わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

これ見て、陸サーフィン。

2011-07-31 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは


YMO「Cosmic Surfin' 」


今年の「フジロックフェスティバル」の最終日に登場し、今頃は大盛況に終わったと思いますが、

その後もライブてんこ盛りでありあす!

この曲は、椎名林檎が生まれた日にリリースしたデビューアルバムに収録されたナンバー。

細野晴臣によるプロデュースで、坂本龍一と高橋幸宏と3人で楽曲を提供した。

このとき高橋は作曲経験が浅かったため、坂本から作曲の方法を聞いたり、鼻歌を坂本が書き留めて譜面化するなどしていたという。

また、当時細野は本名ではなく「ハリー細野」と名乗っており、プロデューサー名のクレジットも「HARRY HOSONO」となっている。

ジャケットデザインは脇田愛二郎。

アルバム制作費は当時の一般的な製作費の倍に当たる800万円をかけていた。

アルバムには収録されなかった楽曲に、「インド」(仮タイトル)がある。(後にPre-YMO名義で発表)

このアルバムがリリースされた時は話題すらなかったが、翌年にU.S.版がリリースされ、アメリカで話題となり、そこから伝説が始まるのだった...



YMOについて、

神様3人が語録を残しているので、

紹介します。

「たまたま時代の本流をつかんでしまった。時代がYMOを取り入れたのです。」細野晴臣

「YMOの世界進出は、世界最新のテクノロジーで武装するアンドノイド戦士であることが必要条件だった。」坂本龍一

「今は同化の時代でしょ。ロックを聴いて拳をあげるという。気持ち悪いですね。」高橋幸宏

1980年日本武道館より。

いい子猫ちゃん

2011-07-30 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

日野皓正 「City Connection」


まずは、倉科カナと同じ潜在能力の日野さんとジャズ好きな宮澤佐江と同じ潜在能力のタモリさんとのコラボCM 1982


経歴として

タップダンサー兼トランペッターであった父親より、4歳からタップダンス、9歳からトランペットを学び始め、13歳の頃には米軍キャンプのダンス・バンドで活動を始める。

1964年、白木秀雄クインテットに参加し、1965年ベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演し喝采を浴びる。

1967年、初リーダー・アルバム『アローン・アローン・アンド・アローン』をリリース。

1968年、菊地雅章との双頭ユニット日野=菊地クインテットを結成、録音。

1969年、『ハイノロジー』をリリース後、マスコミに“ヒノテル・ブーム”と騒がれるほどの絶大な注目を集める。

1972年、ニューポート・ジャズ・フェスティバル出演。

1975年、N.Y.に渡り居を構え、ジャッキー・マクリーン、ギル・エバンス、ホレス・シルバー、ラリー・コリエルなどと活動を重ねる。

1979年、『シティー・コネクション』、1981年『ダブル・レインボー』、とたて続けに大ヒットアルバムをリリース。

1982年、『ピラミッド』をリリースし、武道館を含む全国ツアーを行う。

1984年、ロサンゼルス・オリンピック・アートフェスティバルに出演。

1989年、ジャズの名門レーベル“ブルー・ノート”と日本人初の契約アーティストとなり、第1弾アルバム『ブルーストラック』は、日本はもとより、アメリカでも大好評を博す。

1990年以降、自身の夢である「アジアを1つに」という願いを込め、アジア各国を渡り歩き、探し集めたミュージシャンと結成した《日野皓正&ASIANJAZZ ALLSTARS》で、1995~96年に北米-アジアツアーを行う。

1995年、日野=菊地クインテットによる『アコースティック・ブギ』《日本ジャズディスク大賞 金賞受賞》をリリースし、Mt.Fuji Jazz Festival他、ブルーノート・ツアーを行う。

1997年、台湾での「第16回国際芸術祭」、シドニーでの「日豪友好100周年記念コンサート」に出演。

2000年、大阪音楽大学短期大学部客員教授就任。

2001年、インド、パキスタンにて公演の他、西インド地震災害チャリティコンサート、そしてカンボジアでも子供たちのためのチャリティコンサートを行う。
アルバムは『D・N・A』をリリースし、レコーディング・メンバーにて全国ツアーを行う。このD・N・Aプロジェクトは芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)受賞。

2004年、紫綬褒章受章。また約20年ぶりに映画音楽を手掛け、〔『透光の樹』主演:秋吉久美子、監督:根岸吉太郎〕サウンド・トラックは文化庁芸術祭レコード部門 優秀賞、毎日映画コンクール 音楽賞受賞。

2007年、盟友 菊地雅章(pf)との、日野=菊地クインテット『カウンターカレント』、デュオ・アルバム『エッジス』を発売。 《『エッジス』日本ジャズディスク大賞 銀賞受賞作品》

最新アルバムはレギュラークインテットによる2008年11月リリースの『寂光』。《ジャズディスク大賞 日本ジャズ賞受賞作品》
ジャズシーンを代表する国際的アーティストとして国内外にて精力的に公演を行うと同時に、近年は個展や画集の出版など絵画の分野でも活躍が著しい。またチャリティー活動や後進の指導にも情熱を注いでいる。


《NPOグローバルスポーツアライアンス理事》
《スペシャルオリンピックス スペシャル・サポーター(http://www.son.or.jp/)》
《東京青山ロータリークラブ 名誉会員》
《大阪音楽大学短期大学部 客員教授》

7/30に青森、8/1から九州のほうでコンサートを行う。(詳細はオフィシャルページ)

まるで夢ごこち

2011-07-29 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

COMPLEX「PRETTY DOLL」

7/30と31、東日本大震災復興のためにあの二人が、再び手を組み、「日本一心」を掲げ、21年ぶりに東京ドームにてチャリティライブを行いますが、

この二人といえば、

吉川晃司(Vo)



布袋寅泰(G、Cho)。




吉川は、

震災以来俺なりに、
エンターテイメントが力になれる機を伺っていました。

被災を免れた人々とは、ともに復興を支える決意を交せるような。
被災者の皆さんへは援助を届けられる行為を。
それをやれる空間と策を模索しながら。

いつかコンプレックスをやろうと話したこともあり、
ならば今しかないだろうと布袋氏に打診。
いまは諸々整理がつかないが、旨には賛同するゆえ独りで歌ってくれて
構わない、という返答を得た。

演奏メンバー、スタッフや機材の確保見込みが付いたのが今月中旬半ば。
さあ発表するぞ!の直前。
「やはり意義を優先したい、是非ともやろう」
と連絡があった。

ならば、それが一番じゃないか。
翌日に合意。

そこからはひたすらに突き進み、今日の発表となりました。


彼がギターを弾き、俺が歌う。

ただそれだけのこと。


されどそれだけのこと。


賛同を得られるならば、

同志の皆さん 東京ドームで逢おう!







