わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

やった、やった、やったぞ!エンディング。

2010-09-20 23:48:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

あんしんパパ「はじめてのチュウ」

あんしんパパの履歴。

本名は実川俊晴。

1948年生まれ。

1967年 バンド「ザ・マミローズ」結成。担当はドラムス。
黒澤久雄(黒澤明監督の長男)と共にTBS系「ヤング720」に出演した経験がある。


1969年 ザ・マミローズ、「ハローハッピー」に改名。

1972年 バンド「マギーメイ」結成、リーダーおよびリードボーカルを務める。

1975年 マギーメイ解散

1979年 「実川俊」(じつかわしゅん)名義でソロデビュー、この頃に『夜のヒットスタジオ』に出演した経験、ジャイアント馬場入場テーマ曲「王者の魂」を手掛けている。

1982年 芸名を「TOSHIHARU」に改名。

1990年 「あんしんパパ」名義で『はじめてのチュウ』発売

2008年1月9日 『プラネット・キッズ 不思議な世界』の楽曲製作とヴォーカルレッスンを担当。


この曲は、1990年にリリースし、TVアニメ「キテレツ大百科」主題歌はアイドル起用の入れ替わりの激しいソングの中、代表定番的ソングとなり、3回の再発が行われている。

「あんしんパパ」は実際には存在しない架空の歌手であり、実際に歌っているのは作詞・作曲者の実川俊晴である。

録音時にテープを半分のスピードで回しながらゆっくり歌い、再生時には通常のスピードで再生するという手法によって、エフェクト処理を施したような可愛らしい歌声を作り出した。

なお、ボイスチェンジャーを用いて音程を調整するだけでは、この様な可愛らしい歌声にはならず、オープンリールデッキなどのように速度制御が出来る特殊な録音機材が必要であるという。

実川はこれ以外にもさらなる録音上の工夫があると述べているが、その詳細については「企業秘密」として明らかにしていない。

実川によると、この曲を制作したきっかけは早回しを使って楽曲を制作しようというアイデアが最初にあって、次にネズミの鳴き声「チュウ」を思いつきそこからキスを連想し、後は恋愛映画のワンシーンを頭に浮かべて歌詞を書いていったという。

カラオケなどで同曲を歌う多くの人はこの歌声に挑戦するも、大抵は喉が限界に達してしまう。ものまね歌唱番組では、ヘリウムガスを使ってこの独特な声を再現した人もいる。

アニメソングの枠を越え、様々なミュージシャンにカバー曲として取り上げられており、LUV and SOUL、Hi-STANDARDがシングルとして発売した他、英訳版も発売された。その他には、SMAPの木村拓哉、BUMP OF CHICKENの藤原基央、サザンオールスターズの桑田佳祐など多くのミュージシャンがライブでカバー、山崎まさよしはライブの他にテレビでもカバーし、AJI、INSPi、國府田マリ子、池澤春菜、ラミューズらが企画でカバーしたりと、子供向けアニメ番組の主題歌の域を遥かに超えた人気曲となっている。

河合夕子(ビクターエンタテインメント版カバー音源)、桃井はるこ(『ファミソン8BIT』収録)、奈良柚莉愛(2008年11月29日発売『おうた -Sing and Smile with Kids-』収録)らによるカバーも存在する。

それではおやすみの(^з^)-☆



さあ、帰ろう、戦士が帰還するところはすでに生命の源

2010-09-20 23:36:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

ローズマリー・バトラー「光の天使」

この曲は、1983年映画「幻魔大戦」のエンディングナンバーで、角川春樹事務所制作「汚れた英雄」(主演草刈正雄)に続き、ローズマリー・バトラーがボーカル担当、作曲はELPのメンバーのキース・エマーソンが担当、この映画の音楽監督も務めている。

この映画は、

原作は「8マン」の平井和正、「サイボーグ009」の石森章太郎、

制作は石森章太郎、角川春樹、

キャラクターデザインを漫画「AKIRA」の作者大友克洋、

監督は「銀河鉄道999」のりん・たろう、

声優陣は、古谷徹、小山茉美、江守徹、池田昌子、潘恵子、美輪明宏、佐藤正治、穂積隆信、永井一郎、滝口順平、塩沢兼人、林泰文、原田知世、槐柳二、田中秀幸、内海賢二、寺田誠、白石加代子、宮内幸平、矢田耕司、塩屋翼、塩屋浩三ほか



星くん、アラレちゃん、ドモホルンリンクル、忍者ハットリくん、オーラの泉、積木くずし、波平さん、ドクロべえ様、やさいのくにから、テリーマン、則巻千兵衛、安国寺和尚さんなど豪華である。

特報、予告編、映画冒頭のフリップが角川映画らしいもので、1960年代からテレビの発展で娯楽文化の中心になり、それまで主役だった映画の下降に拍車をかけたのが角川春樹氏で、出版会社角川書店の社長の傍ら、1970年代後半に映画界に参入、「読んでから観るか、観てから読むか」をキャッチに扱っている本作品原作の数々の映画作品をヒットさせ、映画界を盛り上げ、実写だけでなく、アニメ界にも参入、それまでのアニメは小学生までの特権であったが、画期的なものコンピュータを使い、効果を表したり、絵だけでなく、内容のあるアニメ技法にし、大人でも楽しめるものにした。角川氏は、実写邦画を救ったでなく、革命的な漫画家(石森章太郎、大友克洋)、手塚アニメや興行的成功した「銀河鉄道999」の監督りん・たろうなどを起用し、新感覚作品を作り上げたことは、アニメの改革に関わった功績はあると思います。

この作品以後その技法で、大友氏が手がける「AKIRA」、「新世紀エヴァンゲリオン」へとつながっていく。

この映画を観た原作者平井氏は、大友氏のキャラクターデザインに対し、批判的だったほど今までないアニメ技法が印象つける。

超能力が使える主人公の高校生を中心に様々な人種の超能力仲間が力合わせ、幻魔大王に立ち向かう・・・


やっぱり神秘的ですね・・・美輪さん。

ゆきなさい

2010-09-20 23:30:00 | わしやま音楽祭VOL.11
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一青窈「ハナミズキ」

9月20日にお誕生日を迎えたということと、この曲をもとに作った映画「ハナミズキ」が絶賛上演中ということでアップしました。

「お誕生日おめでとうございます」

そんな堀江由衣と同じ生年月日で同じ潜在能力の彼女の座右の銘は、

「来る者拒まず、去る者追わず」。

自他共に認める雨女であり、普段から自転車に鍵を掛けず自転車が盗難に遭うと「私が強く信じていなかったから」と考えることにしており、結果的に現在まで6台盗まれていており、そのエピソードを「人生が変わる1分間の深イイ話」に投稿、島田紳助曰く、「深イイ話じゃなくて、マヌケな話」と変わったエキゾチックな女である一青さんですが、

