わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

水中ヨガ

2010-11-01 01:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

服部克久「ザ・ベストテンのテーマ」

1978年から11年間放送され、日本の音楽界を左右、情報源、また生放送中のハプニングが見ものだった音楽番組「ザ・ベストテン」、オーケストラに始まるイントロで、今週のチャートはどうなっているかワクワクドキドキした人もあると思いますが・・・

司会は久米宏と黒柳徹子。

その後久米さんが抜け、

黒柳さんと

久米さんの後は、TBSアナウンサー(松下賢次、生島ヒロシ、松宮一彦)、おすぎとピーコ、寺尾聰、渡辺徹、桂文珍、タモリ、所ジョージ、小沢昭一という助っ人、2代目小西博之、3代目松下賢次、4代目渡辺正行の司会で行った。

その中で数々の放送事故をまとめると、

1978年、世良公則&ツイストが「銃爪」の9週連続1位の際、「もう楽屋に誰もいないから」と、発表・コールされる前にスタジオに出てきてしまった。この時彼らは世良を乗せた神輿を担ぎ、「銃爪大明神」と大書した幟を押し立てての登場であった。

1978年11月16日、松山千春が『季節の中で』で初出演した際に旭川市民文化会館からの生中継を行ったが、当初3分間の予定だったスピーチが長引き8分間に及んだため、その後に出演した山口百恵が歌う時間がなくなってしまい、記念撮影だけ参加した。ほかの出演歌手はこの措置に対し不快感を示したが、当時のプロデューサーである弟子丸千一郎が、テレビ出演もせず地道な活動でここまできた松山と、テレビの力で人気になった他の歌手との努力の差を示した上で、松山に対する特別措置に理解を示すよう訴え、事態を収めたという。

1980年、長渕剛が中継先で「順子」の歌唱中に、そばにいた歌手仲間たち(桑名正博、アン・ルイスら)に「あのー、済みませんが失恋の歌なので手拍子はやめてくださいませんか?」と言って演奏を最初からやり直した。

1980年6月12日、スタジオの出演歌手に地方各地の視聴者が中継先から質問を受け付けるコーナーで、シャネルズ(後のラッツ&スター)に対して、ある青年が「黒人のクセに何でシャネルズ(フランスの高級ブランド名)なんだ」と質問をした。鈴木雅之はとまどいつつも、「ブランド名が元になったのではない」と答えたが、その後黒柳が質問をした青年に対し「人種差別となる発言となるので、こういった表現をすることはやめてほしい」と注意喚起した。またラッツ&スターになり、初の1位を獲得したあまりにその感激で、登場時に勢いよく飛び出そうとしてミラーゲートの回転ドアの中心部を強く押しすぎてドアが外れて前に飛んだこともあった。久米曰く「ちゃんと弁償していただいた」そうである。

1983年1月13日、中森明菜がこの日「セカンド・ラブ」が5週連続で1位にランクイン。作曲者の来生たかおより祝福の電話が入り、来生から「今日は風邪で喉を痛めていると聞きましたが?」と心配されるも、中森は「大丈夫です」とコメント。しかし「セカンド・ラブ」の歌唱中、やはり風邪の影響からか急に声が出にくくなり、歌唱終了後に中森は大粒の涙を流してしまう(当初スタッフは口パクでの歌唱を勧めたが、中森本人が「TVを見ている人に対して失礼だから」と拒否したとの事)。エンディングでの中森は、電話相手の来生や同番組の出演者らに気丈に笑顔を見せようとしながらも、悔し涙は止まらないままだった。番組終了後に黒柳は、中森に対して「良いお医者さんがいるの。(松田)聖子ちゃんにも教えているから、是非聞いてみて」と気遣ったという。

1983年のある放送で、スタッフの手違いで本来はスタジオの最上部に吊るされるはずの1位のくす玉が誤ってスタジオの下部に落ちてしまった。この時の1位歌手・中森明菜はくす玉を割るためにわざわざ顔を突っ込んだらしく、この年の年末豪華版でゲストコメンテーターをしていたビートたけしは「女便所をのぞいてるんじゃないんだから…」とコメントした。