布袋は、

震災後、ミュージシャンとして、そして一人の男として
「自分に出来ることがあるならすべて行動にうつそう」と自分に誓った。
のちに後悔するような生き方は絶対にしたくない。

被災地で今も不安な毎日を過ごしている方々。
救援、復興、そして子供たちの大切な未来のために
力を尽くして下さっている方々。
そんな皆さんに向けて今、自分ができることは何か?

音楽でエールを送ることしかない!

そんな中、吉川君から連絡をもらい朝の公園でコンプレックスの話をした。
自分たちが持てる力を最大限の形で届けよう、と。

願いは一つ。

心は一つ。

答えは一つ。

「やろうぜ!」と固く握手を交わした。

清々しい一日の始まりだった。

二人の突然の決断を受け入れ、全面的な協力を約束してくれた関係者の皆さんに心から感謝します。
今度のコンプレックスは二人じゃない!
我々と心を一つにして、このコンサートに参加してくれる皆さん全員がバンドのメンバーです。

どうか皆さん、是非御協力ください!




この曲は1989年デビューアルバム「COMPLEX」のオープニングナンバー。

二人は、布袋の所属していたバンドであるBOØWYのアルバムに吉川が参加、また吉川のアルバムにギタリストとして布袋が参加するなど結成以前から交流があり、1988年12月10日にCOMPLEX結成を発表する。同年4月に人気絶頂の中で解散したBOØWYのギタリスト・布袋と絶大な人気を誇っていたアイドルロックシンガー・吉川という異色かつ大型ユニット結成の発表に、世間の注目が集まった。先行シングル「BE MY BABY」、この曲を含むアルバム「COMPLEX」は、初登場1位を獲得、瞬く間にオリコンチャートを席巻する超人気ユニットとなる。ロックとポップ、デジタルを融合させたその音楽性は高い支持を得る。




ロックとポップ、デジタルを融合させたサウンドに合わせたプロモーションビデオも当時としては新しいものを感じたことを思い出します。

「アフォッ」

うなじ

2011-07-28 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

うなづきトリオ「うなづきマーチ」

1980年代のMANZAIブームに乗って、紳助・竜介、ツービート、B&Bのツッコミによって結成され、プチブームとなった。プロデュースは大瀧詠一が担当した。

デビューするに当たって当時何人もの大物歌手にオファーを出している。


で、本日はこの曲をすべて手がけた大瀧詠一さんのお誕生日ということで、関連でうなづきトリオのナンバーを紹介します。

この曲は1982年元日にキャニオンレコードからリリースしたナンバー。

オリコンシングルチャートでは最高55位、100位以内に10週チャートインを記録した。

B面は作詞作曲編曲は同じ、構成:高平哲郎による「B面でうなずいて」。大瀧の代表曲「A面で恋をして」のパロディと思われる。

ユニット名は番組プロデューサーで後に吉本興業東京支社長となった横澤彪が命名。

「うなずき」は[島田紳助]の「竜介・きよし・洋八の3人を組ませて漫才をやらせてたらどうなるかって? 竜介が「んなあほな!」、洋八が「何でやねん!」、きよしさんが「よしなさい!」って、うなずくだけの漫才になる。」というネタに由来している。
うなずきトリオ解散後の1986年にビートきよしと松本竜介が“うなずきコンビ”といううなずきトリオの再結成ユニットを組んで『ひょうきんスター誕生』に出場してグランプリを獲得したことがある。また、うなずきコンビは2008年4月にきよし・洋八で再結成された。現在でも定期的に吉本の劇場中心に舞台を勤める。

ますだおかだのオールナイトニッポンのコーナー平成のうなずきトリオを作れ!というコーナー中で、平成のうなずきトリオが結成された。メンバーはますだおかだの岡田圭右・ドランクドラゴンの鈴木拓・DonDokoDonの平畠啓史の3人。番組内でうなずきマーチ平成版の歌詞を作り録音し、CDデビューも目指していたが大瀧詠一からの返事がなかったため頓挫した。

メンバーの一人、松本竜介が亡くなる半年前(2005年10月3日)に、日本テレビ系列の『ものまねバトル』に3人揃って出演。竜介にとってはこれが最後のテレビ出演となった。番組出場時、丸山和也から“何故あなたは紳助みたいにならなかった?”と聞かれ、本人は「何ででしょうね」と笑いながら回答していた。

うなずきトリオの姉妹ユニットとして、やかましトリオ・仲良しコンビ・いじわるコンビがあった。

ムーー!・・・・・・ガォ~~・・・・・・

2011-07-27 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

クリエイション「暗黒のLEO」


13歳からギターを始めた「ブルースマン」竹田和夫を中心に、1969年前身「ブルース・クリエイション」を結成し、一度解散し、1972年「クリエイション」として活動を再開、テリーとドリーのザ・ファンクスの入場曲「スプニング・トーホールド」、TVドラマ「プロハンター」主題歌「ロンリーハート」などの代表曲がある。

この曲は1978年TVドラマ「ムー一族」のオープニングテーマとしてシングルリリースされた。

この曲がリリースされた時のメンバーのベーシストとして元フリー、フェイセズのメンバーだった山内テツが参加している。


現在、竹田さんはロス在住でそこを拠点に音楽活動を行っている。

そいや

2011-07-26 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
おとどけするのは

さくらまや「大漁まつり」

本日はさくらまや氏のお誕生日ということであっぷしました。

この曲は2009年、さくらまやのデビューシングル。

「ホッケも帆立も当たり年」で始まる歌詞の意味は日本中の港町が大漁になり幸せになってほしいという願いが込められている。

タカラトミー「親子のたいやきくん」CMソング。

2009年9月2日にDVD付きバージョンがリリースされた。

2009年第51回日本レコード大賞新人賞、第42回日本有線大賞新人賞受賞曲。


そんな山下達郎と同じ潜在能力の彼女であるが、

憧れの歌手は美空ひばり、北島三郎。好きな歌は美空ひばりの「リンゴ追分」や北島三郎の「まつり」など。夢は『紅白歌合戦』に出場し「ひいおばあちゃん見てますか?」と手を振ること。デビューシングルの作曲を務めた岡千秋は「美空ひばりの再来」と評す。

