わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

タフから奏でる礼儀正しくお人よしなストラトの魔術師-地味編その①-(沢尻エリカはお釈迦様!第24回)

2010-11-27 22:15:00 | 沢尻エリカはお釈迦様!
かなりのお久しぶりですが、

今回は、ローリングストーン誌で偉大なギタリスト第1位に選ばれたジミ・ヘンドリックスについて。

エレクトリックギターの演奏家として非常に高い技術と表現力を備えていただけではなく、画期的な技法の考案によってエレクトリックギターという楽器の可能性をそれ以前とは比較にならないほど拡大しており、メジャーでの活動期間がわずか4年ほどであったにも関わらず後世のギタリストに与えた影響が比類のないほど絶大であることも合わせ、多くのミュージシャンや評論家から史上最高のロックギタリストと呼ばれる。 ブルースとロックンロールを融合させ、クリーム、レッドツェッペリンらと並び、ハードロックの起源の一人。特にヘンドリックスは、大音量でディストーションの掛かった音の先駆けとなった。

一般的にヘンドリックスはギタリストとして語られるが、演奏者として優れているだけではなく作曲家・編曲家・レコーディングエンジニアとしても独特な才能を備えており、歌手としても味わい深く表現力に富んでおり、また常に新しいサウンドを模索しギターだけに執着しているわけではなかった。

奇抜なファッションや派手なステージアクション、機械によるサウンドエフェクトにばかり頼っているのでは…という批判もあったが、エリック・クラプトンは「一度目をつぶって演奏に耳を傾けてみればいい。ジミがどれほど優れたミュージシャンであるか分かるはずだ」、あるいは「僕とジェフ・ベックが二人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大級の賛辞を送っている。ジェフ・ベックは「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」と語っている。ヘンドリックス自身「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と反論している。

ヘンドリックスのプレイスタイルについては、型破りなアクションが取り上げられることが多いが、基本はあくまでブルースやR&Bに根差し、これにジャズのコードやスケールを加えたベーシックなものである。 ただし音の選び方やフレーズの展開は強烈に非凡なもので、従来からのブルースやR&Bの枠に収まらないような画期的な内容だった。

ヘンドリックスは非凡なインプロヴィゼーション能力によって、「Red House」や「Machine Gun」など、アドリブが曲の大部分を占める曲で、ライブごとに全く違った展開のアドリブを行った。これは、「指癖的な小さなフレーズ(リック)を沢山覚えておき、それらを組み合わせてアドリブを構築する」のではなく、「その瞬間に頭の中で鳴った(聞こえた)フレーズをギターで弾く」というアドリブのとり方を行っていたから、という説がある。

ヘンドリックスのソロプレイは、例えば後に登場してくるハードロック/ヘヴィメタル系ギタリスト等と比べると特に速弾きとは言えず、運指もやや正確さに欠けるところがある。しかしギターという楽器が本来備えている音に加え、大音量に伴う電気的ノイズまで駆使し、刻々と音色を変化させながら、即興で感情の高まりを表現していく能力に関し、ヘンドリックスに対比できるギタリストは未だに存在しないという意見も存在する。ハードロック/ヘヴィメタル系ギタリスト等と比べると音の数こそ少ないが、緩急自在のフレージングと、タイム感のコントロールにより、聴き手に与えるスピード感は非常に高い。ライブ演奏が素晴らしかっただけではなく、スタジオ録音でも革命的と言えるような多彩なサウンドを生み出した。。。


で、偉大なギタリストの潜在能力は如何ほどだったか?


