落とし」「ココナッツクラッシュ」など、長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した技を得意技とした。


紹介すると

十六文キック
ジャイアント馬場の代名詞的な技。ロープに振った相手が反動で返ってくるところにカウンターで蹴りを叩き込む。時には自ら走りこんで蹴りを当てていくこともあった。全盛期は見た目も威力も必殺技としての説得力を十分に兼ね備えていた。しかし、実際に足のサイズは十六文もなく、語呂の良さから十六文にしたという説と、アメリカで購入した靴のサイズ表記が16となっていたためという説がある。左足で蹴るのはプロ野球時代の名残だが、若い頃は右足で蹴ることもあった。東京タワーズで組んだ坂口征二や師弟コンビで組んだジャンボ鶴田とは肩を組んでダブルのカウンターキックをよく出していた。アメリカ修業時代のタッグマッチで、パートナーだったスカル・マーフィーに「お前もキックだ」と言われた際、反射的に左足で蹴ったのが技のきっかけとのこと。

32文人間ロケット砲
ペドロ・モラレスに師事した際教えられたとされる技。全盛期は大一番で使用。ほかのレスラーも使うポピュラーな技、いわゆるドロップキックなのだが、日本人プロレスラーとしては、突出して巨体であった馬場限定の称され方であった。フォームとしては、やや下方から上方へ突き上げるような形で繰り出す。スタン・ハンセンとの初対決時などに使用した。
河津落とし
河津掛け落としとも。もともとは相撲の技で、相手の投げを堪える「河津掛け」が原型。力道山がルー・テーズのバックドロップ対策として披露したが、馬場は自分の片足を相手の片足に掛け、跳ね上げながら相手の首を抱えて後方に反って倒す技に昇華させた。

脳天唐竹割り
馬場の師匠でもあった力道山が得意としていた空手チョップの応用技。相手の頭部に垂直に振り下ろす。馬場が遠征中に泊まった旅館で、鴨居に頭をぶつけた時の激しい痛みから技を閃き、力道山に「敵の脳天に手刀を放とうと思うんですが」と相談したところ、「危険な技だ。相手が死んでしまうぞ」と制止されたエピソードがある。最初に脳天チョップを出したのはディック・ザ・ブルーザー戦で、初対戦でブルーザーのタフガイぶりにあきれた馬場が「ブルーザーならまあ死なんだろう」と解禁したという。手刀を叩きつける際に、まれに相手の頭部あるいは額を割り、流血させるほどの威力があり、相手の耳に落とす「耳そぎチョップ」という応用もある。子供たちの遊びで往年耳にすることがあった、俗に言う「馬場チョップ」とはこの技のことである。ちなみに全盛期では大きくジャンピングしながら放つ場面もあった。

股割き(レッグスプレッド)
主に若手の頃に多用されていた関節技。相手の両足を掴み、股を強引に開かせることによって痛みを与える、単純明快な技。デビュー戦もこの技で勝利した(相手は田中米太郎)。

ランニング・ネックブリーカー・ドロップ(首折り落とし)
ジャイアント馬場自身が考案し、日本人として初めて披露した技。若き日、ライバルであったドリー・ファンク・ジュニアに対して初めて披露した。ロープに振った相手が反動で返ってくるところに、自ら走りこんで首に左腕を掛け倒れこみ、相手の後頭部をマットへ叩きつける。ジャック・ブリスコやハーリー・レイスとのNWA世界ヘビーを初めとしてこの技で多くのタイトルを奪取した。この技もまた大一番でしか見られない技で、主にレイスとの試合では必ずといっていいほど使用していた。

ココナッツクラッシュ(ヤシの実割り)
ヘッドロックのような体勢で相手の頭を抱え込み、膝に叩きつけながら前方に倒す大技である。「この技が出ると調子がいいんです」というテレビ解説が見られた。

アトミック・ドロップ(尾骶骨砕き)
いわゆる尾てい骨砕き。全盛時によく使っていた技である。

アームブリーカードロップ(腕折落とし)
相手の手首を掴みながら腕にまたがり、そのまま全体重をかけてマットに相手ごと落とす技。かつて上田馬之助とのシングルマッチにてこの技を連発し(6発打っている)、レフェリーストップに追い込んだことがある。

サーフボードストレッチ(波乗り固め)
相手の背後から仕掛ける。相手の両腕を掴み、背中の方で引っ張り上げて痛めつける。

コブラツイスト(アバラ折り)
馬場の隠れた必殺技。2mを超す長身の為威力は抜群で、アメリカ遠征中によく使っていた。猪木も得意技だったが、馬場のコブラツイストに対抗するために猪木は卍固めを使い始めたという。1985年のPWF戦でタイガー・ジェット・シンからギブアップを取るなど晩年まで使い続け、「ジャイアント・コブラツイスト」などとも呼ばれた。

ドリル・ア・ホール・パイルドライバー(脳天杭打ち)
相手の頭を自分の股にはさみ、逆さまに持ち上げてそのまま脳天をリングにたたきつける技。

ジャイアント・ニー・ドロップ
倒れている相手にトップロープから膝を落とす。全盛期のフィニッシュ技として好んで用いられた。

ジャイアント・ギロチンドロップ(レッグドロップ)
同じく全盛期のフィニッシュ技。倒れている相手めがけて膝裏を落とす。

ジャイアント・バックブリーカー(巨人式背骨折り)
馬場のオリジナル複合ストレッチ技。スタンディングで後方からコブラクラッチを決め、そのまま相手体を反らせながら自らの片膝をマットに付け、相手の背中を自らの片膝頭に押し付ける。アメリカ修行時代に、当時スーパースターだったアントニオ・ロッカと対戦した際、スタンディングでこの技を決めてロッカを落としてしまった。

上記の他、脇固めなど寝技やスロートクロー(タイガー・ジェット・シンのコブラクローに酷似)などの「拷問技」も得意とした。足4の字固め、サイドスープレックス、スモールパッケージホールドなどの技も使っているほか、大柄な体格に見合わずトップロープからのフライングボディアタックなどの空中技も使用していた。晩年は流行技やライバル・弟子の得意技をまねて用いることも多く、およそ馬場の技は外見上なんら変わりがなくとも冠に「ジャイアント」と付いて独自の必殺技としてファン・マスコミに認識された。「ジャイアントラリアット」「ジャイアントDDT」などはその典型例である。

また、スタン・ハンセンとのタッグ時のみ限定で、十六文キックとウエスタン・ラリアットを組み合わせた「ジャイアント・コンビネーション」も披露した。アンドレ・ザ・ジャイアントと組んだ時は十六文からアンドレのエルボー・ドロップ、ラッシャー木村と組んだ場合は十六文と木村のラッシングラリアットというコンビネーション(通称・十六文ラリアット)になった。

ジャイアント・コンビネーション・A
ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が十六文キックを叩き込む。その後、馬場が弱った相手を再度ハンマースルーし、そこにハンセンがウエスタン・ラリアットを叩き込む。

ジャイアント・コンビネーション・B
ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が十六文キックを叩き込む。その後、弱った相手が振り返った瞬間に、ハンセンがウエスタン・ラリアットを叩き込む。Aよりも、技の回避が難しい。

基本的におおらかな性格。小さなころは非常に親孝行で、人との間に角を立てるのが本当に嫌だったという。

かつて野球をしていた当初、一度スパイクシューズを履かずにストッキングのまま練習に出てきてひどく叱られたことがあったが、戻ってスパイクを履こうとはしなかった。巨大なスパイクの中に猫が子供を産んでしまったというのがその理由であった。