趣味は読書。絵画も得意で、2004年には日本ユネスコ協会連盟主催の絵画賞の受賞歴もある。

好きな食べ物は餃子、スッポン料理、落雁、干菓子である。

2009年12月2日、第51回日本レコード大賞新人賞を受賞した。また、同年には第42回日本有線大賞新人賞も受賞し、両賞とも、受賞時年齢が11歳の史上最年少での受賞となった。

2009年はデビュー曲「大漁まつり」に合わせて夏休みを返上して全国ツアーを行った。2010年にはさらに大規模な全国ツアーを行うことを宣言した。バラエティ番組のほか、時代劇テレビドラマ『水戸黄門』(TBS) にも出演するなど、子役としても活動する。

2009年の大晦日メモリアル紅白『第60回NHK紅白歌合戦』の企画コーナー「子供紅白」でデビュー曲「大漁まつり」を熱唱した。

2010年年11月21日、第52回日本レコード大賞日本作曲家協会奨励賞を受賞した。受賞年齢12歳の最年少受賞となった。

さくらの後援会の事務局長は北海道議会議員の山崎泉が務めている。

現在は中学生になり、子供のような振る舞いが利かなくなる年齢になり、彼女が教養性あるか否かで大人への第一歩を踏み入れると同時に前進した演歌歌手として成長できるか勝負どころである・・・(アメブロにてボチボチ更新中である)

転がる石に家紋!

2011-07-26 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

The Rolling Stones「come on」

本日は口のでかいボーカリストミック・ジャガーのお誕生日ということでアップしました。

この曲は彼らにとって記念すべきデビュー曲で、ロック界の巨匠チャック・ベリーによるカバー。


そんな写真の方(お誕生日おめでとう。)と同じ潜在能力のミックですが、ザ・ローリング・ストーンズ結成50年目にして初の新バンド・スーパーヘヴィを結成したことを、所属するユニバーサルミュージックが発表した。

メンバーには、故ボブ・マーリーの息子ダミアン・マーリーや元ユーリズミックスのデイヴ・スチュワート、ジョス・ストーン、インド映画音楽界の巨匠A.R.ラフマーンを迎える。

ミックがジャマイカにあるデイヴの家に招かれ、音楽の世界について語り合ったことをきっかけに、新バンドを結成。あらゆるジャンルの音楽を背景とした“未知の世界の音”を表現すべく、各ジャンルを代表するような本格的アーティストが選び抜かれた。

映画『アルフィー』のサウンドトラックで共演していたジョスにまず声を掛け、次はミックが「ずっとファンだった」というダミアン。そして、インド映画界で数々の名作を生んだ圧倒的なスケール感から、ラフマーンに白羽の矢がたった。「そりゃ面白いアイディアだと思ったよ。でも実現するとは思わなかった」とミックが驚くほど、豪華メンバーが集結した。

アルバム『スーパーヘヴィ』を9月21日発売することが決定。「とにかく、世界一複雑なレコーディングだったよ」(デイヴ)、「参加できて、ホント、嬉しかったよ」(ダミアン)、「スタジオの中で子供みたいに“信じられない!”ってはしゃいでたら皆に“落ち着けよ”って目で見られちゃった」(ジョス)と興奮覚めやらぬなか完成した、同アルバム収録の「ミラクル・ワーカー」がシングルカットされ本日発売する。


これぞ!スーパー野生児

2011-07-25 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
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Native Son「Super Safari」


この曲は1979年デビューアルバム「Native Son」に収録されたナンバーで、

このデビューアルバムはフュージョンブームと重なって、30万枚もの売り上げ、オリコンアルバムチャート(1979年度)ではニューミュージック全盛を代表するアーティストに混じり44位を記録し、この曲はカセットテープのCMにも起用された。


このアルバムについて(www.aomori-net.ne.jpより)。


ネイティブ・サンについて論じる前に、まず押さえておかなければならない事がある。それは当時日本中に吹き荒れていたフュージョン・ブームについてだ。

70年代後半から80年代前半というのは経済的にもバブルに向かって、どんどん景気が良くなっていた頃。
日本人みんな「何が何だかよく分からないけど、景気が良くなって、どんどん世の中楽しくなっていくナア」としみじみ感じていた時期だった。
そんな時代の雰囲気にフュージョンという音楽はとてもマッチしていた。
つまりフュージョンという音楽は、誰それの意思によって編み出したという類のものではなく、音楽ファンのニーズと音楽業界の人々の思惑が見事に一致して、時代の気分と共にごく自然発生的に生まれてきた音楽だったのだ。

このフュージョンの歴史についてはフュージョン評論家の熊谷美広氏が詳しくも鋭い論評を書かれているので、ぜひ読んで下さい。「海外フュージョンの歴史」と「日本のフュージョンの歴史」の2本立て。さすが、プロのライターが書いたものだけあって説得力充分な内容、フュージョン・ファンには一読をお薦めします。

とにかく、当時のフュージョン・ブームは凄かった。
その熱気をリアルタイムで知っているだけに、その後のブームの腰砕け状態にはトホホの気分にさせられるのだが、熊谷氏が仰るように「ブームというものは、いつかは終わるものなのだ」という事に尽きるのかも知れない。

まあ、それはそれとして、我がネイティブ・サンもそんなフュージョン・ブームを背景に誕生したわけだが、そのバンドの売り出し方は、当時としてはかなり先鋭的なプランで行われた。
そう、今では当たり前になってしまったが、当時としては極めて斬新だった"メディア・ミックス作戦"である。

当時は、渡辺 貞夫を筆頭にして日野皓正、笠井 紀美子、渡辺 香津美、山下 洋輔その他その他、絵になるトップのミュージシャン達が、頻繁にTV-CFに出演した。
ネイティブ・サンも例外ではない。無人駅のプラットフォームをステージにして、メンバーが「スーパー・サファリ」を演奏するという、あの名作CFは年配のフュージョン・ファンなら、今でも覚えている方が多いだろう。