潜在能力点火法において、

彼の生年月日から潜在能力とラッキーカラー出した結果、

点火法数字は「729」で、

7・・・「気配り・やさしさ・金運(お金をいじめない)」、

2・・・「感情・物の好き嫌いがはっきりしている・基本的人が好き」、

9・・・「努力(苦労を苦労と思わない状態)」、


で、性格的にお人よしで、まじめで内向的なものでどんなつらいことがあっても表に出さずひたすら事をやり続けることがある。

ラッキーカラーは「赤」。


ジミヘンと同じ結果(潜在能力仲間)の有名人。

原田誉之(盗涙王の左;東京NSC12期で同期は渡辺直美、ジャングルポケットなど。趣味はカラオケ・ドライブプラン→カラオケに行ってドライブして東京タワーと海を眺めながら告白。好きな言葉「アンタ面白いよ!!」。資格は自動車免許,計算技術検定2級,第2、4危険物取扱い 乙級,貴方といぅなの危険物。原田が処理します。口癖は「語尾に『つって』ってつく。『つって』=『とか言って』」。夢はオープンカー買ってドライブ。 風をビュンビュンいわせながらポップコーンを食べてやる。 まぁ全部飛んでいくんだろーなぁ。。宝物は家族)、松本百子(陸上競技選手;南島原TAC所属。専門はやり投。やり投日本ジュニア記録保持者・日本高校記録保持者。北京世界ジュニア選手権日本代表。2006年アジアジュニア選手権銅メダリスト。)、芳賀優里亜(デルモ、俳優;趣味は写真を撮ること・詩を書く事・ショッピング、特技はバトン。詳細はniftyココログ、GREEブログにて)、村田綾(ラジオDJ、俳優;趣味は読書、スポーツ全般、ピアノ。 特技は電卓の早打ちで、高橋名人級に電卓技能検定1級を持っている。詳細はアメバ、GREEブログにて)、☆ピョンピョン☆(松竹芸能所属のお笑いタレント;芸名の由来は小泉今日子の愛称「キョンキョン」から。芸風として衣装は、以前は水色のドレスだったが、その後水玉模様入りの赤の衣装が多くなっている。なお、お笑いライブ、アイドルライブ、歌ライブともこの衣装で出演することが多い。まず「ガッポリ建設~! 三番弟子の~! ぴょんぴょんです!」と、叫びとポーズを入れながらあいさつをしている。プロ野球選手の物真似(フォームの真似など)を演じた時は、1980年代以前に活躍していた選手の物真似が多かった。 織田信長、上杉謙信など歴史上の人物をネタにすることもある。また、ギターを弾きながら歌ネタや一言ネタなどを披露するといったこともあった。ネタで自作の曲を披露することがあり、1980年代のアイドルソングの替え歌や、「いとしさと切なさと織田信長と」「おすもうサンバ」など自作の曲を取り入れたりもしている。趣味は1970年代80年代のアイドルのグッズを集めること。好きな歌手はおニャン子クラブ、CoCo、キャンディーズなどのアイドル、気になる人は石野真子だとか。SHOW-YAなど1980年代のロックミュージックに興味を示しているところがある。好きな漫画は高橋留美子「らんま1/2」。特技はエアギター)、美月あかり(福岡県飯塚市出身のグラビアアイドル;小学生の時からタレントの仕事に憧れ2008年に芸能界入り。将来は「女優を目指している」という。『イツザイ』の『ハッスル第2のインリン様オーディション』では、マスクを付けた格好で「クソみてぇだな!」などが決め台詞のキャラクターを演じ、この番組内で行った人気投票でも1位を獲得したことがあった。「アリケン」出演時の持ちギャグは『おいで。』(あおむけに寝そべり、股を開く)、『チョモランマ!』(腹ばいになり、尻を高く突き出して股を開く)好きな男性のタイプは「良く食べよく笑う人」。本人曰く、腋の汗がよく出るとのことで、「腋汗がひどい」として『ロンブーの自虐アワー 全国残念さん選手権』に出演した。詳細はアメバブログ「美月あかりのあかりんご☆日記」、GREE)、相葉弘樹(ミュージカル「テニスの王子様」、戦隊シリーズ「侍戦隊シンケンジャー」に出演した俳優。詳細はアメバブログ)、小林美佳(広島を拠点に活動しているサンフラワーのメンバー)、夏川亜咲(R18系俳優)、アロルディス・チャップマン(MLBシンシナティ・レッズに所属する投手。キューバ出身。武器は切れのいいスライダーと、最高105mph(約169km/h)の速球。球種はスライダーの他にカーブ、チェンジアップがある。2009年WBCキューバ代表。2010年8月31日にメジャーに昇格し、その日のミルウォーキー・ブルワーズ戦の8回にメジャー初登板。1回無安打、1奪三振、無失点の好リリーフでメジャーデビューを果たした。投球数はわずか8球だったが、うち6球の速球は全て98mph(約158km/h)以上。最速は球場表示で102mph(約164km/h)を、テレビ中継では103mph(約166km/h)をマークした。翌日には大リーグ公式ホームページが1球速報に用いる測定システムで103.9mph(約167.3km/h)をマークし、ジョエル・ズマヤに次ぐ歴代2位の球速と公式に認定された)、大崎由希(グラビアアイドル、俳優;。趣味は殺陣、料理、空を見る・撮る、特技はドラム、カホン。詳細はアメバブログ、GREE)、大島麻衣(ホリプロ所属のタレント、エイベックス所属の歌手;元々は女性グループAKB48のメンバー。特技は、バレーボール、フラフープ、クラリネット演奏。タルトという名前のパピヨン犬を飼っており、自身のブログにもたびたび登場する。携帯電話を3度もタルトに壊されたという。また、パピヨンを飼う以前は、「犬といえばミニチュアダックスフント」のイメージしかなかったとのこと。辛いものが大の苦手。かなりの甘党で、甘口のカレーにガムシロップをかけて食べるほどである。カレーライス一皿にガムシロップを25個分入れた、という逸話もある。おへそフェチで、週刊誌でのグラビア写真を見ては、ついモデルのおへそに目が行くほどである。愛読書は品川庄司からもらった「空」。好きな色は、赤、黒、白。1日1回、必ず決まってやる事は、アロマやお香をしながらCDを聴いてリラックスする事。ディズニーキャラを集めていて、中でもおしゃれキャットのマリーがお気に入りであり、また自分自身をディズニーキャラに例えるとデイジーダックであるという。ディズニーキャラ以外ではハローキティのキティちゃんがお気に入り。お笑い好きである。肉食系女子。尊敬する人は、倖田來未、松嶋菜々子、深田恭子。好きな俳優は、佐々木蔵之介。キャッチフレーズの中にもある『うさぎちゃん』と言われるのは、元AKB48メンバーの折井あゆみが昔飼っていたウサギに似ていたからと言われる。アイドリング!!!の加藤沙耶香、清宮佑美と仲が良い。AKB48在籍時代、いわゆる演出的「おバカタレント」の1人として名前が挙がることもある。クイズ番組で散々な結果に終わったりで掛け算など計算が出来ない事を番組内でいじられたりした事である。AKB劇場での公演内においてメンバー峯岸みなみが考えたという「バカだからってナメんなよ! やれば出来る子、まいまいこと大島麻衣です」というキャッチフレーズを使用していた。一時期住んでいた野田市愛を伝えるため、今まで『ザナドゥブログ(通称:ザナ風呂)』だったが、大島個人のブログ(アメバ)のタイトルを野田市民のひらがな表記『のだしみん』とした。トークライブの中の「野田親善大使への道」というコーナーでは、野田市の思い出の場所を写真で紹介している。 2010年8月7日の野田七夕祭りにおいて、イベントに登場した野田市長から念願の野田親善大使に任命された。詳細はブログGREE、また「のだしみん」)、スコット・モイア(カナダのフィギュアスケートアイスダンス選手;2010年バンクーバーオリンピックアイスダンス金メダリスト。2010年世界選手権優勝。2008年四大陸選手権優勝。2006年世界ジュニア選手権優勝。パートナーはテッサ・ヴァーチュ)、坂本和哉(熊本県菊池郡大津町出身で、中国サッカーリーグ・ファジアーノ岡山ネクスト所属のサッカー選手。ポジションは、DF。1対1に強く、ハードで献身的なディフェンスが持ち味)、柳田将利(NOMOベースボールクラブ所属の野球選手;投手としては、最速149km/hのストレートを武器としており、スライダー・カーブなどの変化球と共に投球を組み立てる。野手としては、高校通算本塁打36本という強打を武器としている。ぽっちゃり体系でいわゆる「あんこ体型」が特徴。重度花粉症を患っており、高校時代は甲子園で花粉症が原因で滅多打ちにあったことがある)、鄭 訊(てい じん、中華人民共和国の男性フィギュアスケートアイスダンス選手。2010年バンクーバーオリンピックアイスダンス中国代表。第6回アジア冬季競技大会2位。パートナーは黄欣彤)、高瀬友規奈(ファンタイム所属の俳優:3歳の時からジャズダンスを始め、以後クラシックバレエ、タップダンス、ヒップホップ、コンテンポラリーとダンス全般習得。