この曲は、2001年アメリカ同時多発テロ事件発生時、ニューヨークにいた友人からのメールをきっかけに一週間ほどで書いた詞であった。作詞当時はA4用紙3枚程で「テロ」・「散弾銃」といった言葉があり、一青いわく「挑戦的な詞」であったという。その詞を削っていって「君と好きな人が百年続きますように」の言葉にたどり着いたのは一青自身も不思議に思っているという。

タイトルの元となったハナミズキは、彼女が学生時代よく行った「ドッグウッドプラザ」にちなんでいる。

PVでは、歌詞に合わせて手話を取り入れている。第58回NHK紅白歌合戦では大学生時代のサークルの友人と共に手話を行いながらの「ハナミズキ」を披露した。

初めて発表されたのは、リリースの約1年前の2003年4月に池上本門寺で行われた初の野外ライブ・「月天心~しゅるり」であった。発表当時は、3番の歌詞の一部は歌唱前に読まれていた。なお、その模様はライブDVD「姿見一青也」に収録されている。

2004年のライブツアー「てとしゃん」での機材輸送トラックのコンテナにハナミズキの通常版ジャケットからの写真があしらわれていた。2004年のライブツアー最終公演で来場者3700名にハナミズキの苗木をプレゼントした。

2004年のアテネ五輪女子マラソンで金メダルを獲得した野口みずきの名前の由来であったことも手伝って、2000年シドニー五輪(高橋尚子がマラソンにおいて金メダルを獲得)の時のhitomiの「LOVE 2000」に続く、金メダルソングとしても話題となった。

オリコンの週間シングルランキングでは125週連続チャートインし、累計132週のチャートイン。

カラオケランキングでは90週連続でTOP5入りとなるロングヒットを記録。2007年度の年間ランキングでは6位。

また、歌手の間でも歌われることも多く、2006年の鎌倉でのライブイベントで共演した森山良子に絶賛された。また作曲者のマシコタツロウをはじめ、徳永英明の『VOCALIST』、甲斐よしひろの『10 Stories』といったカバーアルバムに収録されている。またラジオ放送で福山雅治がギターでの弾き語りもした。

2006年12月のよみうりランドで行われた初のフリーライブ「BESTYO Free CONCERTYO」の当日の天気は曇り空であったが9曲目の「ハナミズキ」のサビを歌い出した途端、空が晴れ日光が一青をスポットライトのように照らし、幻想的な雰囲気になったという。

彼女の音楽プロデューサー武部聡志氏は、彼女の書く詞は日本一と絶賛している。

彼女の歌は、実体験に基づいたものがメインである。
アップしたのは、2009年5月24日明治神宮で結納をあげた守谷さん夫妻の模様をお届けします。



うれしいことも悲しいこともみな知ってる

2010-09-20 23:20:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

童謡「大きな古時計」

アメリカ合衆国のポピュラー・ソングで、

作詞・作曲はヘンリー・クレイ・ワークで、1876年に発表され、当時アメリカで楽譜が100万部以上売れた。ワークがイギリスを訪問している際に、宿泊先のホテルの主人から聞いたエピソードにヒントを得て歌にしたものである。

お届けするものは、日本のミュージシャン平井堅。

1972年、大阪府生まれ、三重県育ち。大学在学中から横浜市関内のライブハウス専属の歌手等で活動する傍ら、サザンオールスターズにデモテープを送付したり、Sony Music Entertainment Auditionに自作ビデオを応募し、入選したのをきっかけに1993年ソニーレコードと契約。

1995年CDデビュー。1枚目のシングル「Precious Junk」はフジテレビドラマ『王様のレストラン』(三谷幸喜作品)のタイアップであったものの、オリコン最高50位と振るわなかった。

その後も目立ったヒット曲に恵まれず、一時期はシングルの出荷枚数が1万枚以下という時期さえあった。この間は、福岡クロスFM、地元FM三重の番組でパーソナリティをつとめたり、デビュー翌年には『オールナイトニッポン』のジングルを担当していたこともあった。

しかし2000年、これが売れなければ契約打ち切りという背水の陣でリリースした8枚目のシングル「楽園」のテレビCMに同じ研音所属の江角マキコが出演したことで、ワイドショーなどに大きく取り上げられ、FM各局でも楽曲が注目されて大ヒット。さらにこの曲でNHK紅白歌合戦に初出場を果たした。以後ヒット曲を多数リリースする。

ライブで歌ってファンの間で徐々に話題を集め、2001年7月9日には(同曲が『みんなのうた』で紹介されてから40年を迎える)2002年にCD発売することが発表、マキシシングルCDをリリース、編曲は椎名林檎、広末涼子、深田恭子など手がけたベーシスト亀田誠治。

すでに人気アーティストの仲間入りをしているため、オリコン4週連続1位(ちなみに100年以上前に発表された楽曲がオリコン1位になるのは史上初)、2002年度のオリコン年間チャート7位を記録、第53回NHK紅白歌合戦に出場、2003年の第75回選抜高等学校野球大会開会式の入場行進曲に選ばれた。

オリジナルとの違いは、2番の一部だけサビがなく、3番でサビの最後の部分が2回歌われている。

そんなおタコ・プー(福岡を拠点に活躍する吉本興業芸人:1995年、平井さんが出す曲売れずで福岡クロスFMでナビゲーターをしていた頃、同じくナビゲーターをしていたおタコは借金まみれで追われ自殺未遂までしていた頃で、たびたびおタコの番組にゲスト出演をし、互い分かち合った縁がある。その後、島田紳助から「東京向いてる」と認められ、「爆笑オンエアバトル」で高得点を得て、ひとり東京進出を考えていたが、相方がいて福岡に置いていくことができない理由で挫折し、クロスFMナビゲーターも降板することになる。)と同じ生年月日で同じ潜在能力の平井さんのエピソードとして、

デビューの年には、母校上野高校の学園祭でコンサートを行なっており、アンコールではその独特の歌いまわしでアレンジした校歌を披露した。またこの時、母校の財政事情を心配した平井は、一切のギャラの受け取りを辞退した。

インターネット上で、一青窈の歌のピッチを下げると平井堅が歌っているように聞こえることが話題となった。この事は「トリビアの泉 ~素晴らしきムダ知識~」「ミュージックステーション」「ラジかるッ」でも紹介され、更に「世界一受けたい授業」では前述のピッチを下げた一青の曲と『瞳をとじて』を使い、音速を上げると一青の歌声になる逆ヴァージョンの紹介もされた。また、ニンテンドーDSiでピッチが変更できる機能が紹介される時にその事が話題となることがある。