あのCFはネイティブ・サンというバンドのカラー、「不良少年がそのまま大人になった」というメンバーの雰囲気を見事に具体化していて、あの時代にピッタリの映像だったと思う。
あの頃、ネイティブ・サンを起用したCMプランナーは相当な凄腕の持ち主、時代感覚に優れたプロ中のプロだったのではなかろうか。

実際、あのCFをテレビで見て「初めてジャズ・フュージョン系のアルバムを買った」という方も多かっただろう。でなければ、1万枚売れれば大ヒット御礼!というこの業界で、30万枚以上のセールスを記録したというデビュー・アルバムの売り上げが、実現するはずがない。

つまり、ネイティブ・サンは本田 竹広や峰 厚介が、それぞれ自己がリーダーとして活動していたバンドと違って、ジャズ・ファン以外の大衆にも受ける要素を、ふんだんに持っていたといえるだろう。

因みにあの無人駅、ドラムのヒロシさんによれば実際にあったものではなく、CFのために丸ごとセットを作ったらしい。
当時としては、かなり予算を掛けて制作されたのは確かな事で、それだけ音楽業界全体が燃えていた”良い時代”だったのは間違いない。

さて、実はこの原稿を書くために、改めてネイティブ・サンのデビュー・アルバムを聴いた。

良く出来たアルバムだな-と、いま聴き直しても強く思う。

レコードA面は、本田 竹広のイントロが心弾む「Bump Crusing」でオープニング、サンバ調の爽やかな「Wind Surfing」で終了。
休む間もなく、B面は心掻きむしる哀愁のボサ・バラード「Whispering Eyes」、スローな「Twilight Mist」(注:この曲は本田 竹広の事実上のデビュー・アルバム『本田 竹彦の魅力』〔トリオ・レーベル〕に収められている「クワイエット・シー」が原曲)を経て、待ってましたの「Super Safari」が登場。
この曲は後半、峰 厚介のワウを効かせたエレクトリック・サックスのソロのパートからテンポが倍速、おいしいところをサックスが全部持っていく。そして最後に突然訪れる、パッパッラッパのエンディングがたまらない。

アルバムのラスト・ナンバーは「Whispering Eyes」の短いテーマ・リプライズ。これがまた泣かせる。

本田 竹広がチェレスタで、寂しそうに曲のテーマをソロで弾くのだが、作品全体に広がる心地良い余韻がいつまでも残るようだ。
収録曲は全て、本田 竹広のオリジナル。その優れた作曲センスと時代を反映した音楽性は、いまもって色褪せたという印象を与えない。

さて、このデビュー・アルバムには、こんなエピソードがある。

ここに収められた、全ての曲にタイトル(曲名)を付けたのは、ナント、たった一人の中学生なのである。

現在、キーボード奏者として活動している吉澤はじめ君がその人である。

吉澤君の叔母さんは著名ドラマー、ピーター・アースキンの夫人であり、音楽業界に知り合いもたくさんいた。それで「将来の仕事はコピー・ライター」と決めていた当時、中学生だった吉澤君に、白羽の矢が立ったらしい。

いや、しかし中学生が考えた曲名にしては、センスが良過ぎてビックリしてしまう。

「Bump Crusing」、「Whispering Eyes」、「Super Safari」と非凡な才気を感じさせるタイトルばかり。

以下は、吉澤 はじめ君による回想-。

「ええ、当時、ボク、コピー・ライター志望でしてね。それでいろいろ曲名を考えたんですけど、『Bump Crusing』っていうのは最初、『クレイジー・ドライビング』ってタイトルだったんです。ほら、あの曲、車を猛烈にスピード出して滅茶苦茶に走るっていう感じじゃないですか。でも叔母さんに『そのタイトルじゃ、平凡過ぎる』って言われて。。。。それでちょっとインパクトを狙って『Bump Crusing』にしました。『Super Safari』も、サファリはアフリカのスワヒリ語で”旅”っていう意味なんですけど、それで”特別”っていうか、”超”の付く旅みたいなイメージで『Super Safari』にしたんですよね」

このフュージョンの歴史に残る大ヒット・アルバムの曲名全てが、一人の中学生によって付けられた-というのも驚きだが、中学生に曲名を依頼するという、レコード会社もレコード会社だ。
いかにイージーな事をしても、しかし何故か結果的にうまくいってしまうという、”あの時代”ならではのエピソードとも思う・・・

せ・かいおう・じゃ

2011-07-24 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

氣志團 「結婚闘魂行進曲『マブダチ』」


主に千葉県と鹿児島県出身のヤンキー系ロックバンド。契約しているレコード会社はエイベックス。所属事務所はソニー・ミュージックアーティスツ。


木更津の不良界にカリスマ的存在として君臨した、「房総の狂犬」、「スーパースターヤンキー」綾小路“セロニアス”翔によって1997年結成された。

「大胆かつハレンチに、Vのベルトはバレンチノ!!」を合い言葉にライブハウスでGIGを展開する。

自らのロックをパンク・ロックとヤンキーの融合「ヤンク・ロック」と提唱する。1980年代の不良を髣髴させるリーゼント&学ラン姿とそれに反して甘い青春ソングを歌い、KISSES(キッシーズ)と呼ばれるファンから熱狂的な支持を受けている。


この曲は、2004年6枚目のシングルで、タイトル通り結婚について歌ったウェディングソングとなっており、PVも結婚式場にて撮影された。ちなみに、撮影された場所は茨城県水戸市にある「アーククラブ迎賓館」というところである。





タイトル欄「せ・かいおう・じゃ」は、この歌の歌詞「世界王者」からで、本日は「せ・かいおう・じゃ」のかいおう、元大相撲大関魁皇関のお誕生日と、最多勝利数更新記念と現役生活おつかれさまということでアップしました。


魁皇関はそれまでの最多数1045勝(第56代横綱千代の富士貢:現九重親方)を2011年名古屋場所にて1045勝、1046勝と塗り返し、場所中ながら記録更新となり、暗い日本と八百長問題で人気低迷に陥った相撲界にいいニュースを与えたことは大きく、地元福岡県直方市をはじめ、日本国民が大いに喜んだのはいうまでもなく、それでも現役に貫き通し、自分の限界まで追い詰めて続け、生涯成績1047勝をもって引退を決意、あと一歩のところで横綱昇格というところで怪我で欠場したりし、大関のポジションを維持し続け、今までの歴史に残る力士であったことは間違いないだろう。