1983年、「夏色のナンシー」でランクインした早見優は自分の順位まで時間が在る為、楽屋で先輩の松田聖子と談笑中に2組の歌手が欠席した為,早くに自分の出番に。慌てて回転ドアを飛び出して来るも口紅は塗れておらず靴も先にランクインしていた堀ちえみに履かせて貰う。その日は動揺で声も数回、ひっくり返っての歌唱になる。

【放送事故?】1983年9月8日、アルフィーが南紀白浜ワールドサファリより生中継(曲は メリーアン)。しかし国内であるにもかかわらず衛星中継を行ったため、バックのカラオケと歌がずれた状態でオンエアされた。なおその際、オリの中で歌っていた。

1984年、杏里が「悲しみがとまらない」の歌唱中、側に座っていたチンパンジーが杏里の手を引っ叩き、その態度に吹き出した杏里はその後、笑いを堪えきれず歌えなくなってしまう。

1984年12月13日、アルフィーが愛知県犬山市のファンの家に突然押しかけ「恋人達のペイヴメント」を歌うドッキリ企画を行ったが、当のファンは留守で、アポ無し企画ゆえにバンドセットが組めないために持ってきたカラオケテープが熱で伸びきった状態で放送してしまい散々な中継になってしまった。アルフィーファンの間では「犬山事件」として語り継がれており、後述のDVD『THE ALFEE ザ・ベストテン&ある日ィ突然! Complete edition 2000』にも収録されている。

【放送事故】1985年に「夏ざかりほの字組」(田原俊彦と研ナオコ)の歌唱時、音楽が歌い手に聞こえなくなり、順番を後に回された。

1985年、吉幾三が「俺ら東京さ行ぐだ」で「今週のスポットライト」に登場した際、1番の途中で歌詞をど忘れし、スタジオは大爆笑。初めからやり直した。ベストテンにランクインした週には、歌の前「景気づけに」と黒柳からすすめられた日本酒を飲んだところ、故郷の青森を思い出し涙ぐんでしまった。

1985年9月19日、カール・ルイスがゲスト出演した回において番組進行が押してしまい、本来流すべきCMが放送できないという事態が発生した。この際、1分間の番組内CMを1回カットするべきところで、TBSマスター担当者のミスから番組内CMを2回分カットしてしまい、番組最後のCMにおいて、本来関東ローカルで流すべきCM4本を全国放送してしまった。

1985年10月17日、「ザ・ベストテンin静岡」において、2位で登場したとんねるずに対して客席は総立ちに。とんねるずは客席から大井川の川越用の輿にのって登場するはずだったが、警備の不備なども重なり観客によって衣装がもみくちゃにされた。激怒した石橋貴明は生放送中にもかかわらず、ステージ上で観客に対して「ふざけんじゃねぇぞ!この野郎!!」「てめぇら最低なんだよ!」などと罵声を浴びせ、身に着けている物を投げつけたりし、木梨憲武のフォローも構わず、「雨の西麻布」を怒鳴り声で歌った。その態度に対し、番組宛に抗議が殺到し、翌週の放送で石橋が謝罪した。このシーンは2009年10月27日放送の「大日本名作ドラマ主題歌とくばんスペシャル」でも放送されている。その際の石橋の話によれば、当日は「夕やけニャンニャン」の収録後に静岡に向かい、時間の都合上、細かい打ち合わせやリハーサル無しに本番に突入してしまい、客席の中を渡る演出について不安を感じていたようである。

1988年11月3日、南野陽子は3位にランクされた「秋からも、そばにいて」の歌唱の途中で、歌詞の一部を忘れ出てこなくなってしまった。秋真っ直中を思わせる沢山の枯葉を敷いた坂のセットで、南野は歩きながら歌っていたが、本人曰く「ロングスカートが枯葉を散らしてしまわないように気をつけていたら、歌詞が飛んでしまった」との事。その後は手を震わせながら歌い終え、涙ぐみながら頭を下げて謝った。なお黒柳は南野に、歌詞が掲載された台本を見せるため駆け寄ろうとしたが、スタッフに止められたという。この歌詞忘れのハプニングに、南野自身「あの瞬間に歌手生命が終わったと思った」と後に語っている。翌週の登場時、ファンから「失恋したのですか?」「体調が悪かったのですか?」等という南野を心配するはがきが届いたが、南野は「いえ違います、ただのど忘れです。済みませんでした」と笑顔でコメントした。