その影響で、小学生の頃から数多くの舞台、ミュージカルに出演。16歳から映像の世界に転身。以後、TVドラマ、映画、CM等で活動。近年では、自身が企画、プロデュースを務めるパフォーマンスイベントも行っている。詳細はオフィシャルブログ「友規奈主義」)、橋内優也(徳島ヴォルティスのDF:50m走は5秒台、垂直跳びで75cm以上飛べる、高い身体能力を持ち合わせた選手。基本ポジションはセンターバックや右サイドバックだが、FWとしても起用された事がある。性格が非常にいいため、チームメイトに慕われており、若手時代はJサテライトリーグでキャプテンも務めた)、松井絵里奈(ハーモニープロ所属のタレント;趣味は詩を書くこと、音楽鑑賞、部屋掃除、ストレッチ、健康について調べること、知らない街に行くことなど。特技は人を楽しませる、ミッキーの声真似、円周率3.14の歌、炒飯をおいしく作ることなど。特徴は色白で細身、笑顔が魅力。志望は将来的には歌の仕事もしたいと語っている。性格はおとなしく明るいが、負けず嫌い (?) の頑張り屋の面もある。芸能活動がない日は、趣味兼社会勉強として広尾のふぐ料理店でアルバイトをしていた。エピソードとして芸能界入りを両親は猛反対しており、半ば家出同然で上京しアイドルを目指した。 番組・イベントなどには基本的にネクタイを着用して出演する、というファッションのこだわりを持っている。 松井の出身地である奈良県で行われた平城遷都1300年祭応援団結団式&500日前Startingイベントでは、着ぐるみせんとくんのお披露目ステージで、せんとくんと一緒にダンスを披露した。詳細はアメバブログ「咲かせよう!いつもココロに元気印ッッッ!!」 )、中島めぐみ(関西テレビアナウンサー;趣味は美術館巡り。特技はエア松浦亜弥、弓道二段。大学在学中の2008年には、ミス同志社女子大学に選ばれている。詳細は関西テレビHPにて)、キャシー・リード(木下工務店東京クラブ所属のアイスダンス選手;2007年、2008年、2009年全日本フィギュアスケート選手権優勝。特技はフルート演奏)、今井啓介(広島東洋カープの投手)、吉川さおり(サムティプロ所属のグラビアアイドル;詳細はアメバブログ「ご~いんぐまいうぇい」)、ムン・グニョン(韓国では「国民の妹」として親しまれている俳優。1999年韓国ドラマ「秋の童謡」でブレイクし、日本でも2000年頃から全国で放送されたドラマ秋の童話を機に人気が上昇し、その後多くの出演映画が公開されることとなった。1999年デビュー以降、さまざまな寄付活動を行い続け、「寄付の天使」とよばれている。 2008年、社会福祉団体に対し2003年から通算で8億ウォン以上の寄付をしていたことが判明された。)、本田有花(オスカープロ所属のミュージカル、舞台を中心に活躍する俳優;詳細はアメバブログ「Flower Life」)、鶴直人(阪神タイガースの投手;最速151km/hの速球とスライダー、シュートを主体としている。)、桝木亜子(Grist所属のグラビアアイドル、俳優;趣味は農作業の手伝い、ピザ作り。特技はスポーツ。詳細はGREEブログ)、中川真依(水泳選手で種目は飛び込み:2010年現在石川県金沢学院大学大学院生。アメバブログ「MAI LIFE」より、小学校1年生の頃から飛び込みを始めて、2008年に北京オリンピックに出場する事ができました。これからも次のロンドンオリンピックを目指して頑張るので応援よろしくお願いします)、YUI(福岡県古賀市出身のシンガーソングライター;好きなアーティストは、ポール・マッカートニー、シェリル・クロウ、ミシェル・ブランチ、アラニス・モリセット、アヴリル・ラヴィーン、スティング、エリック・クラプトン、ダイド、U2、矢井田瞳など。好きな食べ物は、酢豚、カボチャの煮つけ、豆類、そうめんなど。趣味は映画鑑賞・読書・バドミントンなどで、ファッションやメイクなどについては本人曰く、「疎い」のだという。曲を作る際にでたらめな英語を口ずさむため、スタッフはそれを「YUI語」と呼んでいる。映画『タイヨウのうた』ではYUI語で「Good-bye days」を歌う姿が少し見られ、SDオーディションの際も当時は未完成だった「I know」をYUI語で歌った。所属事務所の先輩である竹内結子やタレントのスザンヌなどと交流がある。使用ギターはフェンダー・テレキャスター、フェンダー・ストラトキャスター、フェンダー・ジャガー、マーティン・D-28、マーティン・HD-28V)、松嶋れいな(アクシスプロ所属の俳優;趣味や特技:街の探索、買い物、料理、掃除。ワコール人間科学研究所調べで、日本人女性では約4万2000人に1人しかいないされる、アンダー65のGカップの持ち主である。)、中山恵里奈(ATプロの声優;愛称はえりなん、またはえんなちゃん。端正な顔立ちとスタイルが特徴。趣味は読書、特技はバドミントン。太陽の日差しを浴びるのが苦手。雨の日が好き。好きな数字は4と9。好きな色は黒、赤、黄色で、イベントなどの表舞台に立つ時はこの色の衣装を着用することがほとんどである。好きな食べ物は甘い物。ゲーム好きで『ポケットモンスターダイヤモンド』、『ラグナロクオンライン』や『サモンナイト』、『ドラゴンクエストVIII』など主にRPG系統を好む。読書やゲームなどインドアのイメージが強いが、2007年夏に開催されたポケモンスタンプラリーを完全制覇するなどアクティブな一面を持つ。)、中原浩介(サッカースクール「escola de craque」のコーチ)、サンディ・パイヨ(フランスリーググルノーブル・フット38のDF)、倉本夏希(EBAプロ所属の俳優;趣味は歌、ダンス、旅行、特技はジャズダンス、ジャグリング、ブラインドタッチ。詳細はアメバブログ「夏希のひまわり日記」)、山本優希(ニュースタイルプロ所属のデルモ;父はパチンコ機器卸会社フィールズ代表取締役会長で競走馬カジノドライヴ、ペルーサなどの馬主でもある山本英俊である。趣味はK-1観戦、お菓子作り。特技はバレエダンスである。父親の会社が特別協賛をするK-1の打ち上げパーティーに出席しK-1ファイターとの数々の写真を自身のブログで公開している。詳細はアメバブログ「YUU LUV YOU」)、藤倉れいみ(KO義塾大学通信過程所属の俳優;趣味、特技:フルート、ジャガーの写メを撮ること、不貞)、戸田れい(NASAプロ所属のグラビアアイドル;趣味・特技はテニス、乗馬、ウェイクボード、ギター。鹿島アントラーズ所属でサッカー日本代表の小笠原満男の熱狂的なファンであり、その背番号から8という数字が一番好きな数字だと言っている(小笠原の現在の背番号は40)。また、鹿島アントラーズを応援している。左利きだったが母親に右に直された。スポーツ全般と箸は今でも左を使うことが多い。目標とする人物として、伊藤裕子の名前を挙げている。ヘアサロンが好きで週一間隔でトリートメントをしに行っていると語っていた。詳細はアメバブログ「ビューティーダイアリー」)、巽真悟(福岡ソフトバンクホークスの投手;MAX149km/hの直球とキレのあるスライダーが武器。他にカーブ・フォークを投げる本格派。細身の体格やフォームが似ていることから、西口二世などといわれる。また、高校時代は新宮高校の先輩でもある藪恵壹と同じくスライダーを武器にしていたこともあり、藪二世として報じられたこともある。)、伊藤千晃(エイベックス所属のAAAメンバー;特技:鳴子踊り、座右の銘:一瞬一瞬を大切に、努力したぶん自分にかえってくる。好きな色:赤系、パステルカラー、チャコールグレー。よく聴く音楽:浜崎あゆみ、クラシック 。好きな食べ物:チョコ、味噌煮込みうどん。嫌いな食べ物:マヨネーズ、うなぎ。すきな男性のタイプ:男らしく、優しさが顔に滲み出てて、ギターも弾け、筋肉質。初めての彼氏が、身長の高い人だったため、180cmぐらい有る人がタイプ。AAAメンバーの日高光啓のことを、話す前までは格好良いと思っていた。好きな有名人:山口智充 (DonDokoDon)。メンバーでは特に宇野実彩子と仲がよい。ベストアルバム「ATTACK ALL AROUND」に付属のボーナスDVD(ゲーム選手権)では、宇野実彩子と一緒に風呂に入ったり、一緒のベッドで寝たりするほど仲良しだと語っていた。メンバーカラー:赤)、メリル・デイヴィス(アメリカのアイスダンス選手;2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト。2010年世界選手権2位。2009年四大陸選手権優勝)、石川優実(フリータレント;趣味 お酒・映画鑑賞・舞台鑑賞・幕末 。長所 起きた瞬間からいつもテンション。短所 頭の回転が遅いの。口癖は「あらーうわーえーおや?」座右の銘は「一期一会」。集めてるものは? ペットボトルのキャップ(ワクチンになるのですよ)、好きなタレントは永作博美、麻生久美子)・・・、