本日お誕生日を迎えましたが、


まずは、彼のそれまでの功績を。


1972年福岡県直方市に生まれる。

市立直方第二中学校時代に柔道をしていたところその巨体から、顧問の教師に相撲を勧められる。その魁皇のためにわざわざ「柔道・相撲部」を作った(それまでは柔道部のみだった)。またその顧問の教師と相撲を取ったところ、教師は片手で体を持ち上げられ非常に驚かされたという。またその相撲部時代にはほかの生徒たちが飲んだスチール缶の空き缶を片手で潰して片づけていた。入幕前、水道の蛇口が硬くて廻らないのを無理に回そうとした所、怪力のあまり壊してしまったことがある。入門前は、元大関北天佑の大ファンだったと言われている。北天佑も魁皇も、共に、上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われる。

中学校卒業後に友綱部屋に入門し、1988年3月場所で初土俵を踏んだ。同期には大海(後に64代横綱・曙)、貴花田(後に65代横綱・貴乃花)、若花田(後に66代横綱・若乃花)、和歌乃山、力櫻など有望な新弟子がおり、花の六三組と称された。貴乃花・和歌乃山・力櫻とは同い年・同学年である。

初めて番付に掲った88年5月場所では負け越す(その後も、序二段、三段目、幕下、十両、幕内のデビュー場所はすべて負け越し。下表参照)など、花田兄弟や曙のようなスピード昇進とはいかないものの、着実に出世を果たし、初土俵から4年足らずの1992年初場所で十両昇進、四股名を「魁皇」とする。1993年夏場所、20歳の若年での新入幕を果たし、若手の有望株として注目を集めるようになる。新入幕場所こそ大きく負け越してしまい十両陥落となるものの、同年九州場所に再入幕後は日の出の勢いで番付を上げ、1994年春場所には曙を下し初金星、初の三賞受賞(殊勲賞)、翌夏場所には早くも新三役となる。1995年の初場所の新関脇場所からは実に13場所連続で関脇に在位(史上最長)し、その後も度々三役に上がり、有力な大関候補として期待を寄せられるものの、足踏みする時期が長く続いた。それでも大関昇進までに2度の優勝同点、4度の優勝次点、史上3位の15回の三賞受賞などを記録し、強豪力士の一人として曙・貴乃花全盛の1990年代の土俵に在った。

小結で迎えた2000年夏場所、14勝1敗で念願の幕内初優勝を果たし、これが足がかりとなって名古屋場所後にようやく大関昇進を決める。大関獲りでは千代大海・出島・武双山・雅山らに遅れをとったが、大関昇進後は豪快な相撲で地力の高さを見せ付け、大関としては合計4度の優勝を経験、横綱候補の1番手だった時期もあった。しかし、怪我の多さや精神的な脆さもあり、途中休場して綱取りのチャンスを無碍にしてしまうことも多かった。

32歳となる2004年には円熟期を迎え、全場所で二桁勝利を記録。9月場所には5回目の優勝を遂げる。4度目の綱取りとなる翌11月場所では、2003年3月場所から続く日本人横綱不在に終止符を打って欲しいという期待が集まった。しかし12日目に3敗を喫し優勝争いから脱落。それでも「千秋楽で横綱朝青龍を破っての準優勝なら昇進の可能性がある」との発言が押尾川審判部長からあり、千秋楽の結びの一番への期待が高まった。千秋楽では朝青龍を万全の相撲で下し、横綱昇進決定かと思われたが、結局昇進は見送られた。翌2005年1月場所までも綱取り場所とされたが、怪我で途中休場して失敗に終わった。

2005年1月場所から2006年3月場所までは、途中休場により翌場所大関角番・角番脱出の繰り返しが続き、大関の地位を辛うじて維持するという状況だった。特に9回目の角番となった2006年3月場所は、序盤から本来の相撲が取れず負けが先行すると引退を示唆して、師匠の友綱親方と相談し負け越したら引退する決意を固めた。しかし7敗してから踏ん張り、千秋楽に朝青龍と優勝争いをしていた白鵬を寄り切って勝ち越しを決めた。2006年5月場所以降、千秋楽まで皆勤の出場場所が増えてはいるが、成績は10勝すらままならず勝ち越すのがやっとの状態が多く、特に2005年以降は何度も引退の危機を迎えている。

2007年9月場所4日目の安馬(後に日馬富士)戦で、幕内通算706勝を達成した。この記録は67代横綱・武蔵丸の706勝に並ぶもので、大関以下の力士としては1番、現役の力士としてももちろんダントツの記録である。しかし、その2日後、右太腿の負傷を悪化させまたしても途中休場となった。翌11月場所は、2006年同様 に再起をかける場所となったが、14日目で勝ち越して11度目の角番を脱出、引退の危機から免れた。勝ち越しが決まった瞬間には、観客はその日の結びの一番よりも大きな声援を魁皇に送った。

2008年8月のモンゴル巡業では、当時の横綱・朝青龍や横綱・白鵬などモンゴル出身力士以上の大人気ぶりだった。2008年11月場所前、大関・琴欧洲との稽古で右足を痛め、休場が濃厚だったが強行出場した。しかし、3日目に若の里との取組み中に左腕まで痛めてしまい途中休場となった。

2009年1月場所は千代大海と並んで1位タイとなる、12度目の大関角番となった。進退を賭けて場所入りし、12日目に前頭3枚目・豪風を破って角番脱出、同時に引退危機も乗り越えた。その後3連敗したため場所を8勝7敗で終えた。その場所直後に虫垂炎で緊急入院、手術はせず薬で治療したが協会の公式行事は休場した。2009年11月場所で幕内在位が98場所となり、関脇・高見山の97場所を超える大相撲史上第1位の記録を達成した。同場所3日目に把瑠都を破って史上3人目の通算800勝を果たし、九重親方(58代横綱・千代の富士)は「私の幕内807勝(史上1位)を超えて欲しい」とエールを送った。さらに同場所10日目、琴欧洲を押し倒しての勝利で幕内805勝を達成、55代横綱・北の湖)の804勝を超えて幕内勝利数が単独第2位の記録となった。この年は2005年以降では最多となる年間48勝を記録した(2005年が39勝、2006年が40勝、2007年が44勝、2008年が43勝)。なおこの年はすべての場所で8勝7敗という記録も達成した。