その他エンディングスポットでの銭湯中継で、フルチンのおじさんが映ったり、小泉今日子「木枯らしに抱かれて」で熱唱中、演出上に登場した犬が排泄するなどある。

第1位に関するデータとして、

第1回(1978年1月19日放送)に第1位になった曲 - UFO(ピンクレディー)

最高得点を獲得して第1位になった曲 - YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(西城秀樹、9999点)

最多連続第1位になった曲 - ルビーの指環(寺尾聰、12週連続)

最年長歌手で第1位を獲得した曲 - 雪國(吉幾三)

12年間を通じて第1位になった曲 - 長良川艶歌(五木ひろし)

第1位を最多獲得した歌手 - 中森明菜(69回)

最終回(1989年9月28日放送)に第1位になった曲 - 黄砂に吹かれて(工藤静香)


全放送での最多出演歌手は田原俊彦の246回に対し、

ベストテン入りしながらも一度も出演しなかった歌手

中島みゆき 「わかれうた」(1978年)「ひとり上手」(1980年)「悪女」(1981年)「誘惑」(1982年)「横恋慕」(1982年)- 出演拒否の理由は、アーティストとしての活動方針と共に「かつて新人時代にTBSの別の音楽番組に出演した際に良くない扱いを受けた」ことが大きな原因とされている。但し1988年の豪華版で、中島自身作詞の「MUGO・ん…色っぽい」で年間ベスト10入りした工藤静香に対し、祝福の電話を入れた時が自身唯一の同番組出演となった。

矢沢永吉 「時間よ止まれ」(1978年)

南こうせつ 「夢一夜」(1978年)

チューリップ 「虹とスニーカーの頃」(1979年)

オフコース 「さよなら」(1980年)(後に「YES-YES-YES」がランクインした時に、小田和正のみがレコーディングスタジオから中継でコメントを寄せた。)

EPO 「う、ふ、ふ、ふ」(1983年)

村下孝蔵 「初恋」(1983年)- 出演しなかったのは本人ではなくレコード会社の意向だったとされているが、実はランクイン当時重い肝臓病を患っていた事を後年公表。1983年の豪華版で年間ベスト10入りした際に、喜びの音声メッセージが流された。一方でディレクターの山田は、出演拒否の理由を「ベストテンのようなメジャー番組に出演することでファンが離れる」ことを本人が危惧したためとしている。

小林麻美 「雨音はショパンの調べ」(1984年)- 当時女優としてのテレビ出演はするが歌手としてのテレビ出演をしない方針だったため。

大沢誉志幸 「そして僕は途方に暮れる」(1985年)非ランキング番組には出演。

松任谷由実 & 小田和正 & 財津和夫 「今だから」(1985年)テレビ出演の意向がなかったため。

ビーバップ少年少女合唱団(清水宏次朗、仲村トオル、宮崎萬純)「ビーバップパラダイス」(1986年)- 当初からこのユニットでの歌番組出演はしない方針だったが、『ミュージックステーション』・『ザ・トップテン』には出演している。

BOØWY 「B・BLUE」(1986年)

内海和子 「蒼いメモリーズ」(1986年)- TBSとフジテレビの関係が悪化し、おニャン子クラブが出演拒否をしていた為、ソロでの出演は無かった。『歌のトップテン』には出演。

尾崎豊 「核"CORE"」(1987年)- 1988年7月7日に出演しない理由のVTRを放送した。

仲村トオル 「IT'S ALL RIGHT」(1988年)- 一条寺美奈とのデュエット「新宿純愛物語」でスポットライトのみ出演。

山下達郎 「GET BACK IN LOVE」(1988年)- 山下本人より「(意向により)出演はしないが、ランクインされたことに感謝したい」との手紙が番組宛に送られた。山下はランクインした週には番組宛に必ず手紙を送り、その都度番組内で紹介された。

氷室京介 「ANGEL」(1988年)- 1988年8月4日の初ランクイン時に番組に出演できない内容の手紙を送る。

米米CLUB 「KOME KOME WAR」(1988年)