その②へと続く・・・

考えるな、感じよ

2010-11-27 22:12:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

Lalo Schifrin「Theme from Enter the Dragon」(燃えよドラゴン)

本日は不滅の男ブルース・リーのお誕生日ということでアップしました。

「おめでとうございます」


ブルース・リーについては、「沢尻エリカはお釈迦様!」にて取り上げる予定ということで、

この曲はいうまでもなく彼の代表作映画「燃えよドラゴン」のテーマ曲。

この曲を作ったラロ・シフリンについて。

本名は、ボリス=クラウディオ・シフリン。

アルゼンチンのブエノス・アイレス生まれ。

父はヴァイオリン奏者。6歳からピアノを習い始め、エンリケ・ダレンボイム(ダニエル・バレンボイムの父)、次いで、アンドレア・カラリスに師事し、アルゼンチンの大学でクラシックを学んだ。

ジャズにも傾倒していたが、1950年代初頭にパリに留学し、パリ国立高等音楽・舞踊学校で、オリヴィエ・メシアン、シャルル・ケクランに師事した。

フランスで、ジャズ・ピアニスト、アレンジャーとしてキャリアを歩み始め、ヴォーグ、エディ・バークレーから何枚かのラテン音楽のレコードを録音した。

1950年代終わりに、アルゼンチンに帰国し、ジャズ・ミュージシャンとして活躍した。同じくアルゼンチン人であるガトー・バルビエリとも共演した。

1958年に、ディジー・ガレスピーに出会い、ガレスピーのために、『Gillespiana Suite』を書き下ろした。

1960年にニューヨークでガレスピーに再会し、ディジー・ガレスピー楽団のピアニスト兼アレンジャーとして参加し頭角を現す。アメリカに移住。ザビア・クガート、クインシー・ジョーンズなどの楽団にも参加、自身のバンドでも活躍した。これらのビッグバンドでの活動では、ジャズのみならず、ラテン、ボサノヴァなどの要素も消化していった。

シフリンは、ヴァーヴに所属していたため、スタン・ゲッツ、カウント・ベイシー、サラ・ヴォーン、ジミー・スミス、ルイス・ボンファ、カル・ジェイダー等の作品に参加した。ヴァーヴが、映画製作会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)の子会社だったために、シフリンは、間もなく、MGMの映画作曲家となった。この頃からシフリンはハリウッドに移り住み、映画やテレビシリーズのために数々の曲を書くことになる。

特に有名なのはテレビドラマ『スパイ大作戦』のテーマで、4分の5拍子を用いてダイナミックなサウンドを創り上げた。また、ブルース・リー主演の映画『燃えよドラゴン』では、シンセサイザーも使用しオリエンタルなアレンジを施した。

映画音楽作曲家、ジャズ・ミュージシャンとしてのキャリアと平行して、クラシック音楽の指揮者、作曲家としても活動し、『Invocations』『Concerto pour contrebasse』『Concertos pour piano Nos. 1 & 2』『Pulsations』『Resonances』といった作品を録音した。ホセ・カレーラス、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティといった、いわゆる「三大テノール」のツアーにも参加している。

1994年、第47回カンヌ国際映画祭で審査員を務めた。これまでにグラミー賞に21度ノミネートされ4度受賞、アカデミー賞は6度ノミネートされている。

現在78歳、映画音楽の創作はもちろん、自身のアルバムも発表し活動している。

そんなサエコ(旧姓ダルビッシュ)と同じ潜在能力の彼ですが、「スパイ大作戦」、「燃えよドラゴン」のほかに、「ダーティーハリー」シリーズ、「ラッシュアワー」シリーズ、「猿の惑星」、「スタスキー&ハッチ」など手がけている。。。

この映画のエピソードとして、

1973年12月に初めて日本公開された時点で、ブルース・リー本人は既に故人となっていた(1973年7月20日死去)とはいえ、不滅の男になった・・・。

ブルース・リーの主演映画は中国語版も英語版も全て声優による吹き替えとなっているが(香港映画では声優が声を吹き替えるのが通常)、本作『燃えよドラゴン』の英語版のセリフは全て本人の肉声である。但し「アチョー」の奇声(怪鳥音)は、本作以外にも『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』で本人の肉声が使われている。

オハラ役のボブ・ウォールは、ブルース・リーのアメリカ時代の友人で、前作『ドラゴンへの道』でリーに誘われて悪役を演じたのが評判となり、続けての映画出演となった。後に『死亡遊戯』にも出演している。

『ドラゴン危機一発』『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』と、ブルース・リーの一連の香港作品で共演しているトニー・リュウが、試合でローパーと対戦する役を演じている。
高僧を演じる(冒頭でリーと哲学を語る)ロイ・チャオは、英語を話せる他に、小型飛行機を操縦もできる。ハンの島を空中から撮影する時に、大きく貢献している。

撮影に参加しているハンの部下のエキストラたちは、辺りにいたチンピラやヤクザを集めて撮影された。おかげで撮影現場は不穏な空気が漂っていたらしい。ハンの愛人のエキストラにも現役の娼婦がいた。

撮影中、上記の中からブルース・リーに勝って名を上げようとする挑戦者が現れたが(共演者ボブ・ウォールの証言)闘志剥き出しのリーに挑戦者は全く成す術が無かったらしい。そのため撮影中に漂っていた不穏な空気は一掃されたという。
リーとその挑戦者の戦いはワーナーのカメラマンによって撮影をされていたのだが、ワーナーではそのフィルムは不要と考え破棄した。

オハラ役のボブ・ウォールが割れたビンでリーに襲いかかるシーンを撮影中、誤ってリーの手首を負傷させるアクシデントが発生した。出血が酷く、撮影現場は一時騒然となり、前述の事件ですっかりリーに心服していたエキストラ達からはウォールを殺せという声が上がるほどだった。結局、この騒動は監督のクローズが「ボブは必要な役者だから」と説得して収拾したとクローズ自身の自伝本で語られている。

リーが地下に侵入する際にコブラを捕まえるシーンでも、リーはコブラを掴むタイミングを誤り腕を噛まれた。幸いにも、コブラから毒は抜かれていたので傷だけで済んだ。

スタジオ・セット等は殆ど現地の中国人スタッフによって作られ、プロデューサーのフレッド・ワイントロープもその技術に脱帽するほどだった。

日本も含め世界的な大ヒットとなったが、地元香港では大スター死去の直後にもかかわらず、前作『ドラゴンへの道』(その時点の最高興行記録)を凌ぐまでには至らなかった。一連の興行成績についてプロデューサーらは「香港や中国の観客は、リーのような細身の田舎者が、日本人や屈強な白人を痛快に叩きのめすような内容の作風を望んでいたから」等と分析している。

ジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウもチョイ役で出演している。特に、冒頭のサモ・ハン・キンポーとの格闘シーンは、全ての撮影が終了した後にリーがセッティング、監督したもの。

日本人では松崎真がスモウレスラー役で出演している。

劇中の戦闘シーンでリラックスしていたり爆笑しているエキストラがいたことがフジテレビ系の番組、「トリビアの泉」で取り上げられたが、同番組から問い合わせが来るまで、映画の制作者側もそのエキストラのことに気づかなかったらしい。

武術指導助手を担当したのはラム・チェンインである。当時弱冠21歳であったが、リーからの信頼と実力を認められての抜擢だった。米国公開版ではノンクレジットだが、香港公開版では、リーと共にその名を連ねている。ラムは、助手の他にも、あらゆる場面でのスタントも担当した。

オープニングのために、少女がバイクでトーナメントの招待状を空港に届けるシーンが撮影されたが、結局使用されず幻となった。しかし、この黄色いジャケットを着てバイクで香港の町を走り抜ける少女は、現在の完成版オープニングの中で2カットほど、見ることができる。

妹スー・リンの死因を語る老人は「リーの父親」と言われているが、劇中では「Old Man」と呼ばれており、親子関係が確認できる場面はない。妹スー・リンについても、実は「姉」ではないか、との説もある。
映写室や墓参りのシーンでブルース・リーが着用しているスーツは菊池武夫デザインのビギメンズ製のものである。(ブルース・リーはビギ香港の上得意の顧客であった


曲の前座としてごらんください。

題して「燃えよドラゴン」(nobuyuki21氏によるYouTube投稿)。

記録場所:苫小牧 沼ノ端スケートセンター
記録日時:2008年8月30日 - 15:00

のんちゃん版。
炎じゃなくて・・コールド・・ブルードラゴン。必殺のアイスブレスは・・エッジから凄­まじい飛沫が・・追い出されそうだから・・使わなかった・・

滑りながらの組手はすばらしいものであります。

本番!あちゃ~

愛はそっと吹きぬける風のように

2010-11-26 22:09:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

嵐「Truth」

1999年メジャーデビューし、一時期は苦しい時を過ごしたのもあったが、2008年から精力的に活発化し、2010年グループとしてNHK紅白歌合戦の男性軍(白組)の司会を務めることとなり、ファンだけでなく、アンチも別に…の方も老若男女
目をつけられるまでに成長した日本を代表するアーティスチックなグループのひとつである。