ネット上などでは、「同性愛者ではないか?」と噂されることもあるが、平井堅が所属するピンナップスアーティストは、「そのような噂が昔からあるのは承知していますが、全く違います」と噂を完全に否定している。

平井堅って「ホモ」か「ゲイ」? 「それは全くありません」と完全否定

彫りが深く、髭が濃い中東な顔をし、やさしい歌声で日本人の心を癒す反面、喋り口調はなまったりボソボソしたりとギャップが激しい。

好きな女性有名人は、松田聖子とショーコ・アイダ(相田翔子:Wink)だそうです。



あなたの優しさが浸みて来る

2010-09-20 23:10:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

さだまさし「秋桜」

1974年にフォークディオ「グレープ」でデビュー、ソロになり、「雨やどり」でチャート1位を獲得し、以降は「関白宣言」、「道化師のソネット」、「防人の歌」とチャートの上位に入り、同時にお金も入り、自身の事務所立ち上げ、地元長崎県にある無人島を買ったり(歌島)、そこにボイラー引いたり、そこと九州をつなぐ橋を作ったり(予算の都合上建設途中中止)、映画作ったりし、サイドビジネス(喫茶店)やったり、ヒット曲を残しつつ、映画の不当たりで借金30億円を抱えつつ(発覚し作った曲が「北の国から」)、年がら年中コンサートを行い、5年で完済、現在まで精力的コンサートで3500回と音楽アーティストでは日本一で更新中、音楽活動以外でも作家としての顔を持っているさださんですが、

この曲は1978年アルバム「私花集」に収録され、さだまさしのスタンダードナンバーのひとつである。

元々は、1977年さだまさしファンの山口百恵のために「日本的な女性らしい面があるのではないか」と思い、それまでの百恵ソングは強気でツッパリな女性を描いたイメージを一変させ作ったという。

最初のタイトルは「小春日和」というタイトルだったが、曲を聴いたプロデューサー(CBSソニーの酒井政利)の提案で「秋桜」に変更となった。

山口百恵Verは、第19回日本レコード大賞で、百恵は歌唱賞を、作詞のさだまさしは西条八十(前記事「人間の証明」のテーマの元ネタ「麦藁帽子」の作者)賞を受賞した。

この曲は結婚を期に嫁いでいく娘がお世話になった母への感謝を描いた歌で、結婚式の定番ソングであり、中森明菜、福山雅治、平原綾香、徳永英明などなど多くの音楽アーティストにも愛されている永遠の名曲である。

この曲は、玲子を念頭に置いて作られたという。兄が妹の結婚を主題にした歌(他に娘さんちょうだいませませ「雨やどり」、娘が嫁いでいく日の父の姿を描いた「親父が一番長い日」)を作ってしまったせいか、実際の玲子自身は独身のままで、兄が自分のコンサートで客席に

「誰かもらってくれる奴はいないか」

と言ったこともある。

また、兄が自身のラジオ番組『さだまさしのセイ!ヤング』(文化放送)で

「お金持ちな男性と結婚してほしい」

と発言したところ、たまたまそれを聞いていた玲子が文化放送へゲリラ電話をかけたことがあった。

元々「秋桜」は「あきざくら」という読みであったが、同曲のヒットがきっかけで「コスモス」という読み方が一般的になったと言われている。

さださんは、ラジオへの理解を得るため、ニッポン放送「オールナイトニッポン」と裏でしていた文化放送「セイ!ヤング」の合体企画で、「セイ!ヤング」で谷村新司と組み、「オールナイトニッポン」の泉谷しげる、南こうせつと対決する。

来年に日本武道館で、南こうせつとジョイントコンサートを行う。



母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね・・・

2010-09-20 23:00:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

ジョー山中「人間の証明のテーマ」

日本人とジャマイカ人のハーフとして生まれ、3オクターブの声が出せるボーカリストであるが、

中学卒業後、工場で働いた時、ボクシングの協栄ジムの会長になる金平正紀にスカウトされたのがきっかけで上京し、ボクシングを3年やって、年齢詐称が原因で引退し、映画出演やグループサウンズ期のバンドメンバーになり、ソロになり、1977年、出演した映画「人間の証明」の主題歌を歌い、オリコンチャートTOP10入りを果たし、大ヒット(年間23位:1977年度)、最近ではJFN系FM番組松本人志氏と高須光聖氏が対談する「放送室」でよく流れたナンバー。

この歌は西條八十の詩集「麦藁帽子」を英訳したもの。

作詞は西條八十、映画を制作した角川春樹、ジョー山中、

作曲はこの映画の音楽を担当し、「ルパンⅢ世」、「犬神家の一族」、「獄門島」、「悪魔の手毬唄」などテーマ曲を手がけ、石坂浩二とは大学時代の同級生である大野雄二。

アップしたのは、その映画では事件を追う刑事棟居弘一良役を演じ、ジョー山中さんもゲスト出演したことがあるTVドラマ「探偵物語」では探偵工藤俊作を演じた松田優作さんがあすお誕生日を迎えるということで。

映画「人間の証明」ですが、

制作側の角川春樹氏が、この映画を作るため、作家の森村誠一氏に依頼をし、小説「人間の証明」ができ、映画に漕ぎつけたのである。

脚本はプロア問わず公募で募集していたが、選考で散々たるもので、結局「ふたりのイーダ」の脚本など多くの作品の脚本、メガホンを取ったりもした映画界ではプロ級の松山善三、

監督は「新幹線大爆破」、「人間~」の続編映画「野生の証明」、「北京原人」、「男たちの大和/YAMATO」など手がけた佐藤純弥(彌)。


☆映画あらすじ(goo映画より)

東洋的な風貌を頬に刻んだひとりの黒人青年(ジョー山中)が、ニューヨーク・バンクで六千ドルの大金を白人紳士から受け取り、みすぼらしいスラムをあとに、一路東京へと飛び発った。「キスミー」に行くという言葉を残して。

東京ロイヤル・ホテルの四十二階で、人気絶頂の女流デザイナー八杉恭子(岡田茉莉子)のファッション・ショーが始まって間もないころ、エレベーターの中で、黒人が胸にナイフを突き刺し、西条八十詩集を抱いたままその場に倒れて死んでいた。

男の名は、ジョニー・ヘイワード。

麹町署に捜査本部を置き、警視庁の那須班の刑事たちは、エレベーター・ガールの証言から、ジョニーが死にぎわに口走った“ストウハ……"という言葉を最初の手がかりとして、捜査を開始した。