2010年1月場所2日目に豪栄道に勝ち、19年ぶりに横綱・千代の富士の持つ幕内通算白星807勝に並んだが、この一番は魁皇得意の左四つ右上手だった。そして3日目には、奇しくも九重親方の愛弟子でかつ長年共に大関として支えあった千代大海(当時関脇)に対し、豪快な送り投げで勝利し、ついに幕内通算808勝を達成して史上単独1位になった。なお、この千代大海戦が幕内通算54回目の取組となり、史上2位の記録であったが(対戦成績は魁皇の34勝20敗。幕内対戦の史上1位は武蔵丸対貴ノ浪の58回)、この一番で千代大海は現役最後の相撲となり、翌4日目に引退を表明した。10日目には引き落としで日馬富士戦の連敗を8で止め、さらに13日目には、2006年3月場所以来23場所ぶりに横綱白鵬を破り、白鵬戦での連敗を17で止めた。白鵬はこの敗北の翌日から63連勝を記録している。14日目には稀勢の里を上手投げで破って勝ち越し。そして千秋楽でも垣添を送り倒しで勝利、8場所ぶりの9勝6敗で終えた。 2010年3月場所で幕内通算在位が丁度100場所を迎え、この場所も8勝7敗と勝ち越した。3月30日、幕内在位100場所達成及び幕内通算勝利数を更新した功績を称え、日本政府は内閣総理大臣顕彰を魁皇に授与することを決定し、4月26日に総理大臣官邸で顕彰式が執り行われた。

2010年5月場所で十両以上の関取在位場所数が、史上単独1位である111場所となった。さらに千秋楽にて大関琴欧洲を破り、大相撲史上二人目となる通算1000勝を達成した。

2010年7月、場所前に大関琴光喜が解雇されたため大関以上の地位での日本人力士は魁皇のみとなった。同時に、幕内最高優勝の経験を持つ唯一の現役日本人力士ともなった。11日目から怪我の為に途中休場、休場中の7月場所14日目(7月24日)に38歳の誕生日を迎えた。翌9月場所に13回目の大関角番を迎えたが14日目に勝ち越して角番を脱出。

2010年11月場所は初日に安美錦に敗れるも、2日目から12日目まで11連勝の快進撃を続け優勝争いを演じた。13日目に1敗の白鵬、14日目に同じく1敗の豊ノ島に敗れ優勝争いから脱落したが、千秋楽に把瑠都を破って2004年11月場所以来36場所ぶりの12勝(3敗)を挙げ、九州場所は稀に見る盛り上がりを見せた。

2011年1月場所12日目に把瑠都を破って、大相撲史上初となる通算100場所勝ち越しを達成した。2011年5月技量審査場所12日目には、大相撲史上単独1位となる幕内出場回数・1431回目を達成した。千秋楽では白鵬に右上手を掴んでの寄り切りで勝ち、通算勝ち星を1044勝とした。

2011年7月場所は、千代大海と並ぶ史上1位タイの大関在位数65場所目を迎えた。同場所では初日から3連敗し苦戦を強いられたものの、4日目で千代の富士の持つ通算1045勝に並び、5日目に2勝目をあげて、通算勝星史上単独1位となる通算1046勝の記録更新となった。その後は7日目に3勝目を挙げたが、この日の通算1047勝目が現役最後の勝利となった。10日目を終えた時点で3勝7敗と負け越しがほぼ確定的となり、取組後の記者懇談で「気力が出なくなった」と漏らし、宿舎に戻り師匠と話し合った末、現役を引退することを決めた。師匠は場所の早い段階で本人から引退の話が出るものと覚悟を決めていたという。

引退の決断から一夜明け、元大関魁皇が名古屋市内のホテルで会見。23年の長い現役生活を改めて振り返った。

「やり残したことはない。もう一つ上(横綱)もあったし、地元九州で優勝できなかったけれど、それ以上に十分いい人生を送れた。悔いは一切ない。ここまで相撲を取れたのは最高でした」



最高位 東大関

生涯戦歴 1,047勝700敗158休(140場所)

幕内戦歴 879勝581敗141休(107場所)

優勝 幕内優勝5回

幕下優勝1回

三段目優勝1回

賞 殊勲賞10回、敢闘賞5回


データ

初土俵 1988年3月場所

入幕 1993年5月場所

引退 2011年7月場所

引退後 浅香山親方



逸話として、

特に地元福岡県では絶大な人気があり、11月場所(九州場所)での声援は他の力士を圧倒している。その人気はとどまることを知らず、2001年10月に九州旅客鉄道(JR九州)筑豊本線・篠栗線(福北ゆたか線)博多駅 - 直方駅間で運行を開始した特急列車の名称「かいおう」にも採用された。力士の四股名に限らず、人名、しかも存命中の人物の名前がJRグループの列車名に採用されるのは極めて異例である。その特急「かいおう」の出発式には魁皇本人も出席し、テープカットも行った。「かいおう」の運行が決定したのは、魁皇が3度目の優勝をした2001年7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。

また、地元の直方市では魁皇が勝利した場合、取り組みが終わった直後に花火が上がっている。直方市の銘菓「成金饅頭」でも地元出身の力士である魁皇を応援するため、11月場所のころ魁皇の焼印を押したものが販売されるときもある。

福岡県の久留米ラーメンチェーン店「魁龍(かいりゅう)」のネーミングの由来も、二代目店主が魁皇の熱狂的なファンであることから付けられた(初代店名は「珍宝軒」)ものである。ちなみに魁龍のマスコットキャラクターは、とんこつを象徴する豚が廻しを締めた姿である。

高砂部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった皇牙(元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、鳴戸部屋出身の元前頭・力櫻が、プロレス転向後「力皇」と改名したのも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものだと言われる。

俳優の堺雅人は同じ九州出身ということで、好きな力士に「魁皇」を挙げており、NHK大相撲中継にゲストで呼ばれた際にも「魁皇を応援している」とコメントしている。

明治以降では横綱に昇進していない力士の中で最多の幕内最高優勝5回を誇る(横綱昇進力士の大関以下での幕内最高優勝は、同期の貴乃花が優勝22回中7回、同期の若乃花が5回(横綱では優勝なし)、武蔵丸が優勝12回中5回記録しており、同世代の横綱に多い。なお、これは双羽黒が優勝回数0のまま廃業して以降、横綱昇進の規定が厳密に適用され2場所連続優勝した者しか横綱に昇進していないためである)。優勝力士からの白星も最も多く、地力の高さを示している。