契約には厳しいことで知られ、ジャパンプロレスとして参戦していた長州力が契約途中で離脱した際には断固たる措置を取ったという。

しかし、天龍源一郎がメガネスーパー社から新団体旗揚げの話を持ち掛けられ全日本の契約終了後にSWSへ移籍した際、(当時団体の移籍は非常識とされていたため)憤慨していたジャンボ鶴田に対して「なぁ、人は裏切るより裏切られた方がまだいいだろう」と諭した。

これは天龍と馬場の間に十分な話し合いが持たれていた結果であるが、他の契約期間が終了していない全日勢が何人もSWSへ流れていった際には「話が違う」と激怒した。

辞めていった日本人選手を二度と全日本マットに上げることはしなかったが、その弟子はリングに上げた(冬木弘道の弟子の、邪道、外道等)。師匠のことで弟子が巻き添えになることはマット界ではよくあることだが、馬場は師匠のこととは別のことと割り切っていた。

「シュート(真剣勝負・ガチンコ)を超えたものがプロレス」という発言を残した。

他団体が格闘技路線を進めていた頃の全日本プロレスのキャッチコピー「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」や「プロレスとは『プロレス』である」といった発言は、馬場本人のコメントではなく馬場夫妻と数十年に渡ってプライベート含めて親交があった元『週刊プロレス』編集長のターザン山本が考え出したものであるが、馬場自身もこのコピーを気に入っていた。

食事作法や礼儀作法、服装などに厳しく、後輩や弟子たちにも徹底的に叩き込んだが、馬場本人はファンにサインをする際も(1000円相当のグッズを買う必要があり)、足を組んで座り下を向いたまま葉巻を吸いながら応じていた。1990年代、全日本の選手たちが決してシャツをズボンから出さなかったことは、馬場の教えが徹底されていたからであり、現在でもお付きだった和田京平や仲田龍、泉田純至らは「エリ付きのシャツでないといけない」という馬場の教えを守り、夏場でもTシャツではなくポロシャツを着ている。選手の茶髪も長い間許されなかったと言う。ジーンズも嫌いで、持ってはいたが「あれは作業着だ」と言っていた。

プロレスラーが技を一般人にかけることを非常に嫌っていた。TBSラジオの番組にゲスト出演していたとき、パーソナリティの松下賢次に何かプロレス技をかけて欲しい、というリスナーからのFAXがあった。馬場は「素人さんにプロレスの技をかけることは、絶対してはいけないこと」と語っている。ただし、かつて『笑っていいとも!』にゲスト出演した際、タモリにヘッドロックをかけたことはある。なお、2007年にアサヒ飲料『WONDA』のCMにおいて、桑田佳祐に対し技を繰り出すプロレスラーとして生前の馬場の映像が合成で使われた。

自らのプロレス観とかけ離れたレスラーとの対戦には消極的ではあったが、そのレスラーが人気者だった場合、プロモーターの立場として観客動員等、興行価値を優先し、積極的に起用し続けた(後述のミル・マスカラス、ビル・ロビンソン、長州力等)。



大巨人の王道

2010-11-21 20:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

黛敏郎「スポーツ行進曲」

「題名のない音楽会」の初代司会者を務めた黛さんが24歳のときに手がけたもので、

開局したばかりの日本テレビのスポーツ中継のテーマ曲で、その後、日本テレビのバックにしていた全日本プロレス中継のテーマ曲で同時、同団体社長で筆頭レスラージャイアント馬場のテーマ曲、日本テレビ看板番組読売ジャイアンツ中継のテーマ曲として定着するも、他局の「8時だよ!全員集合」でネタにされたりし、「プロレス」といえばこの曲と連想するまでになっている。

今は地上波では使われてないが日本テレビG+の番組で聴くことができる。

解説として

ファンファーレが祝典的な雰囲気を醸し出した後、濃密な弦楽合奏が繰り広げられ、さらに、木管が主役となって弦楽を引っ張ったあと、ダル・セーニョでファンファーレの後に戻り、さらに無限リピート可能で、終止形に持って行きたいときに終止感へ転換できるフォルムになっている。

放送のテーマ曲の特性として、時間調整ができるように、番組終了時刻の少なくとも1秒前に音が終わる必要があるので、それを熟知した作品である。

終末な週末

2010-11-20 19:30:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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X Japan「Week End」

1982年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとTOSHIを中心に結成。アメリカのバンド「KISS」に影響を受けた派手なルックスで日本では後に「ヴィジュアル系」と言われるロックの先駆者的存在とされ、後続のバンドに大きな影響を与えた。

1989年メジャーデビューし、そのころ起きた「バンドブーム」に乗っかる形で一躍多くのファンを掴み信者化し、人気絶頂の1992年に日本だけでなく全米を意識し、当時名乗っていたバンド「X」が全米にもいたことで、バンド名を「X JAPAN」に改名、全米を視野に入れた音楽活動を行うもの、フロントマンのYOSHIKIとボーカルのTOSHIとの間に確執が起きたりし、1997年TOSHIの脱退により、バンドは解散し、信者的ファンは悲しみにくれるも、リードギターを担当したhideがそのファンを立ち直らせる形で、本格的ソロ活動に入るも、1998年不慮の事故で他界、その後はYOSHIKIの音楽的迷走とTOSHIの啓発セミナーののめり込みと広告塔での金銭的トラブルで被害者を生んでしまったりと波乱な道を歩いてたが、2007年に再結成し、日本、世界へと本格的進出を果たし、2010年10月10日、ワールドツアーの一環である北米ツアーを完走。ツアーを延期、中止せずに完走したのは1991年のViolence In Jealousy Tour 1991 〜夢の中にだけ生きて〜以来となった。 また、来年の2月までに再び北米ツアー、5月までに日本でライブを行う予定。

YOSHIKIとTOSHIの確執は和やかに収まりつつある。

メンバーは、

リーダーで中島浩二(サンケン常務取締役で福岡のタレント)と同じ潜在能力のYOSHIKI(Drs,P)、

柏原芳恵と同じ潜在能力のToshi(Vo)、

温水洋一と同じ潜在能力のHIDE(g)、

ノッチ(デンジャラス)と同じ潜在能力のPATA(g)、

三浦りさ子と同じ潜在能力のHEATH(ba)、

鈴木早智子と同じ潜在能力のSUGIZO(g,vio)。

本日はリーダーのYOSHIKI氏のお誕生日ということでアップしました。



彼は、曲のほとんどを手がけたり、ピアノとドラムという組み合わせで、ステージで弾き飛ばしたりする一方、慈善活動、レコード会社、レコーディングスタジオ作ったり、音楽プロデュース、SuperGTプロデューサー、今上天皇即位10年を祝う国民式典でクラシックをピアノで披露したりと、人当たりのよさと社会活動と実業的活動を行ったりしている一方、少年期は喧嘩に明け暮れ、ピアノ教室を受けた際は喧嘩のあざを作って出席、学生時代はヤンキーだったとか。。。またドラムを叩く際、首を振るパフォーマンスをするため、たびたびライブ終了後は必ずといっていいほど病院運び(ライブプロデュースも行っているため不眠状態でステージに上がったと思う。。。)や持病(椎間板ヘルニア、不眠症など)や体を鍛えてないことで公演中止や延期もしばしばあった。

彼のエピソードとして、ライブリハーサルで食べたカレーライスがあまりにも辛いという理由で家に帰ったことがある。。。


で、彼が影響受けた音楽アーティストは、KISS、アイアン・メイデン、J.S.バッハ、ベートーベンほか。

この曲は、1990年、メジャーデビューアルバム『BLUE BLOOD』収録曲のリメイク版として、メジャー3枚目のシングルで、オリコンシングルチャート2位と年間(1990年度)33位を記録している。

アレンジが一新され、ギターソロや曲後半部分が異なるほか、ピアノやストリングスも新たに導入されている。なお、シングルにはNEW ARRANGE VERSIONと表記されている。

ライブでは必ず演奏され、後期のライブでは、更にアレンジを変えて演奏された。

テーマは自殺であり、タイトルの「WEEK END」は「週末」に「終末」をかけたものである。

Xのメジャーデビューからちょうど1年後に発売されており、奇しくもその日は週末である土曜日であった。

後に発売される「Rusty Nail」(1994年)はこの曲の続編にあたる。

この曲を通じ、「自殺」はしないように!!