棟居刑事(松田優作)とベテラン刑事横渡(ハナ肇)らは、現場近くの潜水公園を検証し、そこで古い麦わら帽子を発見した。

ストウハ……、それはストロウ・ハット(麦わら帽子)のことなのか?--

その夜、別の場所で車による轢殺事件が起きた。

東洋技研の新見部長(夏八木勲)に、家の近くまで送られてきたホステスのなおみ(范文雀)が車から降りて間もなく、別の方向から走ってきた車にはね飛ばされた。運転していた郡恭平(岩城滉一)は、女友達の路子(高沢順子)と共に、なおみの死体を車に担ぎこみ、山林に埋めた。

一方、なおみのことが気にかかり、彼女と別れた場所に戻った新見は、そこで血のにじんだ時計を見つける。

それは息子の恭平に、八杉恭子が買い与えた物だった。

ニューヨーク市誓の刑事ケン・シュフタン(ジョージ・ケネディ)は、日本からの依頼で、ジョニーの身元捜査のため、彼のアパートを訪ね、そこでパーク・アベニューに住む、ライオネル・アダムスの名を記したメモを見つけた。

アダムスの話によると、数カ月前、彼の車にぶつかってきたウィルシャー・ヘイワードという名の黒人に六千ドルを要求され、彼の息子のジョニーに支払ったという。一方、失踪した愛人のなおみを追っていた新見は、時計の持主が郡恭平であることをつきとめた。

新見から依頼を受けた棟居と横渡が、郡家を訪れると、すでに恭平はニューヨークへ発ったあとである。

恭平が事故を起こした事を知った恭子が、彼を国外へ逃がしたのであった。

郡家からの帰途、おでん屋に立ち寄った棟居と横渡は、酔い痴れた客(佐藤蛾次郎)が、西条八十の詩の中の“霧積"と言葉を口ずさむのを耳にする。

ジョニーが言った“キスミー"それは、もしかすると、この霧積のことではないのか?

早速その霧積へ飛んだ棟居と横渡は、この地に古くから住む中山たねという老婆(北林谷栄)が、昔、霧積にやって来た黒人の親子連れを見かけたことがあるという話を聞きこみ、そのたねのもとへ駈けつけたが、たねはその直前に殺されていた。

棟居らは、たねのいとこよしのから、たねが終戦直後、横須賀でバーを開いていたこと、そしてその店で意外な女性が働いていたことを知った。中山たねが、昔見かけた黒人の親子連れというのは、この女と、ウィルシャー・ヘイワード、そしてジョニーのことではないだろうか。

ウィルシャーが、わが身を犠牲にしてまで、息子を日本へ旅立たせた訳は、ジョニーを母に会わせるためだったのではないだろうか?

そして、日本へやって来たジョニーと、この母との間に何かが起きた--

棟居はいっきにニューヨークに飛び、25分署のケン・シュフタンとコンビを組んで、ジョニーの父親ウィルシャー・ヘイワードの捜査を開始したが、意外にも日本とアメリカの二人の刑事は、宿命的な絆によって結ばれていたのだ。

戦後30年、さまざまな生き方をしてきた人々が、見えない一本の糸にからまれるように、深く関り合う。

東京とニューヨークを結ぶこの捜査がすすむにつれ、事態の展開は、息をのむような新しい事実をほりおこし、また意外な事件を生んでゆく・・・




大きくなったら何になる?

2010-09-20 22:50:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

わらべ「めだかの兄妹」

このグループは、萩本欽一の担当番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』で結成された企画ユニット。

1982年のリニューアルにあわせて、これまで人形、あるいは子役タレントが担当してきた萩本家の3人の娘たち(のぞみ、かなえ、たまえ)が高校生として成長することになったのをきっかけに、オーディションで選ばれた3人の若手女優によって結成された。

当時はアイドル全盛期で華やかなアイドルが多くいた中で、素朴な雰囲気を醸し出し、注目を集めた。

萩本のぞみ 高部知子
萩本かなえ 倉沢淳美
萩本たまえ 高橋真美

そのひとりであったたまえ役の高橋さん(所属事務所は浅井企画でタレント活動を行っている)のお誕生日ということでアップしました。

『のぞみ・かなえ・たまえ』のメンバー名は、『希望(のぞみ)・叶え・給え』という語呂遊びになっていたが、萩本のぞみ役の高部知子の「ニャンニャン」事件で語呂遊びが崩れ、高部脱退で、倉沢、高橋の二人になる。

この曲は、1982年12月、

作詞はデビュー作が「四季の歌」(芹洋子が歌ったのは有名で、今は文部科学省認定の音楽の教科書に掲載している)で、「ラブ・ラブ・ミンキーモモ」、テレサ・テン、堀内孝雄に楽譜を提供する荒木とよひさ、

作曲は元々は演歌歌手になるために北島三郎を育てた作曲家船村徹に弟子入りするも、作曲家になるように薦められ作曲家となり、石川さゆり「津軽海峡冬景色」、坂本冬美「夜桜お七」、ドリーミン「アンパンマンのマーチ」、「勇気りんりん」など手がけ日本作曲家協会理事長を務めた三木たかし、

編曲は、YMOメンバーとして一世を風靡し、忌野清志郎とのコラボで話題になり、ちょっとYMO休止中な状態でも、クランクアップする映画「戦場のメリークリスマス」で音楽監督、俳優出演で大忙しだった坂本龍一

による凄い編成で、最初のシングル『めだかの兄妹』がフォーライフ・レコードよりリリースされた(レコード会社はその頃はイモ欽トリオ、シュガー、あみんで活きのいい状態だった)。

もともと番組のエンディングで、就寝するシーンの中で使われていた曲をリリースしたもので、番組の企画物であったこと等もあり、オリコンチャート1983年の年間シングルチャート第3位。88万枚以上を売り上げるヒットとなり、番組を放送していたテレビ朝日以外の局の音楽番組にも多数出演した。曲の内容は、『すずめ、こねこ、めだか』が成長したら何になりたいかを歌ったもので、パジャマにちゃんちゃんこの衣装で歌っていた。

ただ、このシングルがあまりにも売れすぎたため、これが当時の物品税の課税対象となる歌謡曲扱いか、または非課税となる童謡扱いかで論争となり、法廷で争われることとなってしまった。

その後、テレサ・テンの楽曲を提供し3年連続日本有線放送大賞グランプリに至ることになる作詞荒木、作曲三木コンビで、

Charのサポートメンバー、おニャン子クラブなど編曲を担当する佐藤準編曲「もしも明日が」、4人目のYMOとしてプログラミングを行った松武秀樹編曲「時計を止めて」をリリースすることになる。

のちに坂本龍一が『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲストとして出演した際、『めだかの兄妹』の編曲の仕事について、「どうしてこれが自分のところに来たのかと思った」と率直な感想を語っている。



