お届けするのは
都はるみ & 岡千秋「浪花恋しぐれ」
本日は11月22日ということで、語呂あわせで「い・い・ふー・ふ」つまり「いい夫婦」の日ということで、夫婦を描いた曲といえば、この曲ということでアップしました。
この曲は、マッシュルームカットでちょび髭の岡千秋さんのコンサートに来ていたコメカミのホクロがトレードマークの都はるみさんが彼のしゃがれ声に引かれ、デュエットが実現し、1982年にリリース、ロングランヒットもあって、1983年オリコンシングル年間チャートでは18位を記録している。
この曲のモデルは初代桂 春団治(かつら はるだんじ、1878年8月4日 - 1934年10月6日)である。
天才的な巧みな話術で、戦前の上方落語界のスーパースター的存在であった。
従来の古典落語にナンセンスなギャグを取り入れた大胆な改作で爆笑王として人気を集め、当時の先端技術でもあったレコードに落語を吹き込み、多くの人を魅了した。
破天荒な生き方でも著名で、関西の俗に言う破滅型天才芸人のいまだ代表にして定型といえる存在である。
借金・女遊び・酒乱が高じた振る舞いは、常に話題となった。
その生き様は、演劇・歌謡曲など、様々な形で語り継がれている(ただし脚色も多い)。大阪弁で言う「やたけた」「ごりがん」「すかたん」といった性格を全て併せ持つ、その憎めない振る舞いは、当時も現在も、人々からはむしろ共感・同情の目で見られ、大阪の人情味に触れる際に欠かせない存在となっている。
破天荒な生き方や金遣いの荒さはある意味で上方芸能の伝説となり、横山やすし、藤山寛美、やしきたかじんなどの初代春団治をリアルタイムで知らぬ後世の関西の芸能人にまで多大な影響を与える事になる。また、川藤幸三は、「球界の春団治」と言われていた。川藤は酒好きではあったが、最低年俸で契約してもらったエピソードなど、金遣いが荒いわけではなかった。
得意ネタは『いかけ屋』『うなぎ屋』『へっつい盗人』『ちしゃ医者』『からし医者』『野崎詣り』『寄合酒』など。その多くはSPレコードに残されている。
上方落語において、その生き方・落語が現在までも話題になっている人物は、初代春団治がはじめてである。
借金・女遊び・酒乱なご主人を支えていたのが妻の存在である。
その妻トミは春團治が貧乏の極みにあったときも黙々と夫を支え、金銭感覚のない夫の代わりに内職で生計を立てていた。
後妻の志うは世間知らずな上に、完全に春団治に惚れ切っていたため、その莫大な資産を全て春団治に使い果たされても、文句も言わず、喜んで金銭を出してやっていた。
一方の春団治も、周囲の者に志うのことを「御寮人さん」と呼ばせ、常に顔を立てていた。ともかくも、この二人の間に夫婦の愛情があったことは疑い得ない。
後年、志うは酒で身体を壊し晩年の春団治の看護ができなくなり、トミとトミと春團治の間にできた一人娘が看病し、胃癌に苦しみながら「これでわいも依願(胃癌)免官やなあ。」とか、忠臣蔵の勘平の科白をもじって「かく(胃癌のこと)なり果つるは利の当然。」などと苦しい駄洒落を言って寂しそうに笑っていた。
志うは夫の死後、奈良県桜井市の親戚に引き取られ、翌年、その家の玄関脇の小部屋で寂しく世を去ったという。
先妻、後妻、主生活が駄目な夫にほれ込んだもの。
それは「大物になる」というでっかい夢があるから。
ひとりになると、酒におぼれ何もできない、「私」がいれば、でっかい夢をつかめる・・・
妻って自分が持っている「夢」(だれもが持っている)というものを夫に捧げる姿は偉大です。
絶妙な二人の夫婦の絡みご堪能ください。
都はるみ & 岡千秋「浪花恋しぐれ」
本日は11月22日ということで、語呂あわせで「い・い・ふー・ふ」つまり「いい夫婦」の日ということで、夫婦を描いた曲といえば、この曲ということでアップしました。
この曲は、マッシュルームカットでちょび髭の岡千秋さんのコンサートに来ていたコメカミのホクロがトレードマークの都はるみさんが彼のしゃがれ声に引かれ、デュエットが実現し、1982年にリリース、ロングランヒットもあって、1983年オリコンシングル年間チャートでは18位を記録している。
この曲のモデルは初代桂 春団治(かつら はるだんじ、1878年8月4日 - 1934年10月6日)である。
天才的な巧みな話術で、戦前の上方落語界のスーパースター的存在であった。
従来の古典落語にナンセンスなギャグを取り入れた大胆な改作で爆笑王として人気を集め、当時の先端技術でもあったレコードに落語を吹き込み、多くの人を魅了した。
破天荒な生き方でも著名で、関西の俗に言う破滅型天才芸人のいまだ代表にして定型といえる存在である。
借金・女遊び・酒乱が高じた振る舞いは、常に話題となった。
その生き様は、演劇・歌謡曲など、様々な形で語り継がれている(ただし脚色も多い)。大阪弁で言う「やたけた」「ごりがん」「すかたん」といった性格を全て併せ持つ、その憎めない振る舞いは、当時も現在も、人々からはむしろ共感・同情の目で見られ、大阪の人情味に触れる際に欠かせない存在となっている。
破天荒な生き方や金遣いの荒さはある意味で上方芸能の伝説となり、横山やすし、藤山寛美、やしきたかじんなどの初代春団治をリアルタイムで知らぬ後世の関西の芸能人にまで多大な影響を与える事になる。また、川藤幸三は、「球界の春団治」と言われていた。川藤は酒好きではあったが、最低年俸で契約してもらったエピソードなど、金遣いが荒いわけではなかった。
得意ネタは『いかけ屋』『うなぎ屋』『へっつい盗人』『ちしゃ医者』『からし医者』『野崎詣り』『寄合酒』など。その多くはSPレコードに残されている。
上方落語において、その生き方・落語が現在までも話題になっている人物は、初代春団治がはじめてである。
借金・女遊び・酒乱なご主人を支えていたのが妻の存在である。
その妻トミは春團治が貧乏の極みにあったときも黙々と夫を支え、金銭感覚のない夫の代わりに内職で生計を立てていた。
後妻の志うは世間知らずな上に、完全に春団治に惚れ切っていたため、その莫大な資産を全て春団治に使い果たされても、文句も言わず、喜んで金銭を出してやっていた。
一方の春団治も、周囲の者に志うのことを「御寮人さん」と呼ばせ、常に顔を立てていた。ともかくも、この二人の間に夫婦の愛情があったことは疑い得ない。
後年、志うは酒で身体を壊し晩年の春団治の看護ができなくなり、トミとトミと春團治の間にできた一人娘が看病し、胃癌に苦しみながら「これでわいも依願(胃癌)免官やなあ。」とか、忠臣蔵の勘平の科白をもじって「かく(胃癌のこと)なり果つるは利の当然。」などと苦しい駄洒落を言って寂しそうに笑っていた。
志うは夫の死後、奈良県桜井市の親戚に引き取られ、翌年、その家の玄関脇の小部屋で寂しく世を去ったという。
先妻、後妻、主生活が駄目な夫にほれ込んだもの。
それは「大物になる」というでっかい夢があるから。
ひとりになると、酒におぼれ何もできない、「私」がいれば、でっかい夢をつかめる・・・
妻って自分が持っている「夢」(だれもが持っている)というものを夫に捧げる姿は偉大です。
絶妙な二人の夫婦の絡みご堪能ください。