もし「自殺」考えているならここに書き込んでください!!何でもお答えしますし、私(書込み責任者やました)もあなたがたが抱えている悩みを抱えたことがありますし。。。

カーグラな北京DUCK

2010-11-19 19:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

TIN PAN ALLEY「北京DUCK」

このバンドは、はっぴぃえんどの細野晴臣と鈴木茂に林立夫、松任谷正隆が加入した音楽プロデュースチームで、

バンド名の由来は、アメリカのティン・パン・アレーに細野の好きなアーティストが多く活躍していたことによる。

当初は「キャラメル・ママ」名義で活動。その後、1974年にティン・パン・アレーにバンド名を変更しているが、バンド名以外は音楽性を含め、全く同じバンドである。

オリジナルとしては、『キャラメル・ママ』(1975年)と『TIN PAN ALLEY 2』(1977年)の2枚のアルバムを発表した。

各メンバーの多忙により、1970年代後半には自然消滅。2000年に「Tin Pan」名義で突如復活した。メンバーは、細野、鈴木、林の3人。アルバム『Tin Pan』を同年に発表。

また、荒井由実、雪村いづみ、いしだあゆみなどの演奏やプロデュースを行っている。

で、その中のひとり、松任谷正隆さんのお誕生日ということと、「北京ダック」が食べたくなったことでアップしました。


彼は、日本の音楽プロデューサー、作曲家、アレンジャーであり、自動車評論家、俳優としても活動。雲母社社長、雲母音楽出版社長、マイカ・ミュージック・ラボラトリー校長、安達建設最高顧問。東京工科大学メディア学部客員教授。杉並区上高井戸生まれ、世田谷区岡本在住。東京衛生病院で出生、日の丸幼稚園、慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学文学部卒業。血液型A型。父親の功三郎は横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の元取締役、母親の和子は雲母社監査役。家系は「電力の鬼」と呼ばれだ財界人である松永安左エ門につながるというまさにエリートコースを走った「華麗なる一族」。。。


松任谷さんといえば、嫁さんの松任谷由実さんを思い浮かべるでしょう。

松任谷由実との出会いは、ファーストアルバムでのセッション。

結婚前の挨拶に松任谷由実が彼の母と対面した時「ウチの息子は楽隊屋なんですが、いいのでしょうか?」と言われた。

1976年11月29日に教会にて結婚式を行った。

音楽・映像・イベントなど総合プロデューサーとして活躍中の松任谷愛介は実弟、二科展絵画部会員・会友の松任谷國子・千鶴姉妹は従姉妹、エフエム東京の松任谷玉子は姪である。

著書で「電話帳で松任谷のページを開くといきなり親戚」と語っている。

大学時代は親友である前アリコジャパン社長の宮本富生の隣に座って試験を切り抜けた。3年次の時にその親友が休学した際は宮本の彼女の隣に座った。

司会を務めた音楽番組「FUN」にてaikoの「カブトムシ」を絶賛。aikoをゲストに迎えた回でCDショップへ買いに行ったことを告白。

カーマニアで、特にプジョーなどのフランス車が気に入りである。過去にはランドローバー社のレンジローバーを所有していた他、現在では同社のディフェンダー、プジョー・1007、プジョー・207、BMW・130iなど、数台を所有している。1986年10月よりテレビ朝日系「CAR GRAPHIC TV」のキャスターを務める他、日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員、日本自動車ジャーナリスト協会会員でもある。

特技は似顔絵を書くこと。

10台ほどしか製作販売されなかった物理モデル音源仕様のシンセサイザー、ヤマハ・VP1のユーザーの1人である。

アメリカのカントリーミュージシャンが保守派の政治家を支援している点とU2のボノなどがバラク・オバマ大統領の就任式典に参加していた点を引き合いに出し、ミュージシャンは積極的に政治に関わるべきだと2010年5月25日放送の日本テレビ系報道番組『NEWS ZERO』内で発言している。

そんな、「ウィッシュ!でヤホーで検索パラグライダーパラグライダー」でチッキチキチーでそんなわけないやろな松任谷さんが選考委員を務めている「日本カー・オブ・ザ・イヤー」の受賞一覧を紹介すると、

受賞車
1980年(第1回:1980年-1981年)
カー・オブ・ザ・イヤー:ファミリア(マツダ)

1981年(第2回:1981年-1982年)
カー・オブ・ザ・イヤー:ソアラ(トヨタ)

1982年(第3回:1982年-1983年)
カー・オブ・ザ・イヤー:カペラ/テルスター(マツダ/フォード)

1983年(第4回:1983年-1984年)
カー・オブ・ザ・イヤー:シビック/バラード(ホンダ)

1984年(第5回:1984年-1985年)
カー・オブ・ザ・イヤー:MR2(トヨタ)

1985年(第6回:1985年-1986年)
カー・オブ・ザ・イヤー:アコード/ビガー(ホンダ)

1986年(第7回:1986年-1987年)
カー・オブ・ザ・イヤー:パルサー/エクサ/ラングレー/リベルタビラ(日産)

1987年(第8回:1987年-1988年)
カー・オブ・ザ・イヤー:ギャラン(三菱)

1988年(第9回:1988年-1989年)
カー・オブ・ザ・イヤー:シルビア(日産)

1989年(第10回:1989年-1990年)
カー・オブ・ザ・イヤー:セルシオ(トヨタ)

1990年(第11回:1990年-1991年)
カー・オブ・ザ・イヤー:ディアマンテ/シグマ(三菱)
特別賞:エスティマ(トヨタ)

1991年(第12回:1991年-1992年)
カー・オブ・ザ・イヤー:シビック、シビックフェリオ(ホンダ)
特別賞:パジェロ(三菱)

1992年(第13回:1992年-1993年)
カー・オブ・ザ・イヤー:マーチ(日産)
特別賞:ビッグホーン(いすゞ)

1993年(第14回:1993年-1994年)
カー・オブ・ザ・イヤー:アコード(ホンダ)
特別賞:スープラ(トヨタ)

1994年(第15回:1994年-1995年)
カー・オブ・ザ・イヤー:FTO(三菱)
特別賞:オデッセイ(ホンダ)

1995年(第16回:1995年-1996年)
カー・オブ・ザ・イヤー:シビック、シビックフェリオ(ホンダ)
特別賞:テラノ(日産)

1996年(第17回:1996年-1997年)
カー・オブ・ザ・イヤー:ギャラン/レグナム(三菱)
特別賞:デミオ(マツダ)

1997年(第18回:1997年-1998年)
カー・オブ・ザ・イヤー:プリウス(トヨタ)
特別賞:ビークロス(いすゞ)

1998年(第19回:1998年-1999年)
カー・オブ・ザ・イヤー:アルテッツァ(トヨタ)
特別賞:Z(ホンダ)

1999年(第20回:1999年-2000年)
カー・オブ・ザ・イヤー:ヴィッツ/プラッツ/ファンカーゴ(トヨタ)
特別賞:S2000(ホンダ)

2000年(第21回:2000年-2001年)
カー・オブ・ザ・イヤー:シビック/シビックフェリオ/ストリーム(ホンダ)
特別賞:インプレッサ(スバル)