俺はミッドナイトフライヤー

2010-09-20 22:43:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

滝ともはる「ミッドナイトフライヤー」

大分県中津市出身、

1977年 文化放送主催による全国アマチュアフォークコンテストで金賞受賞。

1978年 ポリドールレコードから1stアルバム『滝ともはる』、1stシングル「千羽鶴」リリース。

1979年 2ndアルバム『滝ともはるII』リリース

1980年 堀内孝雄の全国縦断コンサートに参加、「南回帰線」で堀内孝雄とデュエット。ベストテン入りを果たす。3rdアルバム『海からの書簡』リリース。

1981年 4thアルバム『手探りの季節』リリース。8月には、代々木公園でのフリーコンサートへ出演したジョー・コッカーの前座を務める。10月に、所属事務所のヤングジャパン(現アップフロントエージェンシー)より独立。これ以降ライブ活動に入る。年間に200本近いステージを消化

2001年 3月、ライブハウス"パラダイス・カフェ”を横浜にオープン。
2008年 6月1~2日、横浜開港祭のメインステージにて、パラダイスカフェレコーズの一員として出演という経歴を持つ。

この曲は9枚目のシングルで、1982年TVドラマ「ザ・ハングマンⅡ」のエンディングテーマ曲。

作詞作曲は、オーストラリアのシンガーソングライターで、ヤマハ主催の「世界歌謡祭」で入賞したことがあるポール・オゴーマン、スティーブ・グローブスによるもの。

滝さんは横浜にある「パラダイスカフェ」を拠点にライブ活動を行っている。



今日はありがとう

2010-09-20 22:37:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは、

オフコース「YES-NO」

「キラキラ」をお届けした小田和正さんのお誕生日記念の続編。

彼の音楽の出発点となったオフコース、

フォークソング全盛期にデビューして40年、惜しまれつつ東京ドームでのライブをもって解散して21年、再結成を願うファンは多いもの、ただいまの情報はない状態。

この曲は1980年にリリースした19枚目のシングルで、17枚目シングル「さよなら」の大ヒットで、一躍人気バンドとなり、その頃は彼らも波に乗ったニューミュージック全盛で、その新米サザンオールスターズ、竹内まりや、八神純子、渡辺真知子、クリスタルキングなどTV出演する中、彼らはTV出演はせず、ライブ活動やスタジオレコーディングを中心にし、ライブでのチケットは完売し、解散後、小田さんがソロ活動に勢力的になり、バンド時代からのファンが受け継ぎ小田さんのライブではチケットがかなりの会場で完売し続けている。

この曲の歌詞について、

小田は「“抱きしめよう”はともかく、“君を抱いていいの”は、当時の歌詞の中でも一線を越えてた。でも、そこを超えたから、みんなのアンテナに引っ掛かったんだよ。世の中には、いい曲だけど地味な曲って、たくさんある。それは、歌詞が一線を越えてないから、アンテナには引っ掛からないってことなんだよ。ただ、いくら引っ掛かるとは言っても、曲のタイトルを『君を抱いていいの』にしてはならない、というのも考えたけど」

「ずっと疑問文で成立している。そして最後に相手に責任を取らせる歌なんだ。“どうなんだ”って、突きつける。当時それならタイトルは『Yes or No?』じゃないかって言った奴がいたけど、突きつけてるんだ。だから『Yes-No』なんだ」とし、

「『週刊新潮』のコラムに『女の子にキャーキャー言われながら“君を抱いていいの”って、いい歳をして』って。

いやぁ、そんなこと書くんだなぁって思ったよ。

あと、客席のファンの人達が“タン スタタン”て間の手を入れ始めたのも、この頃からだろうね。“ああぁ~ 時はぁ~”のところで、そう手拍子するようになった。でも、『週刊新潮』も“タン スタタン”も、俺達がお願いしたことではなかったんだよ」とも、

『YES-NO 小田和正ヒストリー』でのインタビューで答えている。


ところで、

本番前、チューニングをあわせていたWコロンのねづっちと同じ潜在能力のギターの鈴木さんがなぞかけを。

「整いました!」

「オフコースのオフ」とかけて、「今のアンプ」と梳く。

「そのこころは?」

「OFF」だから。。。



シーーーーン




さあ、はじめましょう・・・








この愛はどこまでも続いていくから

2010-09-20 22:30:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

小田和正「キラキラ」

本日は小田さんのお誕生日ということでアップしました。

「おめでとうございます。」

かつては野球部に所属していたこともあり、「スポ根」な小田さんですが、

この曲は、2002年にリリースした21枚目のシングルで、2000年大ヒットしたTVドラマ「やまとなでしこ」のスタッフで構成されたTVドラマ「恋ノチカラ」の主題歌で、

オリコンチャートでは久々にTOP3入りを果たし、2002年4月に発売されたベストアルバム『自己ベスト』の1曲目に収録され、アルバムのヒットに貢献した。コーラスには坂本サトルと光田健一(元スターダスト・レビュー)が参加している。

小田の作品はアルバムはヒットしているものの1995年あたりからシングルの方は「伝えたいことがあるんだ」を除いてトップ10内に入ることはなかった。しかし、この「キラキラ」以降のシングルは現在まで連続でトップ10入りを果たし、オリジナルアルバムの方も売上げが大幅に伸びている。

小田さんの声について

男性ながらファルセットを使わず女声域までの高音を素直に出せる歌声が大きな特徴である。

オフコース初期には、バンドに女性ボーカルがいると間違われることもしばしばだったという。

その少年のような歌声から変声期を経ずに成長したのではとの見方もあり、自身も音楽評論家の小貫信昭のインタビュー本『たしかなこと』で

「変声期があった記憶がないので、声変わりしていないと思う」との旨を述べている。

しかし、2005年のコンサート中のMCにて「医者に尋ねてみたが、声変わりしていないという事は有り得ないそうだ」と、その認識に変化があった様子を伺わせた(発声が生来しっかりしていたため、声変わりしても元の音域で話せたせいで、声変わりに気づかなかっただけという可能性が指摘されている)。

話す声は比較的低く聞こえ、歌声とのギャップが大きいと感じる人が多く、「どうしたら高い声で歌えるのか」という質問をよくされるが、それに対しては「僕はただシャウトしているだけ」と答えている。東北大学時代は混声合唱団でテノールを担当していた。