2009年6月2日に日本外国特派員協会に招かれ、いつ引退するのかとの質問に「いつそういう時がきてもおかしくない状況だけど、自分は相撲が大好き。死ぬまで現役にこだわりたい」と答えた。

2009年12月18日、文化放送の正月特番「新春スポーツスペシャル 工藤公康・魁皇 新春ビッグ対談〜生涯現役!」で、埼玉西武ライオンズに復帰した工藤公康との対談に臨み、「生涯現役」にこだわることを宣言。魁皇と工藤はこのとき初対面だった。対談の様子は翌年1月2日に放送された。



ところで氣志團情報ですが、中心核の綾小路翔氏が下着通販メーカー「ピーチジョン」とタッグを組み、男性下着をプロデュースしたり、GLAYと一緒にライブを行ったりと精力的な活動を魅せている。オフィシャルページをごらんになれば、わかりますが、いろんなすごいバンドとの絡みがあり、大暴れしまくりますので氣志團的に「世露死苦メカドッグワンワン」ということで。

宇宙の見えない夜

2011-07-24 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

久保田利伸「LA・LA・LA LOVE SONG」


去年の夏の久保田さんのお誕生日にて、「わしやま音楽祭Vol.10」にて「流星のサドル」を取り上げましたが、今回はもっともヒットしたナンバーを紹介します。

おたんじょうびおめでとうございます。

1996年自身16枚目のシングルとして、久保田利伸 with ナオミ・キャンベル名義でリリース。

ナオミ・キャンベルとのコラボレーションに至った経緯には、ニューヨーク在住中の久保田が、偶然ナオミと同じマンションに住んでおり、そのエレベーター内で対面し、後に意気投合したことから実現している。

フジテレビ系テレビドラマ『ロングバケーション』主題歌となり大ヒット。自身初の月9主題歌となり、自身初のオリコンシングルチャート1位、またミリオンセラーも達成した。

発売した週から計5週に亘ってB'z、サザンオールスターズ、V6、安室奈美恵らによって1位を奪われており、6週目でようやく1位となった。

1996年年間チャートでは先に述べた4組の作品をいずれも上回っている(Mr.Children「名もなき詩」、globe「DEPARTURES」に次ぎ、3位)。

その後、

2004年 -BoA+SOUL'd OUT(久保田利伸のトリビュート・アルバム『SOUL TREE〜a musical tribute to toshinobu kubota〜』に収録)
2005年 - パク・ヨンハ(ミニアルバム『sometime』に収録)
2007年 - カレン・コン「Na Na Na Nada Cinta」(マレー語。アルバム『Mulakan』に収録。日本では未発売)
2009年 - 三浦大知(ライブDVD『DAICHI MIURA LIVE 2009-Encore of Our Love-』に収録)
2010年 - NOKKO「LA LA LA LOVE SONG feat.KG」(アルバム『KISS』に収録)

がカバー、2010年apBANKfesに自身が登場し、この曲を主催者側のMr.Children桜井和寿氏と一緒に歌った。


この曲が主題歌だったTVドラマ「ロングバケーション」について。

「月曜日はOLが街から消える」と言われ、このドラマの影響でピアノを習い始める男性が増えるなど「ロンバケ現象」なる社会現象を巻き起こした作品。木村拓哉は本作で連続ドラマ初主演を務め、国民的人気を得ていくきっかけとなった。本作でヒロイン役を務めた山口智子は本作を最後に、連続ドラマの出演はない(2011年7月現在)。

稲森いずみや松たか子、竹野内豊、広末涼子といった現在では連続ドラマ主演級である俳優・女優が多数共演し、豪華な顔ぶれとなっている。

脚本は全話北川悦吏子が担当、「あすなろ白書」「愛していると言ってくれ」に続く本作のヒットで人気脚本家の地位を確立した。


ストーリーは、

落ち目のモデル、葉山南(山口智子)は結婚式当日に婚約者が失踪してしまい、そのルームメイトだった冴えないピアニスト、瀬名秀俊(木村拓哉)とやむを得ず同居することになる。

婚約破棄で落ち込む南に瀬名は人生がうまくいかない時は「神様がくれた休暇」だと考えようと提案し励ますが、一方で瀬名も自分の才能に自信を持てず、後輩の涼子(松たか子)との恋もなかなか進展しない。

瀬名と南はトラブルだらけの同居生活の中で、次第にお互いがかけがえのない存在になっていく。

キャストは

瀬名秀俊(24) - 木村拓哉(SMAP)

本作の主人公。日本芸術大学卒業後、大学院入試に失敗し現在は音楽教室講師で生計を立てているピアニスト。葉山南の元婚約者・朝倉のルームメイトで後に葉山南と同居する。役名は、『パラサイト・イヴ』で知られる小説家・瀬名秀明に由来。


葉山南(31) - 山口智子

本作のヒロイン。婚約者・朝倉に逃げられ、朝倉のルームメイトである瀬名のマンションに転がり込む。G.N.D Promotionに所属するモデルだったがクビにされ、カメラマン杉崎哲也のアシスタントとなる。岐阜県出身で、元ミス長良川下り。


葉山真二(24) - 竹野内豊

葉山南の弟で、氷室と交際。かなりのプレイボーイで知り合った女性と駆け落ちすることが多い。


奥沢涼子 - 松たか子

日本芸術大学2年で、瀬名の後輩。


小石川桃子 - 稲森いずみ

葉山南の後輩で、G.N.D Promotion所属のモデル。


氷室ルミ子 - りょう

インテリアデザイナー。競輪場で葉山真二と知り合い、付き合っている。


斉藤貴子 - 広末涼子

瀬名の音楽教室の教え子。


杉崎哲也 - 豊原功補

プロカメラマン。自分の事務所を構え、自分がアシスタント時代にファンだった葉山南を雇う。


斉藤哲也 - 小林すすむ

G.N.D Promotionマネージャー。葉山南や小石川桃子、椎名いづみを担当している。


佐々木教授 - 森本レオ

日本芸術大学教授。大学卒業後の瀬名を何かと気にかけている。


椎名いづみ - 建みさと

G.N.D Promotion所属のモデル。


小田島和久 - 津嘉山正種

佐々木教授が瀬名秀俊に紹介した音楽家。


で、久保田さんのデビュー当時は、時代をかなり先取りしすぎた事もあってか、思う様にメガヒットを飛ばす事が出来ず、自分がやっている音楽を理解してくれる人々が少なかったり、レコード会社のスタッフからも、「非常に面白い音楽だし、歌も上手いが、売れる様になるには相当の時間を要する」と一蹴されたり、また苛めも受けたりという孤独な状況だったという。また、曲作りは追い込まれた状況によって創作意欲が湧くタイプであり、さまざまな文化が交錯するニューヨークの街は曲作りには最適な場所だと語っていた。(本人談)