2001年(第22回:2001年-2002年)
カー・オブ・ザ・イヤー:フィット(ホンダ)
特別賞:エスティマ・ハイブリッド(トヨタ)

2002年(第23回:2002年-2003年)
カー・オブ・ザ・イヤー:アコード/アコードワゴン(ホンダ)
特別賞:フェアレディZ(日産)/7シリーズ(BMW)

2003年(第24回:2003年-2004年)
カー・オブ・ザ・イヤー:レガシィ(スバル)
Most Fun賞:RX-8(マツダ)
Best Value賞:ティアナ(日産)
Most Advanced Technology賞:XJ(ジャガー)

2004年(第25回:2004年-2005年)
カー・オブ・ザ・イヤー:レジェンド(ホンダ)
インポート・カー・オブ・ザ・イヤー:ゴルフ/ゴルフ・トゥーラン(フォルクスワーゲン)
Most Fun賞:1シリーズ(BMW)
Best Value賞:ベリーサ(マツダ)
Most Advanced Technology賞:レジェンド(ホンダ)

2005年(第26回:2005年-2006年)
カー・オブ・ザ・イヤー:ロードスター(マツダ)
インポート・カー・オブ・ザ・イヤー:BMW・3シリーズ(BMW)
Most Fun賞:スイフト(スズキ)
Best Value賞:該当車なし
Most Advanced Technology賞:シビック/ホンダ・シビックハイブリッド(ホンダ)

2006年(第27回:2006年-2007年)
カー・オブ・ザ・イヤー:レクサス・LS460(トヨタ)
インポート・カー・オブ・ザ・イヤー:C6(シトロエン)
Most Fun賞:TTクーペ(アウディ)
Best Value賞:ストリーム(ホンダ)
Most Advanced Technology賞:i(三菱)

2007年(第28回:2007年-2008年)
カー・オブ・ザ・イヤー:フィット(ホンダ)
インポート・カー・オブ・ザ・イヤー:Cクラス セダン(メルセデス・ベンツ)
Most Fun賞:ランサーエボリューションX(三菱)
Best Value賞:ミラ(ダイハツ)
Most Advanced Technology賞:ゴルフGT TSI/ゴルフトゥーラン/ゴルフ ヴァリアント(フォルクスワーゲン)

2008年(第29回:2008年-2009年)
カー・オブ・ザ・イヤー:iQ(トヨタ)
インポート・カー・オブ・ザ・イヤー:C5(シトロエン)
Most Fun賞:エクシーガ(スバル)
Best Value賞:フリード(ホンダ)
Most Advanced Technology賞:GT-R(日産)

2009年(第30回:2009年-2010年)
カー・オブ・ザ・イヤー:プリウス(トヨタ)
インポート・カー・オブ・ザ・イヤー:ゴルフ(フォルクスワーゲン)
Most Fun賞:フェアレディZ(日産)
Best Value賞:レガシィ(スバル)
Most Advanced Technology賞:i-MiEV(三菱)
Best 3rd Decade Car賞:フィット(ホンダ)

2010年(第30回:2010年-2011年)
カー・オブ・ザ・イヤー:CR-Z(ホンダ)
インポート・カー・オブ・ザ・イヤー:ポロ(フォルクスワーゲン)
実行委員会特別賞:RCZ(プジョー)

この30年間に出てきた自動車を見てみると時代ごとに人が乗りやすく、安全性、エコロジー、地球環境のことを考え、踏まえて作り上げた人たちの汗を流した企業努力の上受賞したことは関わった方々にとってはすごくうれしいことですね。

この曲の最初のDJは小林克也さんが担当してます。

行こうよ

2010-11-18 18:30:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

藤山一郎「丘を越えて」

本日は福岡県大川市出身で、戦前戦後日本歌謡曲界の礎を作った作曲家であり、藤山をはじめ、美空ひばり、小林幸子、五木ひろしなど楽譜提供し、1978年没後、王貞治に次ぎ、二人目の国民栄誉賞を受賞した古賀政男さんのお誕生日ということでアップしました。

この曲は、1931年、古賀政男の青春そのものであり、歌手藤山一郎の人気を決定付けた。

もとは、「ピクニック」という明治大学マンドリン倶楽部のマンドリン合奏曲として作曲され、それに島田芳文が詞をつけたものが「丘を越えて」である。

歌唱を担当した藤山一郎は、豊かな声量と正確無比な確実な歌唱で古賀政男の青春を高らかに歌い上げている。

ちなみに、伴奏のマンドリンによる前奏が長く、さらに間奏は新たなフレーズの後再び前奏を繰り返すので、伴奏の演奏だけの時間より藤山一郎が歌っている時間の方が短い。


エピソードとして、

作詞者の島田芳文は、長野県軽井沢の浅間牧場の風景を描いて詞を書き上げた。浅間牧場にはこの曲の歌碑もある。

また、『丘を越えて』の曲は古賀政男が明治大学マンドリン倶楽部の後輩と稲田堤(現川崎市多摩区)にハイキングに行った際、満開に咲き誇る桜を背に酒を酌み交わし、下宿に戻り、ふと学帽についた一枚の桜の花びらに気がついた。

これを見て二度と帰らぬ若さと青春がいとおしくなった。

そのとき浮かんだメロディーを愛用のマンドリンを取り弾いてみた。おもしろいようにメロディーがつぎからつぎへと浮かんだ。こうして、『丘を越えて』のメロディーができ上がったという。

のちに、1970年代後半には矢野顕子が、

2008年、映画「丘を越えて」主題歌としてつじあやのが本曲をカヴァー。


YouTubeよりakiraplastic3氏によれば、

この曲はやけに前奏が長いのを不思議に思ってましたが、元々マンドリン合奏曲「ピクニ­ック」に後から歌詞をつけたものと聞いてなるほどと思ったものです、とのこと。

この曲は53年後の1984年トヨタスターレットのCMで起用された


打破的革命士米老鼠

2010-11-18 18:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

BEAT CRUSADERS「MICKEY MOUSE CLUB MARCH」

本日は、世界的キャラクター「ミッキーマウス」のお誕生日ということでアップしました。

まずは彼のプロフィールから。

国籍
アメリカ合衆国 (しかし、東京ディズニーリゾート「ボン・ヴォヤージュ」前のプロフィールには、「citizen of the world」と書かれており、具体的国名は書かれていない)

生年月日
1928年11月18日、日曜日、ニューヨーク
ニューヨークのコロニー劇場にて、上映の目次の1番目でもあるデビュー作『蒸気船ウィリー』(Steamboat Willie)の公開日でもある。しかし、その前の同じく1928年に『飛行機狂』(Plane Crazy)と『ギャロッピン・ガウチョ』(The Gallopin' Gaucho)という作品にも出演しているため、ミッキーにとっては3作品目でもある。

年齢
10代のフリした82歳

種類
白ハツカネズミ

身長
3フィート2インチ(約70cm)
しかしミッキーを長年描き続け、ミッキーの目を白目と黒目にしようと考えたウォード・キンボールによると、ミッキーは90cmぐらいだという。また、ドイツのディズニー公式サイトでは109cmとされている。

体重
23ポンド(約11.5kg)

性格
正義感が強く、頼りになる。シャイでいたずらっコなところもあるが、礼儀正しくジェントルマン。とても陽気。好奇心旺盛で楽しいこと好き。しっかりもの。金銭には意外とルーズな所があり、ハウス・オブ・マウス ではミニーから預かったクラブの家賃をうっかりチーズを買うのに使ってしまっている。しかもミニーは「また」と言っているので前科もあるらしい。

口癖
"Oh,boy!", "Ha-ha", "Gosh", "Swell","Aw-Gee", "Uh-Oh!" ”僕御酒~”