混声合唱団では、男性高音パートを受け持つテノールのパート・リーダーを務めた。

声楽の褒め言葉として、「テノールのようなアルト」、「アルトのようなテノール」という表現があるが、小田和正の声はまさに後者にあたる。

小田和正は「声変わり」していないという俗説があるが、声変わりした男性の声は女声より確実に1オクターブ低くなる。

ウィーン少年合唱団の声は女声と同じ音域であるが小田和正の話声は女声より1オクターブ低く声変わり後の男声である。

ただ、小田和正の歌声の発声領域は、「ヘ音記号」楽譜の下のソ音(G)付近から「ト音記号」楽譜の上のレ音(D)付近までである。

つまり、小田和正は女性の声域のさらに下に1オクターブ追加された声域ということになる。

音域が広いため、よく聴いてみると高音部が目立つ楽曲の中にもアルトの領域を少し下に外れテノールの領域に入る部分が僅かに組み込まれているものもあり、男声として高域の伸びと声の質が小田和正の天性の魅力となっている。その発声はいわゆる、音の揺らぎ-ビブラート-の少ないフラットな澄んだ声であることと、音程の正しさも小田和正の高域の声の美しい印象を高めている。

エピソード

古今亭志ん生のファンである。

カラオケで歌えるのは『港町十三番地』(美空ひばり)だけだとある雑誌のインタビューで答えている。

オフコースが売れた頃、園遊会を断った。

『ラブ・ストーリーは突然に』がヒットした1991年の紅白出場の有力候補とされたが、そのオファーを蹴ってFNS歌謡祭に出演したとされる。

レコーディング時、松たか子を泣かせたことがあるが、矢井田瞳は泣かなかった。

松山千春に「コーラスやろうか?」と言われ、「お前が歌うとコブシが入るから要らない」 と答えた。

2008年夏に行われた「情熱大陸」のイベントで葉加瀬太郎は、「言葉にできない」を共演したが、小田の歌声に聞き惚れ、肝心のバイオリン演奏を忘れてしまった。[3]

2008年9月10日の武道館ライヴを見に来ていた安室奈美恵と同じ誕生日だった事が縁で誕生日当日に互いに「おめでとう」のメール交換をした。

オフコース時代の1973年頃、ひるのプレゼント(NHK総合)に柳家小さんとともに出演したことがある。

1985年に行われたライブエイドでは、司会を南こうせつが務める中、矢沢永吉とともにフジテレビに出演した。

1984年2月14日放送のフジテレビ「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに、明石家さんまからの紹介で出演、普段から「苦手な芸能人」の1人と公言していたタモリを手こずらせた。小田は翌日のお友達に星野仙一を紹介している。

聖光学院では厳格な校則には不満を抱いていた。自習の時間には「体育の自習でもいいんだろ」と遊んでいたという。

聖光学院在学中、遠足が雨で中止になった際に友人とともに冗談で観光バスを手配したところ、本当にガイド付きのバスが来てしまったのでそのバスを貸し切って観光に出かけたことがある。

サウンドコニファー229~青春の影~にてCHAGE and ASKAと共演した際、芸名では呼びにくいといい、二人のことを宮崎(ASKA本名)、柴田(CHAGE本名)と呼び、本人達もそれを了承していた。

明治村が好きで、何度も足を運ぶ(特にフランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテルのミニチュアがお気に入り)。それが縁となり、明治村を経営する名古屋鉄道の企業CMで小田の曲が使われている

9月20日にお誕生日を迎えましたが、

小田さんの事務所「Far East Cafe」のスタッフによるお誕生日祝いのブログ。

「レコーディング2ndセッションまでの間、日々FECスタジオでプリプロダクションに励んでいます。そんな中で、社員みんなで一足早く、HAPPY BIRTHDAY! しました。
ということでの今日の一コマ、お、うまそ!でした(^_^)。
祝!\(^O^)/!!
(KINO)」

アップしたのはTVドラマ「恋ノチカラ」の名場面をまとめたオリジナルPVで、出演した深津絵里、堤真一、矢田亜希子、坂口憲二など草々メンバー登場しているのでごらんください。



終わらない物語

2010-09-20 22:24:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

伊藤由奈(リリース時:REIRA starring YUNA ITO)「Endless Story」

本日は伊藤さんのお誕生日ということで、代表的なナンバーをピックアップしました。

デビューして5年を迎えますが、現在もレコーディングなど音楽活動を行っている模様で、学園祭ライブを控えている。

日本人と韓国系アメリカ人の間に生まれた彼女ですが、

人物像として、

あだ名は「由奈ぽん」、「由奈嬢」。

愛犬はミニチュアダックスフントの「ドルチェ」。

仲の良い芸能人はアニマル浜口と同じ潜在能力の中島美嘉、池乃めだかと同じ潜在能力の佐々木希、本田博太郎と同じ潜在能力の谷村奈南などである。また、長塚京三と同じ潜在能力のAIはデビュー前からの大親友だった。

実は日本語が苦手である。テレビ等出演時はあらかじめ台詞を丸暗記する能力を持ち合わせている。

ジェームズ・コバーンと同じ潜在能力の青木さやかの大ファンである。青木がMCを担当する『音楽戦士 MUSIC FIGHTER』に出演したとき、自分のことを「青木マニア」と言って「テレビ見てて青木さんが出たらそのままチャンネルストップ」とコメントしていた。他にも松平定知と同じ潜在能力の小島よしおが気になるとラジオ番組で公表している。

好きな食べ物であり得意の料理がフィリピン料理のアドボ。『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で調理した。

田村裕(麒麟)と同じ潜在能力のマライア・キャリーの大ファンで、歌手を目指すキッカケになったのもマライアの曲である。

J-POPでは6代目三遊亭圓楽と同じ潜在能力のCrystal KayやDOUBLEを好む。

日本に来たての頃は、忙しい気分を味わいたくて通勤列車のラッシュ時の混雑や高速道路の渋滞を体験したかったようである。実際に体験して「私忙しいと思った。」という。

日本で歌手デビューする前の2003年に韓国のファッション誌でモデルデビューしていた。

で、

この曲は、2005年公開の映画「NANA-ナナ-」の劇中歌として採用された楽曲。伊藤由奈は新人ながら芹澤レイラ役に選ばれ、同映画の中で歌った。劇中の役名名義での発売となったが、実質的な伊藤由奈のデビューシングルであり、公式でもそのように扱われている(そのため次作『Faith/Pureyes』は2ndシングルとなっている)。

同映画の主演を務めた大関琴欧州と同じ生年月日の中島美嘉が、同様に役名NANA starring MIKA NAKASHIMA名義で発売した主題歌『GLAMOROUS SKY』との同日発売で話題となり、デビュー曲にしてオリコンシングルチャートで初登場2位を記録した。この週の1位は『GLAMOROUS SKY』であり、同映画から派出した2作品がチャートを1,2フィニッシュで飾る結果となった。