メンバーは

ニック・メイスンと同じ潜在能力の大野智、

左とん平と同じ潜在能力の桜井翔、

デヴィッド・ギルモアと同じ潜在能力の相葉雅紀、

クリス・トーマスと同じ潜在能力の二宮和也、

ドン・ヘンリーと同じ潜在能力の松本潤からなる。

メンバーカラーは、大野(青)、桜井(赤)、相葉(緑)、二宮(黄)、松本(紫)であるが、

潜在能力点火法におけるメンバーのラッキーカラー(緑・黄・赤・青の4色からなる)は、

大野・・・青

桜井・・・赤

相葉・・・赤

二宮・・・緑

松本・・・緑

である。


グループ名の由来

嵐というグループ名は、「世界中に嵐を巻き起こす」「芸能界に嵐を巻き起こす」という意味のほか、頭文字が五十音でも最初の“あ”、アルファベットでも最初の“A”であり、「頂点に立つ」という意味が込められている。そして、トップに立つという意味も込められている。

他には「?」(クエッションズ)などの候補があった。しかし、嵐は番組の中でクエスションズ(後に単数形ではあるが後輩のバンド名に)よりも嵐のほうが良いと言っていた。

結成まで

大野は当時Musical Academyのメンバーだったが、ジャニーズJr.のレコーディングを手伝ってほしいと頼まれ承諾。大野はそれまでに2度、事務所に辞意を伝えていた為、デビューの話を持ち出して大野に逃げられる事を恐れた事務所側に騙される形で、9月初頭にレコーディングを行なっている。その際、ラップも歌っており、「メロディとラップ、どっちがいい?」と聞かれ、「メロディ」と答えた為メロディ担当となった。

櫻井は当時、嵐を一時的な物と考えており、『1999年ワールドカップバレーボール』のイメージキャラクターとしての仕事が終われば、ユニットは解散してまたジャニーズJr.に戻るものと思っていた為、メンバー入りを引き受けた。

櫻井、二宮、松本は夏前からレコーディングや振り付けを行っていたが、CDデビューすることは知らされていなかった。

メンバー5人が初めて揃ったのは、デビュー記者会見を行うハワイ州に渡る3日前。一度4人で集められた所に、二宮、松本といつも一緒にいた相葉がいないのを見て、社長が二宮、松本に「YOUなぜ相葉を入れないのか」と問い詰め、社長がその場で相葉に「YOUパスポートを持っているか」と電話をし、相葉が「持っている」と返事をしたことで相葉の嵐加入が決定した。

ハワイ州には各自別々に行き、ハワイ州に着いて5人揃ってからデビューすることを聞かされた。

後に雑誌『H』のインタビューで、「もともと櫻井、二宮、松本の3人でグループを結成する予定だったが、『相葉と大野も加入させたほうがいい』と3人で提案し、5人のグループになった」と答えている。

1999年9月15日、ハワイ州ホノルル沖のクルーズ客船にてデビュー記者会見。結成、およびCDデビューが発表された。

この曲は、2008年8月にリリースされ、年間(2008年度)1位を獲得したナンバーで、2008年のオリコン年間チャートでは1位と2位(「One Love」)を彼らで占めて、1989年年間1位と2位を女性ロックバンドプリンセスプリンセス以来の快挙となり、年間10位には「Beautiful days」がランクインし、同一アーティストによる年間シングルTOP10内3作ランクインは、2002年の宇多田ヒカル以来6年ぶり、男性アーティストとしては1988年の光GENJI以来20年ぶりの記録となった。また「シングル作品別売上枚数」とあわせて「アーティスト別シングル売上金額」でも1位となり、2008年シングル2冠に輝いた。

第22回日本ゴールドディスク大賞邦楽部門シングル・オブ・ザ・イヤーを受賞。


この曲はメンバー大野智主演のTBS系金曜ドラマ『魔王』の主題歌。歌詞には、ドラマ本編と重なる要素(「謎」「闇」「真実」「百合」「隠し切れぬ二つの顔」など)が含まれている。


「嵐」は、TVの朝ワイド、ラジオ番組で話題にあがって知名度は十分にありつつ、彼らの音楽については、TV歌番組を観ず、車内移動でFMをBGMにするが局があまりかけない傾向にあり、年間1位獲得したナンバーとはいえ、実はまったく聴いてない状態でした。

はじめて聴いてみて、夜10時らしい音源と「魔王」らしい歌詞が印象的です。

本日はリーダーの大野君がお誕生日ということでこの曲をアップしました。

「おめでとうございます」

自分を信じて盛り上がる

2010-11-25 22:06:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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絢香 「I believe」

学生時代は歌手になる夢を抱いて、大阪と福岡の往復から始まり、一時期は音楽学校のある福岡に移り住み、そしてメジャーデビューのチャンスを掴み、福岡から上京、2006年この曲でデビューを果たす。。。

オリコンチャートで、初登場3位にランクイン。

これは女性シンガーソングライターのデビュー作としては史上タイのトップ3入り(ちなみにJ-POP系の女性歌手のデビュー作が3位で初登場するのは中島美嘉の「STARS」(2001年11月7日)以来の記録となった)。

1月15日の配信開始から42日で着うたダウンロード件数が100万DLを突破。これは女性歌手のデビュー曲では最短記録である。

親友のフィギュアスケーター安藤美姫の2006-2007シーズンのエキシビションの使用曲。安藤美姫の為にレコーディングされた全英語詞バージョンは『Sing to the Sky』の初回限定版に収録されている。英訳はティム・ジェンセン(Tim Jensen)が担当した。ただし、一部箇所は歌われていない。2007年世界フィギュアスケート選手権エキシビションの際は、東京体育館で絢香本人が日本語の原曲を歌った。

Mr.Bigのヴォーカリスト、エリック・マーティンが、ソロ・アルバム『Mr. Vocalist』にて英語でカバーしている。こちらもティム・ジェンセンが英訳を担当した。歌詞は『Sing to the Sky』に収録されたバージョンをベースに、省略された残りの箇所の翻訳と、既存箇所の翻訳の一部手直しがされている。

2009年3月に行われた『Mr. Vocalist』シリーズに伴うライブで、エリック・マーティンは絢香とデュエットを果たした。

この曲のヒット、デビューアルバム「First Message」はミリオンヒットし、日本レコード大賞など主要音楽賞で最優秀新人賞受賞と華々しいものとなるが、夢を掴んだその先には、やらなければいけないというプレッシャーから起きる「ストレス」というものが付きまとい、2009年、「ハセドウ病」で治療に専念するため、活動休止宣言、そんな時に所属事務所研音の仲間の俳優水嶋ヒロとタイミング悪く入籍発表、そして、2010年在籍していた所属事務所を夫婦で退社、そして音楽面で所属レーベルワーナーミュージックとの契約を解除し、夫婦で会社立ち上げ、自分たちで活動する予定でいかなるものか。。。

入籍の経緯、彼らの夫婦愛、見えない面が多いが、傲慢な夢を追い続ける夫の斎藤君(水嶋ヒロの本名)に対し、嫁である彼女が持病を抱えても歌を止めてまでも尽くせるかで彼らの未来が決まる。。。

10代でやりたい天職についたもの、それに関わる環境で病気になることは不運な持ち主かもしれない。

チャンス!ジャンプ!スピード!パワー!