今年はデビュー25周年を迎え、新曲「流れ星と恋の雨」をリリースしたり、これからの予定はTV「ぐるナイ」のゴチバトル、「EXILE魂」出演、雑誌「月刊EXILE」に登場したり・・・と露出が多い。

最後はシックスが競りたいのだね・・・ちなみにアップしたのは投稿者の力作で選びましたが、モデルのなっている方は2枚目のシングル「ふいに」をリリースしたアヒル口の方です。

やきそば、やきそばん

2011-07-23 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

ABC「The Look Of Love」

1980年、音楽ジャーナリストのマーティン・フライ(ボーカル)と、ヴァイス・ヴァーサというバンドが合体し結成。フライとマーク・ホワイト(ギター、キーボード)以外のメンバーは流動的である。

1980年代前半、イギリスのニューロマンティック系アーティストがMTVによるビジュアル効果を利用してアメリカのヒットチャートを席巻し、「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれる一大ムーブメントを巻き起こした。A

BCもその例に漏れず、ダンディかつきらびやかなジゴロ的イメージ戦略でブームに乗り、1982年に英米で「The Look Of Love(ルック・オブ・ラブ)」のヒットを放った。

この曲は日本でもディスコで連日流されるほどの大ヒットとなる。

プロデューサーはバグルスのトレヴァー・ホーン。

現在もセッションメンバーを加えながらディナーショーや懐メロコンサートなどで音楽活動を続けている。


おせろっく

2011-07-23 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

Michael Jackson 「Black Or White」

本日はこの曲のギターを担当しているスラッシュ(リリース当時はGun N'Rosesメンバー、現在はVelvet Revolver )のお誕生日ということでアップしました。

この曲は1991年アルバム「Dangerous」からの先行シングルで、文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。全米チャートでも7週連続1位を獲得した。

ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の映像技術であるモーフィングが採用され話題となった。



ちなみに、スラッシュのギターは主にギブソンのレスポール・スタンダードを使用し、レスポール人気火付け役のジミー・ペイジに続き、スラッシュがきっかけでレスポール人気が再燃する。また、レスポールをはじめとする多くのギターを所有している事でも知られる。

なお、彼はレスポールのピックガードを取り外し愛用していたため、以降雨後の筍の如く、プロ・アマ問わず多くのギタリスト(松本孝弘等)が彼を真似たピックガードなしのレスポールを手にすることになる。

その影響からか最初からピックガードが付いていないレスポール(Les Paul Studioなど)も売り出された。

現在、ギブソンからは自身のシグネイチャー・モデルも製造・販売されている、数少ないミュージシャンの一人でもある。



アップしたのは、完全版で、後半のソロ・ダンスシーンが暴力的過ぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。

後にそのバージョンのショートフィルムはその部分の映像に黒豹が登場することからパンサー・バージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことである)と呼ばれるようになった。

セクシュアルなダンスや、人種差別団体の名前やハーケンクロイツが描かれた車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされたのだが、これに対する批判は多い。

なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一斉放映が許可されており、マイケルのビデオ作品ではじっくり見ることが出来る。アメリカでは深夜に放映されたという話はあるが、日中に放映されたという話はない。

ただ、現在見られるパンサーバージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれた人種差別団体の名前などいくつか修正され、今ではそれらの文字は消されている。

これは踊りを超えたマイケルがキレたアクションといえよう・・・

スラッシュといえば、アクセル・ローズと絡んだガンズ、ガンズのナンバーは8/31までの音楽ネタなので後半あたりに取り上げます。マイケルも後ほど・・・

タテイシ、気楽にいこうよ

2011-07-22 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

Eagles「Take It Easy」

本日はメンバーのドン・ヘンリーのお誕生日ということでアップしました。

1971年にデビューしたアメリカのロック・バンド。アメリカ西海岸を拠点に活動しながら、全世界的人気を獲得し、総売上枚数1億枚以上もの大セールスを記録した全ロック界を代表するのバンドのひとつである。1998年にママス&パパスやサンタナなどと共にロックの殿堂を果たしている。

この曲は記念すべきデビュー曲で、メンバーのグレン・フライとジャクソン・ブラウンによる共作である。

今年デビュー40周年を迎え、2011年3月初旬に7年ぶりの来日を果たし、大阪、名古屋、東京のドーム公演を行った。

天使にスタート

2011-07-21 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

氷室京介「ANGEL」

まずはこちらから。

「特命刑事ザ・コップ」1985.5.24


お届けしたのはBOΦWY時代でまだ無名時代の氷室さんですが、キザなDJぶりは、後にGIGでの「ライブハウス武道館へよーこそ!」、「ここはどこだい?東京だぜぃ」という氷室語録につながる貴重なものである。黒木瞳とは2日という年の差の今50歳の彼にとっては恥ずかしい映像と思いますが、あまりにもカッコよすぎます!!


では、この曲は1988年4月の東京ドームライブ「LAST GIGS」をもって、BOΦWYを解散、その3ヵ月後の7月21日にリリースした記念すべきソロデビュー曲で、本日ソロデビュー23周年を迎える。

2011年は自身の東京ドームライブの準備に取り掛かろうとした矢先、東日本大震災が起き、その後東京ドームという場所柄、電力消費の問題などで従来のライブ内容の変更で、可能な限り節電に配慮し、最小限の電力、機材で、ライブの収益金の全ては復興義援金として、ライブ内容は日本のロック史上最大の伝説のバンドとして多くの支持を得ているBOØWYの楽曲で、全編が構成され、6/11と12に総動員11万人という最大のチャリティライブを行ったのは言うまでもないでしょう。

ライブを行った方の感想はヒムロックと一緒になり大いに歌ったとか、ずぶ濡れになるほど最高のライブだったとかアーティスト活動での金字塔を立てた出来事がここに刻まれたといえよう・・・

「エンジェル!」by氷室