藤井郁弥 「Mother's Touch」(1988年)- チェッカーズとしてはもちろん何度も出演しているが、グループ在籍中はソロでのテレビ出演はしない方針だったため、他の歌番組でも一切披露されなかった。

THE BLUE HEARTS 「TRAIN-TRAIN」(1989年)

COMPLEX 「BE MY BABY」(1989年)- 吉川晃司はソロで頻繁に出演していた。

宮沢りえ 「DREAM RUSH」(1989年)- 最終回に、最後の初ベストテン入りとなったが欠席。『歌のトップテン』にも1度も出演は無かった。しかし、中山美穂出演の際にゲスト扱いで1度だけ出演した経験が有る。

レベッカ、山下久美子は『夜のヒットスタジオ』には1度も出演しなかったが、この番組には数度出演した。

ベストテン欠席の理由として

レコーディングのため

レコーディングへの準備期間のため

アルバム制作のため

映画撮影中のため

移動中

各方面との折り合いがつかず - 特におニャン子クラブ欠席時にほとんど毎回使用した言葉(フジテレビの意向があったためと思われる)。1986年10月9日から1987年4月2日まで使用された。

休暇のため

試験中のため

コンサート中

コンサートのリハーサル中

体調を崩したため(診断書がよく出てきた)

メンバー間のスケジュールが合わず

バンドのメンバーの都合が悪く

海外旅行のため - 海外に行くとベストテンの順位が落ちるというジンクスがあった。

年内はテレビ出演の意思がないので

出演意思が固まらないため

裏番組のレギュラーを持っているため

労働基準法により(伊藤つかさが15歳未満の時の欠席理由。1987年4月の「ザ・ベストテン延長戦」では、11位に後藤久美子がランクインした際も同じ理由で欠席となった)

ドラゴンクエストII、IIIが発売された時、一部のゲーム好きの歌手がこれにハマり、ベストテンを欠席したという噂もある。

石井明美が「CHA-CHA-CHA」でランクインした際、「もうベストテンではこの曲を歌いたくない。「CHA-CHA-CHA」のイメージを払拭したい」と発言したことがあり、石井がデビューしたばかりの歌手であったことも影響して一部から酷評を受けた。

金輪際一切出演する気はない - TBSとフジテレビ『夕やけニャンニャン』のおニャン子クラブのわだかまりが正式に解消されたが、既に夕やけニャンニャンの番組放送が終了し、おニャン子クラブとしての活動が代々木での解散コンサートを残すのみとなった時に、おニャン子クラブの曲がランクインされた際に使用された言葉。

そんなこんなで日本の音楽界においての影響は大きいものがあり、サザンオールスターズ、松田聖子、アルフィーなどこの番組をきっかけに火がついたのも事実。

ではどうぞ。


おきてピョン

2010-11-01 00:45:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

Red Hot Chili Peppers 「Get Up and Jump」

本日は、初期から現在にかけてバンドを支えているボーカルのアンソニー・キーティズのお誕生日ということであっぷしました。

そんな石丸謙二郎(お誕生日おめでとう!)と同じ潜在能力の彼ですが、

身長175cm。

バンド結成時からのメンバーだが、『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』のレコーディングの頃に一度脱退、その後に復帰した。

2006年に、自伝『スカー・ティッシュ』を発表。

環境保護団体のシーシェパードのスポンサーとしての側面も持つ。

そんな、彼ですが、

父はリトアニア系の移民、母はギリシア、オランダ、イングランド、アイルランド、フランス、モヒカン族の混血。 3才のときに両親が離婚。2人の異母(父)姉妹と異母(父)兄弟がいる。 11才まで母と一緒に暮らし、その後、父と暮らすためにロサンゼルスへ引っ越した。 彼の父は麻薬常用者であり、絶えずドラッグが環境の中にあり最初のドラッグも父から得たものだった。 ロサンゼルスで将来のバンドメンバーであるフリー、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズと同じ高校に通う。

1983年、アンソニーはフリー、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズとレッド・ホット・チリ・ペッパーズを結成。バンドのキーマンであり、バンドがバラバラに壊れようとしていたときはいつも、グループを団結しようしている。