仕事
映画俳優、テーマパークホスト、ナイトジャズクラブオーナー(カートゥーンにて)、チャリティー、etc…
ミッキーは本当のスターだけが持つことの許されるスタープレートを、ロサンゼルスのチャイニーズシアター正面入り口の大体真ん中に持っている。また、マイケル・ジャクソンなどの大スターと肩を並べている。そこには、ウォルト・ディズニー、白雪姫、ドナルドダック、ディズニーランド50th記念などのスタープレートもある。50th記念のものには特別に普通のスタープレートにはない、お城のメダルが埋め込まれている。

資格
パイロット、ハンティング、船のキャプテン、乗用車、作業用車、大型トラックなど。そしてディズニーパークの消防隊長も務めている。

趣味
スポーツ、カントリーライフ、読書、人間的には女好きで酔った勢いで一緒に飲んでいたひとりの女を10分トイレに連れ込み見つめ合ってキスをしそのままホテルに連れ込む・・・(ちなみにミッキーと同じ潜在能力仲間の「旬」な奴もしていたね・・・)

愛車
赤いレトロな車→(赤いスポーツカー)
ある日古いレトロな車に嫌気がさし売りに行き、新車のスポーツカーを手に入れた。しかし多彩な機能に振り回され、結局以前の車を買い取りにいこうとしたら売却されていた。実はその車を買ったのはミニーだったのである(「ミッキーのギャグファクトリー」収録)。
ミニーも自分の車を持っているが、よくショッピングにミッキーの車を使いたがり、ミッキーとしては車が無事に帰ってくるか心配だし、だからといってショッピングについて行って、長い間待たされるのもめんどくさいと困っているようだ。

住んでいる場所
アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス、アナハイム、トゥーンタウン
(以前はマウストンに住んでいたようだが、ミニーがトゥーンタウンに引っ越すというので彼もすぐミニーの隣に家を建てたという)

家族
両親はいるが、(ミニーも同様)実は孤児。甥に「モーティー」と「フェルディー」、そして2人の姉妹がいるらしい。

ペットにプルート(Pluto)、友達に、グーフィー、ドナルド・フォントルロイ・ダック、ミニーマウス、デイジーダック、ヒューイ・デューイ・ルーイ、チップ&デール、クラリス、マックス、クララベル・カウ、ホーレス・ホースカラー、ギデオン・ゴート、ピーター・ピグ、パディー・ピグ、クララ・クラックなど。

ガールフレンド
ミニーマウス
ミッキーと生年月日が同じ(ミッキーはミニーのことを“My Sweet Heart”や“My CherryPie”と呼んだりもするらしい)。

ライバル
ピート、モーティマー・マウス
ミッキーはモーティマーとよくミニーの取り合いになる。ミニーは背の高いモーティマーに惚れることもあるが、最終的にはナルシストで性格の悪いモーティマーよりも、やはり素敵なミッキーを選ぶ。

知り合いの著名人
国連事務総長(アナン)、国王、大統領、俳優、歌手、アスリート、など様々。また、エジプトの国王にはディズニーランドパリの件でお世話になっているよう。

愛読書
チーズと平和、マイ・フェア・マウス、全ネズミカタログ、トゥーンタウンの歴史(哲学的な本も読む)
Featured Magazines
Time, Newsweek, Life, National Geographic, Good Housekeeping

取っている新聞
TOON Repoter

料理の腕
日本やアメリカなどにもある「Chef Mickey」というブッフェスタイルのレストランのシェフを務めている。一人暮らしなので料理はできる。得意なのはパンにハム、チーズ、レタスなどの具を1m近く重ねたサンドウィッチ。しかし、サンドウィッチばかり作っているらしく、ミニーマウスに指摘されることがある。

好きな色
赤(彼のラッキーカラー)、黄色(緑はあまり好きでないらしい)。モノクロ時代、ウォルトは緑色のパンツを考えたという逸話がある。

好きな食べ物&飲み物
ナッツチョコ、レモンパイ、手作りのアイスクリーム(カルトQ予選問題より)

得意なスポーツ
アメフト、馬術、(中でも)ダンス
パークで見てわかるように、ダンスがとてもうまい。

得意な楽器
ギター、ドラム、(一番愛しているのは)ピアノ
5周年から始まって現在もディズニーシー好評上演中のビッグバンドビートでは華麗なドラムさばきを、2007年度ディズニーハロウィンのホーンテッドロッキンストリートでは、見事なギターソロを披露。稀にアドリブで「星に願いを」や「ミッキーマウス・マーチ」を入れていた。ミニーはデジパッド(サンプリングデジタルドラム)をシンバルつきで披露。

秘密
ミッキーは耳の形を整えるため耳にのり(ワックス?)付けしているらしい(ハウス・オブ・マウス#25より)。


まずは柔道師範でGカップある福永愛美による一時期はやった「パラパラ」でトランス版「ミッキーマウスマーチ」に合わせ踊ってみた♪

福永さんご連絡待ってます・・・(アメーバブログ閉鎖状態になっているので・・・)

ところでビークルですが、

1997年、結成当初はヒダカと岩原幸夫(BROKENSPACE・元グループ魂)の2人組のユニットであった。後に岩原が抜け、旧メンバーが加入し4人組となったが、

2003年にヒダカ以外のメンバー全員脱退、新たに4人が加入し、5人組で活動再開。長年インディーズでの活動が続いていたが、

2004年にSME系のDefSTAR RECORDSからメジャーデビューを果たす。同年、アニメ「BECK」の主題歌「HIT IN THE USA」(初のヒット曲)を発表し、ヒダカはそのアニメの音楽監督を担当した。

メディア出演時には、メンバー全員、常にモノクロの自画像を描いたお面を付け素顔を隠している。ライブでは、1曲目を歌い始める瞬間にお面を外して客に投げる。ライブ映像がテレビで放送される場合は、顔をモザイク処理で覆うか、お面のCGが合成される(CG合成は、1曲につき約10時間かかるとの事)。生中継やPVの場合はお面をつけたまま演奏する。

ライブでは下ネタコール(おまんコール・おちんコール)が名物。(おまんコールはアルバム「BEST CRUSADERS」、シングル「WINTERLONG」、アルバム「popdod」の初回特典DVDにて聞く事が出来る)。

グループ名は、ザ・フォーク・クルセダーズ(THE FOLK CRUSADERS、略称は「フォークル」)のビート版という意味。

CDの帯の片仮名表記が、旧メンバー時代は「ビート・クルセイダーズ」だったが、新メンバーになってから「ビート・クルセイダース」になっている。これは、メジャー入りする際に姓名判断をしたところ、2画多かったので、濁点を抜いたのである。しかし、新メンバーになってからの『MUSICRUSADERS 〜MASKED "SUPERSTAR" DJ ver.〜』のトークでは、ヒダカは「ズ」と言っている。結局のところは「ビート・クルセイダース」でも「ビート・クルセイダーズ」でも間違いでは無いとのこと。

2010年9月4日、「OTODAMA'10~音泉魂~」をもって「散開」(解散)した。

@散開までいたメンバー紹介すると

滝川クリステルと同じ潜在能力のヒダカトオル(ボーカル・ギター)