2010-11-25 22:03:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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華原朋美「I Believe」

この曲は、1995年2枚目のシングルで、華原が大ブレイクするきっかけとなった曲。

デビュー当時の彼女といえば、音楽プロデューサーの小室哲哉を思い浮かべるでしょう。

この二人の出会いは、

もともとはグラビアアイドルで、その時代の夜番組『天使のU・B・U・G』(1994年10月~1995年3月)にレギュラー出演していた際、視聴していた小室哲哉に見初められ、番組プロデューサを介して小室が当時青山で経営していた店「TJM」に呼ばれたことがきっかけでほどなく小室との交際が始まる。

華原は女優志望だったが、出会って間もない頃に何気なく歌声を聴いた小室が「涙腺を刺激する歌声」と称し、歌手デビューが決定(華原が初めて買ったレコードが中山美穂の「50/50」で、奇遇にも小室作曲の作品であった)。また、デビュー直前に2人の関係をすっぱ抜いた週刊誌の記者に対し、小室は「アーティストに手をつけたのではない。恋人に曲を書いてデビューさせただけだ。」と語っている。小室は「愛を歌うことができる人」と称している。

1995年小室氏は、trf、篠原涼子、H Jungle with tの大ヒットで、経済不況、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件など不幸ごとが起き、世間での不安をあおる中で、一躍稼ぎのいい音楽プロデューサーとしてマスコミからチヤホヤされ始めるようになり、小室は次のステップとして、自身も加入しハンド編成のグループglobe結成、ワーナー内のレーベルを立ち上げ、第一号アーティストとして華原のデビューへとつながっていくが。。。

この曲は、元々はglobe用に作られていたが、最終的には華原の楽曲となった。小室曰く、この曲の位置付けは“背水の陣”という程の力作だった。

この曲は、初登場は7位だったが、約半年間売れ続け、年末~年明けに売り上げが再浮上し、最終的には最高4位を記録、翌年3月には自身初のミリオンセラー作品となった。続いてリリースされた「I'm proud」もミリオンセラーとなった。

壮大な雪山をバックにした崖上のセットで歌うPVはスタジオで撮影。ちなみに雪には塩を使っている。

この曲で、ミュージックステーションやHEY!HEY!HEY!、CDTVなどの音楽番組に初登場。デビュー曲「keep yourself alive」に引き続き、椛島永次が振付を担当した。

またこの曲で、最優秀新人賞などを総なめにしたが、唯一、第37回日本レコード大賞の最優秀新人賞は獲得できなかった。この年のレコ大最優秀新人賞を受賞したのは、演歌歌手の美山純子。

このシングルの売り上げの一部は、阪神淡路大震災の救済援助金に充てられた。

元モーニング娘。の保田圭は、モーニング娘。のオーディションでこの曲を歌った。

2004年のシングル「あなたがいれば」のカップリング曲に、リメイク・バージョン「I BELIEVE 2004」を収録した。

浜崎あゆみが、2004年10月のMステSPで、究極のラブソングBEST100に「I BELIEVE」がランクインした際に“印象深い曲”として触れ、「カラオケでキーの高い朋ちゃんの曲を全部歌えると“あっ、やった!”という気分になる」と、コメントしていた。ちなみに、浜崎自身が選んだ思い出に残るラブソングとして「I'm proud」を挙げていた。

初のベスト盤「kahala compilation」に収録されている同曲はシングルと微妙にアレンジや構成が異なる別バージョンである。

それからは、小室ファミリーの筆頭シンボルとしてデレデレし、マスコミからチヤホヤされつつ、小室プロデュースのもとでのシングル、アルバムは大ヒットするが、小室氏との破局で離れていくもの、自力で音楽活動、バラエティ番組、TVドラマ、ミュージカルで活躍するも、2006年体調不良を起こしてから、彼女の歯車がずれていく事となる。。。

2007年年明けから4月いっぱいまで自宅療養し、3度目の休養に入る。5月に仕事再開、翌6月から本格復帰していたが、6月29日、所属事務所のプロダクション尾木が6月28日付で専属契約の解除を発表。事務所側は「突然の仕事キャンセル等が続き予想以上に心身ともに健康の回復状況が思わしくなく、これ以上芸能活動を支えることは不可能」と判断。公式ファンクラブも6月29日付で解散し、事務所の意向を受け所属レコード会社のユニバーサルミュージックとの契約も28日付で終了した。

3ヶ月後の同年9月20日にはファン向けに自身のブログを開設し、その中で仕事キャンセルについて謝罪の文を掲載。理由について、自身の健康管理が悪く精神的にもダウンしたこと、さらに尾骨を骨折していたことも告白。また報道されているような睡眠薬などへの依存症を否定し、今は完全に完治し健康である事を綴っていた。しかし、マスコミで報道された直後の9月29日に、わずか9日間でブログは突然閉鎖された。

翌2008年7月10日、東京ミッドタウンで開かれたパーティに出席。「年内には復帰したい」と語ったものの、それから約半年後の2009年1月17日、急性薬物中毒で倒れ病院に緊急搬送されてしまう。医師から処方された精神安定剤を多く所持しており、「大量服用による薬物中毒」と報道されていた。 2010年8月29日にも、新宿・歌舞伎町でタクシー乗車中に意識もうろうとなり、救急車で病院に搬送された。

休養中の生活

現在休養中であり、江戸川区の実家の店を母と共に切り盛りしている。
千葉の海が好きで、よく海を見に行くとのこと。

皆さんも彼女の歌う姿をもう一度見たい人いると思いますが、そっとしてあげるのも大事だと思います。

芸能界という夢をつかんだもの、それに取り巻く環境で不幸になることは残念なものです・・・

下河原さん(華原朋美の本名)、小室さんに負けず、これからの人生いいものでありますように・・・

答えがあるから今を生きるお釈迦様

2010-11-25 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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ERIKA「FREE」

この曲は、2007年女優の沢尻エリカと同名、生年月日も同一でありながらプロフィール上は別人という設定でデビューした、ERIKA名義で本人出演のダイハツMOVEのCMソングとして起用されたシングル。2006年TVドラマ『タイヨウのうた』のヒロインを演じ、その挿入歌を担当してから音楽活動となる。

「Free」の、「答えがあるから-」以下の歌詞は、ERIKAが一度レコーディングが終了してから書き直して再レコーディングしたものである。自分の中に答えがあると気がついた瞬間すべての思考が変わることを経験したので、そのことを歌詞で伝えたかった。

ERIKAの表現方法は、歌ごとに歌い手のキャラクターを探して、そのキャラクターになりきって唄うことにある。リテイクのたびに歌詞の最初から最後まで歌って、キャラクターを体に染みこませていく。ERIKAというキャラクターは、最初は強めだったのが、唄っているうちに女性らしさが入ってきて、全体に落ち着いた感じの仕上がりになった。

「FREE」のようなロック調の曲をERIKAが好きになったのはレッド・ツェッペリンを知ってからで、それまでは街で曲が流れているとき以外あまり聴いたことがなかった。

前作に引き続き、オリコンシングルチャートで1位を獲得。『タイヨウのうた』は登場2週目の達成であったが、本作では初登場1位を獲得した。オリコンでもKaoru Amane名義含め2作目のチャートイン(及び首位獲得)と発表している。

女性歌手でデビューから2作連続首位獲得は、『1リットルの涙』で共演した薬師丸ひろ子の80年代のヒット曲「セーラー服と機関銃」、「探偵物語」以来、24年1ヶ月振りとなった。

あれから3年(2010年)、ERIKAはどうしているのだろうか・・・



孤独を甘やかす…山手通り

2010-11-25 21:55:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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椎名林檎「罪と罰」

高校をドロップアウトし、福岡から上京、妖艷、美貌、衝撃、波乱、古風なセンスを持ち、日本におけるオルタナティブロックを定着させ、今はバンド「東京事変」と並行で活躍している椎名林檎。