幼少期は、喧嘩っ早く、乱暴で教師を困らせるタイプの少年であったが、一方で虐められている、障害を持った生徒などを守ってやるなどの思いやりもあった。家出してミシガンから父のいるカリフォルニアに一人で行こうとしたことがあるほど父に憧れを抱いており、麻薬や女性との初体験も父の紹介でやっている。彼の性格は父の影響が強い。また幼いころに父の紹介で多くのアーティストに出会っているとか。

この曲は、1984年EMI時代の記念すべきデビューアルバム「デッド・ホット・チリ・ペッパーズ」に収録されたナンバーで、このアルバムについてはメンバーにとって満足のいくものでなく、アンソニー、フリーらメンバーは音楽プロデューサーアンディ・ギルにとんでもない仕返しをしている。

この曲はイントロが印象的で、その部分を福岡KBCラジオ「中島浩二アワー」、同局TV番組「DUOMO」など、取材ネタのジングルとして使用したりしている。

お届けするところは、1985年でのLIVEで、ボーカルアンソニーの運動神経の高いパフォーマンスは20年以上のキャリアを持っても変わってないのでぜひご覧ください。



それ!突撃!!

2010-11-01 00:30:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

大杉久美子「ドラえもんのうた」

藤子不二雄の代表作のひとつで連載開始して40年を迎える「ドラえもん」(現在は藤子・F・不二雄が著作権を持っている)。

1973年一度日本テレビでアニメ放送されたが、半年で終了。

それからリメイクし、

1979年テレビ朝日にて放送し、そのオープニングを飾る歌として起用、徐々に人気を上げていくごとに「ドラえもん」の定番ソングとなり、1980年の童謡・アニメソング部門のオリコン年間シングルチャートでは1位を獲得、1987年までのEP版で150万枚を売り上げていき、1992年10月までの放送で大杉さんが歌うナンバーが使われた。

作曲は菊池俊輔によるもので、モーグ・シンセサイザーやミュートトランペットのサウンドが特徴的、仮面ライダーなどの他の菊池作品に見られるようにイントロ部、各コーラス間の間奏部、コーダ部がそれぞれ大きく形を変える。

で、菊池俊輔さん本日お誕生日ということで、「おめでとうございます」。

本日79歳になられるわけですが、

同じ生年月日の有名人に先ほど紹介したいかりや長介、オロナミンCのCMの眼鏡がトレードマークのおじさんでおなじみ、過激な漫才師横山やすしの兄貴分であり、現在は菊池さんが音楽を担当しているTVサスペンスシリーズ「赤い霊柩車」にレギュラー出演している大村昆(お誕生日おめでとう!!)がいる。

そんな彼ですが、

1931年青森県弘前市出身。

日本大学芸術学部卒業後、1961年より東映映画の音楽を担当。

現代劇、任侠映画、特撮物を得意とする。60年代後半より東映TVの『キイハンター』、『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』や大映テレビの『なんたって18歳!』から『赤いシリーズ』『スチュワーデス物語』の他、子供向け特撮番組やアニメ番組、1980年代以降は時代劇『暴れん坊将軍』『若大将天下ご免!』『長七郎江戸日記』などの番組の音楽を手がける。

『ドラえもん』の他、『仮面ライダーシリーズ』、『新造人間キャシャーン』・『ゲッターロボ』・『Dr.スランプ アラレちゃん』・『ドラゴンボール』・『ドラゴンボールZ』・『キテレツ大百科』などのアニメ・特撮、『暴れん坊将軍』や『長七郎江戸日記』などの時代劇、そして『キイハンター』から『Gメン'75』に至る一連のTBS土曜9時のアクションドラマ、『赤いシリーズ』など、菊池の担当する番組には放送期間が長かったり、シリーズ化されることが多い。そのため、「菊池俊輔が音楽を担当すれば、番組もヒットする」と言われることもある。JASRAC賞でも、2003年度に『ドラゴンボールZBGM』で銀賞を獲得したほか、外国からの著作物利用料収入が最も多い作品に与えられる「国際賞」も2回獲得している(2007年度は『ドラゴンボールZBGM』、2009年度は『ドラえもんBGM』による受賞)。現在も現役に活動をしている。