☆インディーズ時代の表記はhidaka。
インディーズレーベルのLD&Kに勤めていた元サラリーマン。「飛田薫」(とびたかおる)の名義でインディーズライターもしていた。
BEAT CRUSADERSを結成する前は、旧メンバーthaiと初代ドラムのイワハラと「PESELA-QUESELA-IN」(ペセラ・ケセラ・イン)というバンドで活動していた。自称、中洲産業大学教授。信頼の眼鏡ブランド。ジャパネットヒダカ。コーヒーを飲むとお腹を壊す。
使用ギターはギブソン・L6-S、ヤマハ SG-45。以前は、フェンダー・ジャズマスター等を使用していた。
既婚で1児の父親。41歳の誕生日である2009年6月5日に、オフィシャル・ブログ上で婚姻を発表し、2010年2月に第一子が誕生した。
アニメ『ハヤテのごとく!』の音楽にギターで参加している。
マンガ『デトロイト・メタル・シティ』のファンクラブ「鋼鉄結社DMC」の名誉会員でもある(作者の若杉公徳と対談をしたことがあり、デトロイト・メタル・シティのトリビュートアルバムにも楽曲提供をする。)。
散開後は、ヒダカトオル名義としてソロ活動を行う一方で、GOING UNDER GROUND、磯部正文のプロデュースも行っている。BEAT CRUSADERSと並行して進めていたソロユニットGALLOWとしても活動中。また、2010年11月より、MONOBRIGHTに新メンバーとして加入することが発表された。


島崎和歌子と同じ潜在能力のクボタマサヒコ(ベース・ボーカル)

☆元popcatcherのボーカリスト・ベーシスト・ギタリストであり、インディーズレーベルCAPTAIN HAUS RECORDINGSの取締役社長。
自称、ビークルのトップブリーダー。ビークルの良心。裏のリーダー。
もともとはギタリストである。学生時代にフルートをやっていたが従兄と交換し、ギターをやる様になった。
ベースは、フェンダー・ジャズベース等の数種のベースを使い分けている。
並行して「BANDWAGON」のギタリスト、「AVANTI」のギタリストとして活動していた。
趣味でやっている写真を「横浜写真アパートメント」(テラウチマサト主催の写真展)に出展したこともある。
昔は剣道部だったという。
散開後は、並行して行っていた、自身が率いるバンド「kuh」のギター・ボーカルとして活動する一方、DJ活動や、カトウタロウとマシータ、ヒロヤマテツシ(RYUKYUDISCO)と共に「TOQUIO LEQUIO TEQUNOS(トキオ・レキオ・テクノス)」を結成、ベースとして活動中。


志田未来と同じ潜在能力のカトウタロウ(ギター・ボーカル)

☆元FUNSIDEのギタリスト。
学生時代はサッカー部。ギターを始めたのはこの頃で、体育祭の組体操で転落し腕を骨折、そのときに家にあったウクレレを触ったのがきっかけである。
短パン、ブレザー、ギブソン・SGというスタイルは、カトウがリスペクトしているAC/DCのギタリスト、アンガス・ヤングのコスプレである。使用ギターはアンガスに倣い、ギブソンSGである。ちなみにスタジオに来たときの服装があまりにダサかったため、ヒダカに「SG持ってるならあれやれ!」といわれ、コスプレすることになる。
大半の曲でコーラスを担当しているが、曲によってはメインボーカルやキーボード(ヤマハKX-5を使用)も担当する。
既婚者である(2006年5月27日に千葉LOOKで行われたライブで婚姻発表)。
BEAT CRUSADERSと並行し、ヒダカらとともにGALLOWのボーカリストとして活動していたが、2007年12月16日に下北沢shelterで行われたfed musicのツアーファイナルにて脱退。
散開後はフリーのギタリストとして活動している。また、「TOQUIO LEQUIO TEQUNOS」のギターとしても活動中。


安達裕実と同じ潜在能力のマシータ(ドラム)

☆元NATSUMEN(ナツメン)のドラマー。ピアノも弾ける。バンドでは原始人キャラクター。
サークルKの社員だったことがある。
素顔や体格、歩き方までもが安斎肇に似ているらしく『ミュージックステーション』出演時にタモリの楽屋を訪問した際にお墨付きをもらった。また後日別番組で本人と遭遇した際は本人に「君か!」と抱きしめられたとのこと。
既婚者で1児の父(2007年4月30日『ヒダカトオルのオールナイトニッポン』にて婚姻発表、2008年3月16日HAWAIIAN6『RINGS TOUR FINAL 東京 7 DAYS』ゲスト出演に第一子妊娠発表、2008年8月10日に仙台ヒルサイドアウトレットで行われた『TALK CRUSADERS』で第一子誕生をメンバーが発表。(本人は欠席))。息子は公式ブログにて度々登場している。
散開後はフリーのドラマーとして活動している。また、「TOQUIO LEQUIO TEQUNOS」のドラムスとしても活動中。


高島礼子と同じ潜在能力のケイタイモ(キーボード・コーラス)

☆元MONGHANG(モンハン)のベーシスト兼リーダー。
ヒダカトオルにバンドに誘われた時はキーボードが弾けなかった。
絵が得意で、個展を開いた事や雑誌に掲載されたこともある。
トレードマークは辮髪。
「BLOCKBASTARD」等のテクノボーカルは彼がつとめている。
アニメ『ハヤテのごとく!』の音楽にヒダカとともにキーボードで参加している。
既婚者である(2007年10月8日『ヒダカトオルのオールナイトニッポン』にて婚姻発表)。
散開後は、かつてのMONGHANGのメンバーと新たに「WUJA BIN BIN」を結成。また、JOHNSON MOTORCARのベースとしても活動中。


彼らは、メンバー全員が「お面」をつけ活動したことで有名であったが、

お面を付け始めた由来としては諸説あり、その一つに、ヒダカが結成当時サラリーマン(レコード会社のマネージャー)だったことから、顔が分からない様にする為に付けた、というものがある。ヒダカ本人は「本来ならば(サラリーマンを続けていれば)今は課長・部長クラスでは?」と語る。他の説として「インディーズ時代に配っていた顔写真のフライヤーで顔を隠して写真を撮ってみたら、初期のYMOみたいで、匿名性があり面白かったから、メンバーの分も作って配った」とも語っている。単に顔で好き嫌いを判断されるのが嫌だからという説もある。

2003年に新メンバー加入の時、ヒダカが「お面をつけて活動をしていれば素顔が公開されないから、AVとか借りやすくなるぞ」とメンバーを説得し、結果は即OKだったと、テレビ東京・JAPAN COUNTDOWN 9月10日放送分インタビューで語った。

ヒダカがELLEGARDENのラジオ番組で、2005年9月16日にテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』に出演した際には、司会のタモリに「タモリ仕様」のお面を着けさせると公言し、これを果たした。後に渋谷陽一、BRAHMANのTOSHI-LOWと雑誌にて対談した際には三人ともお面をつけていた。

また2008年6月16日にフジテレビ系『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』に出演した際には、司会のダウンタウンを含む出演者全員(テゴマス、トータス松本、いきものがかり、沢村一樹)の仕様のお面を用意し、それを全員につけさせトークをしていた。他にも過去共演した木村カエラ、ラジオ番組『SCHOOL OF LOCK!』の校長と教頭、YOUR SONG IS GOOD、阿藤快、つじあやの、高橋瞳等のものもある。

お面はマシータが製作していた。

過去、クボタがお面を客席に投げた時に女性客の顔に命中してしまった事があり、後に客が怪我をしないように角を面取りするようにした。

ヒダカは「ミリオンセールスを達成したらお面をはずす」「TONIGHT, TONIGHT, TONIGHTが100万DL超えたらお面を外す」と語った事がある。しかし「本当にお面外すんですか?」と聞かれるとメンバーは「そんな……100万ダウンロードなんて行くわけないですから!」、ヒダカは「沢尻エリカちゃんでも50万DLだから」とも言っている(結果は15万ダウンロード)。ミリオンセールスに関しても「そんなに売れるわけない」とも語った。

音楽性として、

疾走感溢れるギターサウンドにキーボードによるデジタルサウンドを融合させたロックが特徴で、ジャンルとしてはメロディック・ハードコア、デジタル・ロック、パワー・ポップなどに分類される。1980年代のニュー・ウェイヴの影響が強い。メンバー個々のキャリアが長いため音楽のバックボーンの幅が広く、それらを昇華した上でキャッチーで聴きやすいサウンドになっている。BEAT CRUSADERS単独名義のオリジナル楽曲は全て英語詞で歌われ(カバーや共作では日本語詞も歌っている)、歌詞の内容も恋愛や人生観などを難しい言い回しは使わず平易に歌ったものが多い。英語の歌詞については文法上は誤りとされる箇所も多数見受けられ、発音に関しても、まるでカタカナで書いた英語を読んでいるかのような日本人に聞き取りやすい歌い方をしている(例えば「DAY AFTER DAY」を「デイアフターデー」とはっきり歌うなど)。

この曲は、2002年トリビュートアルバム「DIVE INTO DISDEY」に収録、

かっこよくカバーしてます!