そんな、2006年トリノ冬季五輪でカーリング日本代表として出場し、その後は引退状態で結婚と出産、2010年バンクーバー冬季五輪ではカーリング中継の解説を行い、日本代表の活躍ぶりに刺激を受け、一児の母として現役復帰宣言した小笠原(旧姓小野寺)歩と同じ生年月日、かつ同じ潜在能力である彼女でありますが(彼女も一児の母であるがシングル)、

彼女の特徴とこだわりは、
詞には漢字や文語調の言葉、仮名遣い(歴史的仮名遣いではない)を多用。時に白目を剥き、巻舌を織り交ぜながら歌う。

また、「新宿系自作自演屋」を自称していた。これは、1990年代前半に一世を風靡した渋谷系をもじったもので、何故そう名乗ったのかと聞かれると、「ジャンルは何系か?という質問にいちいち答えるのが面倒くさかったから」、あるいは「小奇麗な渋谷系と差別化するため」などと答えている。

大のベスト・アルバム嫌いであり、過去に幾度となく「自分は絶対にベスト・アルバムをリリースしない」と公言している。

実際、椎名の妊娠・出産後に、本人の活動再開の兆しが一向に伺えないことを危惧したレコード会社側がベスト・アルバムのリリースを要請した際も、断った。そこで、2枚組カバー・アルバム「唄ひ手冥利~其ノ壱~」が代替案としてリリースされた。

CDの収録曲の合間の3秒程度の無音状態を嫌い、自身の作品ではそれを省いている。

イチローの大ファンである。テレビ番組で「ICHIRO-MONDOW ~Two Chairs~」、「僕らの音楽」で対談もしている。東京事変の楽曲「スーパースター」は、イチローをモデルに作ったと本人に伝え、イチローは「スーパースター」という言葉は大嫌いだが、歌詞の最後のフレーズで「私の」が前に付いていた事が非常に良かった、と感想を述べている。

ビッグコミック・スピリッツでの漫画家の吉田戦車との対談で、彼に強い影響を受けたと告白。「椎名林檎」という芸名も、「吉田戦車」という単語を発音した場合の語感を参考にしたという。

2003年に手術によって除去された鼻の下のほくろについては、「小学校時代に女優の沢口靖子やマドンナのように口元にほくろのある女性に憧れて、ペンで書いていたら本物になった」とする本人の談がある。

この曲は、

2000年1月26日に、シングル「ギブス」と同時にリリース。

1999年初旬「ここでキスして。」のリリース後に椎名が過労から化膿性炎症を発症し全ての活動を休止、自宅療養していた際に書かれた。音楽性としては1970年代風のロック・バラードであると指摘されており、椎名はこの楽曲を巻き舌を用いて歌っている。更に楽曲にはゲスト・ミュージシャンとして元BLANKEY JET CITYの浅井健一がギターで参加している。

この楽曲は、前作「本能」に続き、大衆的に成功を収めており、オリコンシングル・チャートで最高位4位を記録。シングルは累計で54万枚以上を売り上げている。

楽曲のミュージック・ビデオは木村豊が監督を務め、ビデオは、椎名が中古で買った1970年製のメルセデス・ベンツ通称「ヒトラー」を、ルパンⅢ世の石川五ェ門の斬鉄剣を意識したまっ二つに切るというコンセプトの元で制作された。

ビデオで椎名は眉を全剃りし両目の周りが真っ黒に塗られた容貌で刀を一振りし、車を真っ二つにしている。このビデオは評価を受け、2000年のSPACE SHOWER Music Video Awardsでは最優秀女性アーティストビデオ賞を受賞した。

ではどうぞ。
きれいに二分した(斬るのに2000万かかったとか)ヒトラーは富士山の麓の高原で爆破され、ヒトラーが弔われている。「ヒトラー」の亡骸は撮影終了後廃車とはされず、東芝EMIの美術倉庫に保管されることとなった…

椎名林檎さん、小笠原歩さん、

「お誕生日おめでとうございます。」

心温まる歌ですね

2010-11-24 21:50:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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大竹しのぶ「こころくんこころさん」

この曲は、「ひらけ!ポンキッキ」で30年ぐらい前に流れたナンバーで、

歌っている大竹さん、

作詞は福岡県嘉麻市出身で、「蒲田行進曲」で直木賞受賞、自ら劇団を作り、多くの俳優の育成と輩出、演劇界に歴史を残し2010年に他界したつかこうへい、

作曲は大分県国東半島在住でみかん栽培を経営しつつ音楽活動を続けている南こうせつ

という豪華な編成で、今聴いたら貴重で心温まるナンバーになっている。

そんな、シド・ヴィシャスと同じ潜在能力の大竹さんですが、

1957年東京都西大井生まれ。

父が結核となったため、小学校1年のとき空気のよい埼玉県入間郡に引っ越す。中学のとき、東京に戻り江戸川区の区立中学に編入。以降は江戸川区で育つ。

1973年、フォーリーブスの北公次主演のテレビドラマ『ボクは女学生』にて、北公次の相手役が一般公募された。これに応募した大竹は合格し、芸能界デビューした。その後、映画『青春の門(筑豊篇)』と、NHK朝の連続テレビ小説『水色の時』のヒロインで注目された。

1979年の第2回日本アカデミー賞において、最優秀主演女優賞・最優秀助演女優賞のダブル受賞で2冠を独占した。

1982年に東京放送社員でドラマディレクターの服部晴治と結婚し、1983年に長男二千翔(にちか)をもうけたが、1987年に癌性腹膜炎で死別。

1988年に明石家さんまと再婚し、長女(IMALU)をもうけたが、1992年に二千翔とIMALUの親権を大竹が持つ形で離婚。現在も、テレビ番組などで互いに結婚生活のことをネタにしたり、プライベートでも連絡を取り合い、月に2回は子供らを交えて食事をしていると発言していることから家族仲は悪くないらしい。

1990年代には野田秀樹と同棲生活を送っていることを公表していたが、再々婚には至らなかった。本人は現在でも「野田さんには感謝している」と自書やテレビで述べている。野田はその後2005年12月に女優・歌手の藤田陽子と入籍。

1993年にヘアヌード写真集『闇の光』を発売。

2001年からコンサート活動も定期的に行っているが、2008年には「あいのうた-Francesca!-」と題し、品川グローリアチャペル礼拝堂にて、初のチャリティーコンサートを開いた。

『10フィート運動』によって日本に購入された広島市・長崎市への原子爆弾投下の状況を記録したフィルムを編集して制作されたドキュメンタリー映画『にんげんをかえせ』(橘祐典 監督)のナレーションを担当した事がきっかけとなり、原爆をテーマにした映画やドラマに数多く出演し、吉永小百合と同じく反核・反戦運動にも熱心に取り組んでいる。

近年、ジャズピアニストの小曽根真と共にホスピス病棟へ訪問し、唄を歌ったり患者と話をしたりということも積極的に行っている。
長男二千翔は学校卒業後、大竹のマネージャーを務めている。


人物として

おっとりとした口調や雰囲気でバラエティ番組などでは天然ボケキャラとして知られる。特徴あるしゃべり方をよく清水ミチコにモノマネされている。

テニスやスキーが得意でスポーツ万能である。友人の証言によると車の運転も上手く、スポーツにおいては大変な負けず嫌いだと自身も語っている。

よく週刊誌やマスコミ等には「魔性の女」などと言われている。本人は「男の人に甘えたりしないし、結構真面目に生きているのに、どうして魔性などと言われるか分からない」と語っている。それを聞いた久本雅美は、「普通の女が出したくても出せないフェロモンを生まれながらに持っている。本人は無意識だからこそ魔性なのよ」と語っている。