菊池さんは1979年から2005年、26年間声優を務めた「ドラえもん」主要メンバーが降板するまで、TV版、映画版「ドラえもん」の音楽を担当し、「ドラえもん」から数々の名曲を生み出している。

「わしやま音楽祭」ではジャイアンを担当したたてかべ和也が歌う「おれはジャイアンさま」を取り上げての2作目である。

「ドラえもん」といえば、この曲と、テレビ朝日内のバラエティ番組、テレ朝以外の他局における「ドラえもん」を取り上げてのBGMでいまだ使われているほどスタンダードなものである。



デビッドスベった~

2010-11-01 00:15:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

David Foster「Winter Games」

いかりやさんに続き、本日は偉大なる音楽プロデューサーであるデヴィッド・フォスターのお誕生日ということでアップしました。

そんなジョン・カビラ(お誕生日おめでとう!)と同じ潜在能力のフォスター氏ですが、ワーナーミュージックによると、

約40年のキャリアを誇るカナダ出身のベテラン・ミュージシャンにして、世界的トップ・レコード・プロデューサー、ソングライター、アレンジャー、キーボード・プレイヤー。今までに15のグラミー賞を獲得した他、“カナダのグラミー”と呼ばれるジュノー賞を7回、映像関連のエミー賞を1回受賞。 サウンドトラックも数多く手掛けており、アカデミー賞には3度ノミネートされた。

1990年代には歴史あるアトランティック・レコーズの重役となり、その後傘下に自分のレーベルである143レコーズを設立している。近年は、ルチアーノ・パヴァロッティやアンドレア・ボッチェリなど、クラシック界との繋がりも深い。1998年のカルガリー、2010年のバンクーバーと、カナダで開催された2度の冬期オリンピックで音楽監督を務めたのも、他ならぬフォスターである。

この曲は1988年ハンガリー冬季五輪の公式ソングとして書き下ろしされたもので、このタイトルや作った人を知らずとも、番組告知、冬向けのレジャーの映像のBGMとして聴きなじみのあるフュージョンである。

偉大なる彼がプロデュースし関わったアーティスト

セリーヌ・ディオン
アンドレア・ボチェッリ
マライア・キャリー
ホイットニー・ヒューストン
バーブラ・ストライサンド
シャリース・ペンペンコ
シェール
クリスティーナ・アギレラ
ジョシュ・グローバン
レネー・オルステッド
シーナ・イーストン
木村拓哉
ケニー・ロジャース
マイケル・ブッシュ
マイケル・ボルトン
デニース・ウィリアムス
ナイト・レンジャー
プリンス
ドナ・サマー
フェイス・ヒル
SMAP
MISIA
ザ・コアーズ
ヴィッキー・モス
ブランディ
ルイス・ミゲル
ピーター・アレン
ビージーズ
ニール・ダイアモンド
ゴードン・ライトフット
ケニー・G
デスティニーズ・チャイルド
赤軍合唱団
ヴァネッサ・ウィリアムス
アン・マレー
オリビア・ニュートン=ジョン
エイミー・ホランド
デボラ・ブランド
リサ・マリー・プレスリー
ララ・ファビアン
ドリー・パートン
フリオ・イグレシアス
ジェニファー・ラブ・ヒューイット
マイケル・ジャクソン
マドンナ
アリス・クーパー
グロリア・エステファン
ブレイク・シェルトン
ジョージ・ハリスン
ロッド・スチュワート
松田聖子
ラウラ・パウジーニ
オール・4・ワン
リカルド・モンタネール
ジョン・パー
アル・ジャロウ
ケニー・ロギンス
アズ・イェット
ドノヴァン
ナタリー・コール
ヨランダ・アダムス
ザ・チューブズ
マイケル・ブーブレ
シカゴ
ピーター・セテラ
キャサリン・マクフィー
エア・サプライ
ポール・マッカートニー
ブライアン・マックナイト
イン・シンク
ケヴィン・シャープ
ピーター・シンコッティ
クリス・ボッティ
ビービー&シーシー・ワイナンズ
アヴェレージ・ホワイト・バンド
リチャード・マークス
シェリル・リン
ポール・アンカ
シール
ボズ・スキャッグス
トニー・ブラクストン
ジェシカ・シンプソン
チャカ・カーン
アース・ウィンド・アンド・ファイアー
ザ・キーン・ブラザーズ
ブライアン・アダムス
デバージ
ダリル・ホール&ジョン・オーツ
クレイ・エイケン
ケリー・クラークソン
ウィリアム・ジョセフ
ベイビーフェイス
マリリン・マーティン
ゲイリー・バーロウ
ジョン・トラボルタ
リアン・ライムス
モニカ
ロジャー・ダルトリー
キャサリン・ジェンキンス
ハイディ・モンタグ
ジョーダン・ヒル
プラス・ワン
ロニー・ホーキンス
イル・ディーヴォ
ザ・カナディアン・テノールズ
ニコール・キッドマン
など