わたしを受け止めて

2010-11-17 17:30:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

能瀬慶子 「アテンション・プリーズ」

1963年千葉県に生まれ、東京都文京区で育つ。

1978年(昭和53年)高校在学中に第3回ホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝。同年映画出演を果たし、1979年(昭和54年)にNAVからシングル『アテンションプリーズ』で、歌手としてデビュー。

1979年には「赤い激突」以来約1年ぶりに復活した赤いシリーズ第8作「赤い嵐」にヒロインとして出演。記憶喪失の少女・小池しのぶを演じた。二重人格による豹変ぶりは当時評判となった。また、記憶喪失時の「ここはどこ、私は誰?」という演技はその後お笑い芸人などによってしばしばパロディのネタにされた。

1983年(昭和58年)20歳で引退した後、ミュージシャンと結婚し3児の母となった。引退後、湯島天神で太鼓を叩く姿がテレビ放映されたことがある


この曲は

作詞はかぐや姫「神田川」、キャンディーズ「やさしい悪魔」など手がけ、現在は日本作詞家協会理事を務めつつ、競艇雑誌「マクーール」にコラムを書くほど競艇に精通し、パチンコ好きな喜多条忠、


作曲は広島出身のON THE ROADなロックミュージシャン浜田省吾、

編曲は中島みゆき、沢田研二、渡辺真知子、円広志、クリスタルキング、五輪真弓、田原俊彦、稲垣潤一、CCB、少年隊、Wink、森川由加里、Kinki Kids、関ジャニ∞、TOKIO、林原めぐみ、堀江由衣など編曲を手がけている船山基紀。

と豪華である。。。

が歌唱力はいかがなものか、皆さんの耳で検証を・・・




何かがきっと待っている

2010-11-17 17:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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モーニング娘。「ひょっこりひょうたん島」

本日は「ひょっこりひょうたん島」の作者井上ひさし先生のお誕生日ということでアップしました。

モーニング娘。(当時のメンバーは16人で平均年齢16.54歳、リーダーは飯田圭織、サブリーダーは保田圭)版のこの曲は17枚目のシングルで、初のカバーによるシングルタイトル曲で2003年にリリースしオリコンチャート最高4位。

原曲の「ひょっこりひょうたん島」に比べてテンポ(BPM)が早くなり、イントロと間奏にセリフが追加されているが、基本的なアレンジからの大きな変更は無い。

イントロのセリフは矢口真里が担当、間奏のセリフは安倍なつみ、加護亜依、高橋愛、石川梨華が担当。

NHK『みんなのうた』にて2003年2~3月の新曲枠で放送された。放送は実写PVではなくオリジナル映像。

NHK「テレビ50周年」記念テーマソングであり、特別番組で歌披露した。

オリジナルを歌ったのは、手塚治虫先生のお誕生日11月3日にこのカテゴリー内でアップした「リボンの騎士」の主題歌を歌った前川陽子とヤングフレッシュで前川さんにとってはデビュー曲である。


オリジナルを歌った前川陽子さんのオフィシャルブログより。

彼女のデビューを導かせた恩師的存在でもあった井上ひさし先生、2010年4月9日に天国へ行かれました。

その思いをブログに書いているのを紹介します。

原文のまま

亡くなって2週間後の前川さんブログ

①「井上ひさし先生」

今日は書きます。

井上ひさし先生は私がデビューした番組「ひょっこりひょうたん島」の作家でいらっしゃいます。
劇中歌の歌詞も勿論です。

私が「ひょうたん島アナザーワールド」のCDに入れている「夜を待とうよ」や「南ドコニカどこにかあるさ」も勿論です。
博品館のコンサートの時は、突然にみえてスッと客席へお入りになられたと報告を受け、私もお目に掛かりたかったので、いきなりではありましたがステージにお呼出しすると、てれながらも応えてあがってきて下さいました。
今DVDを観ると、お話なさりながらドンドン舞台の端の方に後退りなさっている感じが本当に素敵です。

「ひょうたん島」当時、「銀行口座名に『…………………マストロヤンナ』というながーい名前にしたら、銀行員が呼出し、面白くなかなか出ていかないでいると、略さずに、長ーいまま何度も呼出し、銀行員も周りもどんな外人が出て来るかと思っていたに違いないのに、私が窓口に歩いて行ったモノだから何度も確認され…』
なんて面白い話題はつきません

偶然に今回13日のさくらんほでは宮間利行とニューハードさん(ひょうたんを録音なさっていらしたバンド)で、正に「ひょっこりひょうたん島」を前田憲男アレンジて
Jazzラテンのひょっこりひょうたん島を全てを忘れて必死に歌いました。
しかも、前田憲男先生が突然にいらして登場。これには会場中ビックリ大興奮で。
「さくらんぼ15周年」をお祝いする歌に相応しい名曲豪華で華やかな「ひょっこりひょうたん島」となりました。

7月のブログより

②「偲ぶ会」

ひょっこりひょうたん島から「井上ひさしさんを偲ぶ会」が
7月23日(金)にNHK青山荘で催されました。

井上ひさしさんの座右の銘

「むずかしいことをやさしく

やさしいことをふかぐ

ふかいことを
ゆかいに

ゆかいなことを
まじめにかくこと」

この日は番組開始からかかわれたNHKのスタッフの方々・プロデューサー河村さん、デュレクターの武井さん、

ひとみ座の、正にあの画面を動かしていた人形師の皆様、そして
声優の若山弦蔵さん中山千夏さん
鈴木敬子さんのお顔…。

報道されている井上さんではなく、と、武井デュレクターが当時のお話をなさってとても人間味溢れる井上ひさしさんが生き返りました。

若山弦蔵さん、千夏さん、そして私のスピーチとなりました。

博品館のコンサートにひょっこりと見に来て下さった事などお話致しました。

千夏さんはまるで島の住人だったと…。
私も次回からは出生地はひょうたん島とする事に。デビューなのです。

では口パクはアーティスチックにお届けします!

TENGAを取ろう!