この後オリコン週間シングルチャートにおいて、初登場から8週連続ベスト5入りするヒットとなり、女性ソロアーティストのデビュー曲でのベスト5入り最長記録を樹立した(それまでの記録は1989年・宮沢りえ『ドリームラッシュ』の5週)。

また、初登場以来10週連続のベスト10入りを記録した。初登場ベスト5入りしたデビュー作がその後10週以上連続でベスト10入りしたのは、CHEMISTRYの『PIECES OF A DREAM』(16週連続・2001年)以来となった。

最終的には同発の中島美嘉などのヒット作に阻まれ、週間チャートでの最高位は2位であったが、累計売上では『GLAMOROUS SKY』を上回っている。

ちなみにオリコンが選定する2005年のNo.1ラブソング。また、中野雄太がHΛLから脱退した後に発表されたCDで、新旧HΛLメンバー全員が製作に関っているシングルCDは、現在のところ本作のみである。

このヒットにより、中島美嘉と共に同年末の音楽番組に度々登場し、2005年12月31日の第56回NHK紅白歌合戦に揃って登場した。伊藤自身はデビュー年にして初出場となった。ベストヒット歌謡祭・最優秀新人賞、第38回日本有線大賞・最優秀新人賞、第47回日本レコード大賞・特別賞など年末の賞レースでは新人賞関連での受賞が相次いだ。特に『ベストヒット歌謡祭』最優秀新人賞受賞の披露に際しては、あまりの嬉しさに泣いて途中で歌い切れなかった。

原曲は1993年の映画「Indecent Proposal(幸福の条件)」のサウンドトラックに収録されていたドーン・トーマス(Dawn Ann Thomas)の“If I'm Not in Love With You”であり、発表時にはほとんど知られていなかったが、実際はカヴァー曲である。これ以前にも、「If I'm Not in Love」というタイトルでキャシー・トロッコリがカヴァーしたほか、1998年にジョディ・ワトリーが、1999年にはフェイス・ヒルによってカヴァーされている。歌詞は元HΛLの作曲・編曲家であるats-による日本語訳詞。ats-名義での作詞は初。編曲はats-がかつて在籍したHΛLが務め、「NANA」で伊藤由奈が演じたREIRAが所属するバンド、TRAPNESTをイメージしたサウンドに仕上がっている。2007年には徳永英明によってこの日本語版がカヴァーされた。



くるおしいままに

2010-09-20 22:16:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

中村雅俊「恋人も濡れる街角」

9月20日にアップしたのは、中村さんの妻で、かつてはアイドル的な人気女優であり、人気絶頂の中、ドラマで共演した中村さんが26歳の誕生日に「できちゃった結婚」を発表し、芸能活動を休止し、4人の子を抱える母となり、落ち着いた時に「教師びんびん物語」で復帰し、今はフラワーアレンジメントの講師を務めている五十嵐淳子さんのお誕生日ということで。

「おめでとうございます。」

「笑っていいとも!」テレフォンショッキングでは16回登場で男性ゲストでは歴代3位を記録、来年初めに還暦を迎える中村さんですが、

デビュー曲「ふれあい」、「俺たちの旅」、そして前年発売された(ヒット自体は1982年)「心の色」に次ぐヒット曲で、オリコンチャート最高5位、1983年の売り上げ24位を記録した(オリコン)。

作詞と作曲及びヴォーカル・ディレクションをサザンオールスターズの桑田佳祐が担当し、表題曲『恋人も濡れる街角』は横浜の馬車道をフィーチャーしたエロティックできわどい内容の歌詞が特徴で、ムード歌謡的な楽曲である。

後に桑田佳祐も複数回この楽曲をセルフカヴァーしているが、いずれもライブでの披露や自身のラジオ番組「桑田佳祐のやさしい夜遊び」の弾き語りのみで、正式発売されたものは無い。これについて桑田は「雅俊のライブ行けよ〜」と発言している。

リズムは「ボサノバ」である。

作るきっかけは1982年初旬「ザ・ベストテン」、「ザ・トップテン」で「心の色」が首位を守っていたが、そのころに結婚した桑田佳祐率いるサザンオールスターズ「チャコの海岸物語」と首位の争いが縁で。(チャートではシュガー「ウェディングベル」、忌野清志郎+坂本龍一「い・け・な・いルージュマジック」などが上位に入っていた。)

歌詞があまりにもエロいにもかかわらず、AC公共広告機構の子供ワクチンキャンペーンに起用された。



レーニンです!?

2010-09-20 22:08:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

小林麻美 「雨音はショパンの調べ」

今年は音楽家フレデリック・ショパン生誕200年を迎えることと、夏から秋になる前兆で秋雨前線に伴う雨にちなみ、アップしました。

この曲は、小林さんにとって、8年ぶり8枚目のシングル。

1983年にリリースしたガゼボ「I Like Chopin」によるナンバーのカバーで、1984年、日本語詞松任谷由実でリリースし、オリコンシングルチャート1位を獲得し、年間(1984年度)12位を記録する大ヒット。


小林さんはモデル活動を本業にしていたため、ザ・ベストテンなどの歌番組に出演はしなかったが、この曲のプロモーションビデオは制作している。
そんな藤波辰爾と同じ潜在能力の小林さんですが、1991年、所属事務所田辺エージェンシーの社長田邊氏と結婚し、芸能界引退、今は社長夫人で活躍している。

アップしたものは、1980年彼女がヒロインとして出演した映画「野獣死すべし」のワンシーンとピアノの弾き語りをしているシーンをミックスしたもの。

タイトルの意味は、この曲のさびの替え歌で「タモリのボキャブラ天国」のネタからパクってきました。



風呂上りにスコール

2010-09-20 22:00:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

福山雅治「Squall」

ちょうど一年前の「わしやま音楽祭Vol.3」で、松本英子Verをアップしましたが、今回はこの曲を手がけた本人によるセルフカバーをアップしました。

この曲は、本人主演のTVドラマ「パーフェクトラブ」の挿入歌(主題歌はGLAY「ここではないどこか」)として、本人作詞作曲、音楽プロデュースで、1999年9月に松本英子Verがリリースし、オリコンチャートのベスト10内に入るヒットとなり、1999年11月にシングル「HEAVEN」と両A面としてリリース、初チャートインした時は、当時勢いのあった宇多田ヒカル、モーニング娘。内メンバーで結成したプッチモニに上位を阻まれていたが、チャート5週目で首位になり、2000年度オリコン年間チャートでは21位を記録し、次シングル「桜坂」では最大のヒットを出すこととなる。

今年デビュー20年を迎え、ボーカリスト、作詞、作曲、音楽プロデュースなどの音楽活動でなく、俳優活動、写真活動、そして国民に支持を受け、泣く子も黙る好感度の強い福山さんですが、