多彩に、作詞作曲編曲プロデュースと数々の名曲を生みだしている。

また、チャリティーにも積極的で、86年にデヴィッド・フォスター・ファウンデーションをスタート。ライヴ・イベントやスポーツ大会を催して資金を集め、病気の子供たちやその家族に寄付金を送っている。そこには人気アーティストはもちろん、ハリウッド・スターや著名アスリート、有名実業家などが続々。驚くことに、その交友録はマルローニ元カナダ首相やビル&ヒラリー・クリントン、マイクロソフトのビル・ゲイツにも繋がっている。

その模様をぜひ。


音楽ねた全員集合!!音楽祭幕開けです。だめだこりゃ・・・

2010-11-01 00:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

ザ・ドリフターズ「ドリフの全員集合のテーマ」

オープニングとして選んだ理由として、ドリフターズを仕切っていたいかりや長介さんのお誕生日ということで。

2004年に72歳で天国に行ってしまい、お葬式の際、ドリフメンバー、織田裕二、柳葉敏郎など見守りながら、詰め掛けた一般の方々も「長さん」、「ワクさん」、「オイース」と声が上がった。今、長さんは2000年に天国に行った初期ドリフメンバーの荒井注さんと一緒に杯を交わしているのでしょうか・・・

いかりやさんは、

TBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。その後は俳優、タレントとして活躍。先に挙げた2番組での「お笑い」のイメージとは一線を画し、1997年に放映されたドラマ『踊る大捜査線』(フジテレビ系)のベテラン刑事・和久平八郎役では、『全員集合』をリアルタイムで見たことがなかった若いファンからも支持を受け、1999年、『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。晩年は独特な語り口調を生かし、ナレーションを務めたことでも有名。

趣味はアフリカ旅行(特にケニア方面)で、彼をメインレポーターとしたアフリカ紀行番組もたびたび放送された(なるほど!ザ・ワールドでは、いかりやがアフリカのレポーターの時は、「長さん里帰り」と称された)。

コント色の強いザ・ドリフターズですが、米軍基地などで音楽活動していたメンバーを土壇場で集めた(すでに大人気だったビートルズライブの前座が決まり、前身メンバーが一斉に抜け、残ったのはいかりやと加藤茶だけでライブ主催運営会社にメンバーの名簿提出の締め切りが迫っていたから)バンドであり、いかりやさんはベースを担当、1966年にはビートルズの前座として武道館で公演した。

いかりやさんのベーシストとしては、日本におけるチョッパー奏法の元祖と語られることがあるが、これは近田春夫の流したデマである。実のところは、その頃にウッドベースからエレキベースへ転向したプレーヤーの間では、主流であった親指弾きである。バンドマン時代に演奏していたカントリー&ウエスタンや、ロックンロールにチョッパー奏法はまったく必要ないし、チョッパーをしたこともないと、ドリフターズの元メンバーで親友のジャイアント吉田が語っている。

バンドマン時代を知らない若年層には、いかりやがベースを演奏する姿が新鮮だったことと、今となっては古典的な奏法により、「いかりや奏法」「いかりや弾き」「長介弾き」という言葉も生まれた。ただし、特別に個性的で画期的な奏法を行っているという意味ではない。しかし、日本で初めてフェンダー製のエレキベースを使用したベーシストであることは、ベースプレーヤーとして特筆すべきことである。なお、親指引きをはじめた経緯としては、事務所の後輩であるザ・ワイルドワンズの島英二の証言では、島の勧めでピック奏法をしようと思ったが、ピックを持っていてはコントに支障が出るためとのことである。