2010-11-16 16:30:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

内田有紀「TENCAを取ろう! - 内田の野望 -」


本日は彼女の誕生日ということでアップしました。

「おめでとうございます」


1990年代前半に観月ありさ、一色紗英と並び10代の清純派女優でアイドル並みに人気があったわけで、

そんな串田アキラと同じ潜在能力の彼女ですが、

清純派から本格的な女優へと「つかこうへい劇団」に入団し、上達し2002年「北の国から」に出演し、
共演した黒板純(吉岡秀隆)と結婚、芸能活動引退、出産、離婚、芸能活動復帰し、TVドラマ、CMなど活躍、そんな彼女も35歳になります。

この曲は、1994年、歌手デビューシングル。

自身が出演したフジテレビ系ドラマ「半熟卵」の主題歌として起用され、そのこともあってかオリコンチャートでは初登場1位を記録。

作詞は、「ロマンスの神様」の大ヒットで知名度を上げた広瀬香美と川咲さら、

作曲は1970年、80年代ではひときわ目立ち活躍、90年代になれば大人しめだったが、井上陽水「カナディアンアコーディオン」、NOKKO「人魚」など提供、2000年代は作詞家松本隆と1980年代以来のコンビ復活でこの二人が1970年代に手がけた「木綿のハンカチーフ」、「赤いハイヒール」などヒット曲で知られる太田裕美、中川翔子に提供、現在オリコン作曲家別最多売上1位であり、70歳の筒美京平、

編曲は松任谷由実などのサポートメンバーを経て、作曲家、編曲家になり、織田裕二などの曲のアレンジ、何といっても「踊る大捜査線」シリーズの音楽を手がけたことで日本アカデミー大賞を受賞した松本晃彦

が手がけている。


太平洋沖に平和を。ウェィ~

2010-11-16 16:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

Patexx「Japaneeze Dance」

本日は小島よしおのお誕生日ということでアップしました。

「おめでとうございます。」


さて、2010年も終盤を迎え、社会、文化、スポーツなどなど今年の総まとめで発表、月日はあっという間である。

その中で今年を象徴する新語、流行語を決める「新語流行語大賞」があるが
、2010年は「ととのいました~」、「2位じゃダメですか!」、「いい質問ですね」、「ブブゼラ」、「本田△」、「パウル君」、「山ガール」、「食べるラー油」、「史上最大の下克上」、「~ぜよ」などなど。番外で「イラ菅」、「いまいる?」などなど。

カーネル・サンダースと同じ潜在能力の小島よしおといえば、「そんなの関係ねぇ」で2007年新語流行語大賞受賞したが、

これは、小島をスターダムにのし上げたもっとも代表的なネタ。最も多用する流れは以下のようになる。

まず体験談などを話す、小ネタをやって見せたりするなどの前振りを行う。

途中で言葉を間違えたり先にオチを言ってしまったりといった失敗に気付き「あ~、下手こいた~!」と落ち込んで床にひざまづき頭を垂れる。

すかさずBGMが流れだし、リズムにあわせて尻を高く突き上げたあと勢いよく立ち上がる。そして軽快な音楽に合わせてネタを始める。最初は「ウィ~!」「ホラホラホラホラ!」、あるいは両肩を揺らしながら「揺れてるよ~!」などから始まる。

尺が短い場合はBGMを流しながら登場して、ネタを始めることもある。

先の失敗を受けて「ア、ソレ、ア、ソレ、ア、ソレソレソレソレ、○○○、(だけども だっけぇど)、×××、でもそんなの関係ねぇ! あー そんなの関係ねぇ! あー そんなの関係ねぇ!」と利き腕の左腕を、コブシを握り締め振り下げる。
「だけども だっけぇど」の部分は省略することもある。

「でもそんなの関係ねぇ!」の振り付けは藤井隆「ナンダカンダ」のサビ部やポケットビスケッツ「YELLOW YELLOW HAPPY」の冒頭部とほぼ同じだが、肘を曲げたワンハンド・ダンベル・ローイングスタイルである。

その後続けて白目をむきながら左腕と右脚を斜めに伸ばして“イ”に似たポーズを取り、「はい(セイ(say))!おっぱっぴー」と叫ぶ。

傾向としては、「ぐるぐるナインティナイン」では『セイ!おっぱっぴー!』、その他の番組では『はい!おっぱっぴー』と言うことが多い。

「チントンシャンテントン、チントンシャンテントン」と唱えながら軽妙な踊りを見せる。

元々は三味線の擬音を表現したもの。ただし、2007年に「東貴博のヤンピース」へゲスト出演した際、アニメ「少年アシベ」の主題歌「まかせて!チン・トン・シャン」から採ったという発言もしている。このフレーズを間に挟むことで、激しい動きによりあがった息を一旦整え、次に備えるブリッジとしての役割も兼ねているようである。

『でも「そんなの関係ねぇ!」×3→「はい!おっぱっぴー」→「チントンシャンテントン」×2』が基本の流れとなるが、短いネタを連発するときはこの限りではない。最近は「はい!おっぱっぴー」→「ウィ~」という流れが多い。

BGMは初期はWoodyの「hype 'o' tek」、TWIN PITCHの「GHETTO BLASTER」を使用(どちらもDJ TASAKAのミックスアルバム「DJ Tasaka Presents Mix Of Colors」収録。この2曲をノンストップで編集したものを演奏)。現在は元さくらんぼブービーの木村圭太(苺森圭太)リミックスによる「小島よしお Episode I / Episode II」を使用している。イントロは前者が1小節、後者のうち「I」は3小節、「II」は2小節である。

初期の頃はネタの途中に必ずと言っていいほどおかしくなり、オチに繋がらずに終了してしまったり、また「はい!おっぱっぴー」ではなく、「○○○おっぱっぴー」と言っていた。2007年5月に行われた「第5回お笑いホープ大賞」で準決勝(B組)に進出した際、ネタ見せのオチは「暗転下さいおっぱっぴー」だった。司会者に「おっぱっぴーってなんですか?」と質問されると、さも「当然でしょう」と言わんばかりのしたり顔で「オーシャン・パシフィック・ピース(太平洋に平和を)」の略だと答える所までがネタ。太平洋の英単語のスペルは(The)Pacific ocean(パシフイック オーシャン)であり、Ocean pacific peace(オーシャン パシフィック ピース)を直訳すると「大洋、平穏な平和」となり、言葉(及び文法)としては正しくない。 「おっぱい」の「い」の部分を放送禁止用語を隠すためのビープ音(ピィー)として表現し、「おっぱ○ー」が元ネタという説もある。

日本語の擬声語(オノマトペ)について著書がある小野正弘 氏によると、「おっぱっぴーは、あの動きと白目をむいた顔のオノマトペだと思う」とのこと。

ネタが誕生したきっかけについては、学生時代DJだった先輩(さくらんぼブービーの木村圭太)がいきなりマイクをフッてきたが、面白いことを言えなかったときに「そんなの関係ねぇ!」という言葉がとっさに思いついたことがきっかけと小島自身が述べている。

このネタには明確な終わり方が存在せず、スタッフの判断や、小島本人があらかじめ決めておいた時間に音楽が止まり、その時点で終了となる形をとっている。そのため音楽が止まらなければギャグを言い続け、また話すことがなく、間をつなぐ時などは両手を軽く開いて肩をすくめて左右交互に前後にゆすり、どさくさ紛れに共演者に近づきながら「ウィ~!」と言う。「ウィ~」の応用的用法として、共演者が「僕、昨日家でWiiしてました」というものや、小島が肩を揺らしながら「ウィ~!」とボケる、というものがある。

「新語流行語大賞」を受賞した有名人(特にお笑い芸人)は来年消えるというジンクスがあるが、

小島君は、

自分が一発屋だということもネタにし、その勢いで今に至るが、同じ事務所のダンディ坂野から「まるで俺と同じ道を歩んでいる」と言われたことがある。

ジャマイカのレゲエDJのPATEXXが自身の曲「japaneeze dance ft cutty」で「オッパッピー」や「そんなの関係ねぇ」を取り入れている。自身のマイスペースのページ で無料試聴することができる。さらに2008年にはアメリカのヘヴィメタルシンガーアンドリューW.K.が、「そんなの関係ねぇ」「オッパッピー」を連呼する「そんなの関係ねぇロック」を着うた限定でリリースした。