生い立ち・エピソード・デビューまで眺めると

1969年長崎県生まれで、

出生時の体重は4000g強の巨大児であった。

幼稚園の頃は、女の子に声をかけられただけで泣き出すほど内気だった。

小学生の頃、空手を習っていたため腕っ節が強く、友達と一緒になって他のクラスの子と喧
嘩したり、授業中に友達と2人で失踪するなどして、よく先生に叱られていた。

4年生の頃、地元のソフトボールチームに入団。エースピッチャーとして活躍するが、右肩を故障してしまう。家計が苦しかったため、5,6年生の頃からアルバイト(新聞配達)をしていた。

小学6年生のころ、水泳教室に通っていた。しかし、やる気がなくてすぐやめてしまった。
子供の頃は今のようなシンガーソングライターとしての成功は無理だと思い、音楽の教師になりたかったらしいが家庭の状況(金銭面)から断念した。

父親が被爆者なので「自身は被爆二世である」と発言したことがある。2009年8月9日の『福山雅治のSUZUKI TALKING F.M.』ではその日が長崎原爆の日であることからこの事に触れ、「父親はもろに被爆した。母親も厳密に言えば被爆していることになり、僕は被爆2世ということになる」と語っている。

中学生の頃、サッカー部に入部しようと思っていたが、兄から吹奏楽部に誘われ入部。ホルンを担当し、部長も務めた。

兄の影響でギターを弾き始め、2年生の頃、友人とバンドを結成。卒業式前日に、学校の体育館にて最初で最後のライブを行う。

それとは別に、兄ともバンド“LAR”を組んで、THE MODS、A.R.B.などのコピーをしていた(兄はドラム、福山はギター)。

当時、高校に進学する気はなく、卒業したら東京に行くつもりであったが、周囲がみんな高校に進学をするということに気がつき、長崎工業高校に進学する。ちなみに高校のときは茶道部に所属していた。入った理由は『お菓子が食べられるから』。

近くの女子校でファンクラブが作られるほど人気があり、バスで学校に通っていたため“バス停の君”と呼ばれていたという。

浜田省吾、サンハウス、THE MODS、A.R.B.、SION、ブルース・スプリングスティーン らの影響を受けた。デビューアルバム『伝言』は、福山本人の希望もあって、A.R.B.のギタリスト白浜久のバックアップを得て制作されている。また、SIONに関しては、「SORRY BABY」をカバーしたり、シングル『たまには自分を褒めてやろう』で共演するなどしている。

学生時代からラジオを愛聴していた。『プレゼントアワー』という、長崎のローカルAM放送局NBCラジオが日曜深夜に放送していた番組のリスナーだった。在学校名や実名をあげて個人の情報を依頼・提供し合うというコーナーがあり、自分の名前があがらないかと毎週楽しみに聴いていたが、結局高校を卒業するまで名前が読み上げられることはなかった。

高校卒業後、父親が他界しており、兄も自衛隊に入隊していたため、母親を長崎にひとり残して東京に行くことができず、長崎で就職する。自宅から徒歩5分で、学科試験がないという理由で、電機会社(システック井上)の営業職に就くが、仕事に身が入らず、営業で会社を出ると、海岸に車をとめて毎日文化放送の『吉田照美のやる気MANMAN!』を聴いていたという。

就職して数ヶ月後、音楽への未練が断ち切れず1987年8月31日付けで会社を辞めて上京することを決意。初任給で購入した400ccのバイクを売却し、20万円を手にする。

会社を辞めた日、母親に、会社を辞めて東京に行くことを伝えると、あっさり承諾された(実は、母親は福山が辞表を書いていたことを知っていたため、あっさり承諾したのだという)。

1987年9月の夕方、上京する時に会社の先輩、高校時代の同級生、当時の彼女が長崎駅に見送りにやってきた。上京する本当の目的を周囲の人間に恥ずかしくて言えなかったので、古着屋になると言って出て来たという。長崎駅から寝台に乗って上京。当時、福山は20万円で半年間生活出来ると思っていたらしい。

(高校の3年間同じクラスだった)同級生が先に上京していたため、上京の一週間前に連絡を入れ、同級生の家に居候させてもらう。ピザ屋の配達、日雇いの運送屋のアルバイトを経て、近所の材木屋に勤め、ようやく生活が落ち着く。

1987年秋、その当時、たまたま見ていたテレビ番組『美少女学園』の中で、“アミューズ10ムービーズオーディション”の告知を見て、俳優志望ではないのにもかかわらず、オーディションを受けることを決意、居候先の同級生に写真を撮ってもらい応募する。電話もなかったので、アミューズからの連絡はすべて、大家さんを通して郵便物がくるようになっていたという。

オーディションの面接で、特技を聞かれた際、「材木担ぎ」と答え、泉谷しげるの「春夏秋冬」をギターの弾き語りで披露する。最終選考の詳細を告げる連絡がなかなか来なかったため、落選したと思い、落ち込んだ福山は最終選考のある日、気分転換に車でドライブへ出かけるが、16号線のど真ん中で車のマフラーが落ちてしまい、家へ引き返す。自宅前でマフラーを取り付けているときにアミューズから「至急連絡されたし」の電報が届き、急いでオーディション会場へ向かい「春夏秋冬」を弾き語りし、見事合格する。

オーディション合格後、養成契約期間ということで一年間に3万円という給料を提示される。都心に引っ越さなければならなかったため材木屋のアルバイトを辞める。この材木屋は強く思い出に残っているようで、現在でもラジオで話すことがある。

上京当時のバイト先のとあるバーでゴミ出しの際に発見した泥酔状態の女性を、自宅へ拾って帰ったことがある。しかし、後に「まあ、嘘ですけどね」と冗談を言っている。

AVは買わなくてもインターネットでサンプル動画を観るだけで十分だという。最近ほとんど観ていないそうだが、AV女優のRioが好み。魂のラジオにて、リスナーから「Rioの握手会に参加した際、福山さんがあなたのことをよくラジオで話しているので来ました、と言ったら、すごく喜んでいました」というメールを受け取り、「気が利く!でかした!」と大喜びした。

アミューズオーディションに合格し、芸能界入りするも、初のライブは観客数0だったそうで、今考えるとすごい成長をして、風貌も40代に入っても、20代でも通用できるほど、20代の有名人と肩並べている「カッコイイ」の粋をすでに超えていて「最強変態者」とも言えるレベル、今は、大河ドラマ「龍馬伝」で主役の坂本龍馬を演じていて、音楽に集中すると思ったら、老若男女観る大河の大役、この世界が好きで、結婚しない理由がわかる気がするね・・・

来年あたり桜井さんから呼び出しで「ap BANK fes」に出そうな気がするね・・・シークレットで。