アルコールは苦手である。すぐに顔が赤くなってしまう。だが打ち上げなどでは、シラフでも酔っている人に負けないくらいのテンションで場を盛り上げている。

『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王決定戦」では、過去5回とも勝利したことはなく、食べた後のリアクションは伝説となっており、4回目の出演でもう1人のリアクション王、泉谷しげると「最弱王決定戦」で対戦し、両者引き分けとなっている。そして5回目の出演は、宮崎あおいとコンビでの出演となったが、ジンギスカンが嫌いなのを簡単に見破られてしまい、宮崎あおいを巻き込んでの敗北となり、またも初勝利はお預けとなった。なお、出演する際は視聴率が高いことが多い。



血を地で行くのが吾道

2010-11-24 21:45:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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Sid Vicious「My Way」

セックス・ピストルズの2代目ベーシスト。極度の麻薬中毒者としても知られる。パンクロックを地で行く生き方から、彼を「パンクの精神」と呼び、崇拝する人間はイギリス国内外問わず数多い。

この曲は1974年アデランスのCMに出演したことがあるポール・アンカが、歌手引退の噂があったフランク・シナトラのために書き下ろし、シナトラの代表するスタンダードナンバーで、熱唱しすぎると周りがドン引きするおじさん方のカラオケスタンダードナンバーを、パンクを地で行く生きざまを魅せたシド・ヴィシャスがヘタクソに歌いカバーしたパンクロックナンバー。

そんな大竹しのぶと同じ潜在能力のシドであるが、

元々彼は、セックス・ピストルズの熱狂的なファンの一人であり、ファンの頃からピストルズの記者会見中に記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者を殴るなど、目立った存在だった。シドという芸名は、ジョニー・ロットンが昔飼っていたハムスターの名前から。そしてそのハムスターがジョニーの父親に噛み付いた事からヴィシャス(凶暴な)という苗字が付け加えられた。ピストルズのライブで初めて怪我人が出た際も、原因は当時ただの客の一人であったシドがステージに向かって投げたビール・グラスがその男性の顔面を直撃して割れた為である。

ルックスが良く、ヴォーカルのジョニー・ロットンとファッション関係の専門学校時代の友人でもあった。その縁もあってか、初代ベーシストにして唯一の作曲者グレン・マトロックがセックス・ピストルズを脱退すると、バンドのマネージャーであったマルコム・マクラレンの誘いがあって、後任のベーシストとなった。加入した当初は全くベースを弾いたことがなく、またその後も大して上達はしなかった。残されている数少ないシド在籍時のライブビデオでは、ベースの音が確認できる。

専らライブではベースで客を殴ったり、喧嘩ばかりしており、胸に剃刀で「FUCK」と刻み、血まみれになりながらベースを提げた姿などは有名である。そのパンクを地で行く生き方は多くの若者の支持を集め、後期ピストルズにおいてロットンと人気を二分した。過激な伝説とは裏腹に、本来は非常に気弱で貧弱な青年であったと言われ、セックスピストルズ在籍時にはロットンにいじめ抜かれたという(ロットンは「ヴィシャス(意地悪いという意味もある)」という芸名について「奴の性格から一番遠い名前をつけた」と語っている)。

ピストルズ解散後、この曲を含むソロアルバム『シド・シングス』をリリースした。

しかし、以前から耽溺していた麻薬のためスキャンダラスな行動を繰り返す。

1978年10月13日には、ニューヨークにあるホテル、チェルシーのバスルームで恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見された。真相は明らかでないが、凶器のナイフがシドの所有物であったことから、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したとも言われている。

警察には逮捕されるものの、レコード会社が多額の金を払い、保釈された。

その後も自殺未遂を起こしたり、パティ・スミスの弟をビール瓶で殴るなどの騒ぎを起こした末、1979年2月2日に麻薬の過剰摂取により死亡した。

短い生涯であったがそのカリスマと過激なパフォーマンスに人々は魅了され彼はパンク・ロックの伝説となった。

この曲を含むアルバムの制作の際、いくつかのカバー曲候補があり、当時ブレイク寸前のゴダイゴ(タケカワユキヒデ、ミッキー吉野らがいるグループ)のナンバーも含まれていたとか。。。




ちょ

2010-11-24 21:40:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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AKB48「ヘビーローテーション」

「わしやま音楽祭Vol.10」で「野菜シスターズ」を取り上げましたが、

今回は「野菜~」が収録されているシングルのメインを取り上げます。

2010年はスポットライトを浴びすぎるくらい社会現象まで起こし、象徴する商品、顔となった彼女たち。

この曲は、2010年メジャー17作目シングルで、

前作「ポニーテールとシュシュ」に続き、2種類の通常盤と劇場盤が同時に発売。通常盤は、それぞれジャケットおよび収録内容が異なる。2010年第2回AKB総選挙で1位となった坂本龍一と同じ潜在能力の大島優子が初めてセンターに立つことになり、ソロでのジャケット写真も初めてである。

本作の選抜メンバーは、前作「ポニーテールとシュシュ」の発売日前日から行われた、AKB48(10期研究生は除く)とSKE48全メンバーを被選挙者とする「第2回AKB48選抜総選挙」で、21位以内に入ったメンバーで構成される。その内12位以内のメンバーが、通常盤のフロントメンバーとして主にメディアに出演する。

ジャケット写真のプロデュースと「ヘビーローテーション」のPVの監督は、渡部陽一と同じ潜在能力の蜷川実花が担当している。

「ヘビーローテーション」のPVはメディア選抜が優遇されており、順位が下位(13位-21位)のメンバーがほとんど映っていない。

曲名の「ヘビーローテーション」は本来「よく聴く音楽」を意味する言葉だが、歌詞の中では恋人を24時間想う気持ちを表す言葉として使われている。

この曲は、集計初日の2010年8月17日付オリコンデイリーチャートで推定売上枚数34.0万枚を記録。集計2日目の2010年8月18日付で推定売上枚数の合計が40万枚を突破。週間売上では52.7万枚を記録し、前作「ポニーテールとシュシュ」の初動売上を超えた。

初動売上のみでオリコン年間チャート4位に登場した。

オリコン週間チャートでは4作目の初登場1位を獲得。女性グループによる2作連続での初動50万枚超えは史上初。ソロを含めた女性アーティストでは2000年の宇多田ヒカル、2001年の浜崎あゆみ以来、3組目の記録となった。

2010年8月25日発表のレコチョク週間ランキングで、着うた(R)・着うたフル(R)・ビデオクリップ・着信ムービー・着信メロディの各ウィークリーランキングで5冠を獲得した。

オリコン2010年8月度の月間ランキングで初の1位を記録。

次のシングル「Biginner」はより上の記録を作り、ランク1週で2010年最も売り上げたシングルとなり、2007年秋川雅史「千の風になって」以来の100万枚突破、所属レーベル会社キングレコードでは中山美穂&WANDS「世界中の誰よりきっと」以来18年ぶりの100万枚突破となった。。。

この曲は、彼女たちがいやらしくないかわいい系の下着姿のCDジャケットで話題となり、女同士のキスで、AKB48ファン、彼女たちの勢いにつられた一般大衆が賛否両論となったPVで話題となった。

自分(書き込み責任者;やましたじゅんいち)はこの曲のPV診て、

蜷川さんに対し、「自己満足」的でAKBブランドを崩したとか批判的なコメントを見たりしましたが、

芸術家は個性あっての世界、自己満足あって当たり前、蜷川さんの個性が出た芸術あふれるエロさも感じない映像鮮やかなPVに仕上がって、アイドルというブランドをいい方向に裏切る面白い内容でした。

話題になった女同士のキス


①のルーツは


②をもっと行って


彼女たちは③みたく超える事できるかな?

この曲のPVやジャケットの監督を務めた蜷川さんは②と③には影響を受けているはず。。。

②と③は・・・♪君がいなけりゃ~・・・ですよ・・・



帰したくないこの気持ち

2010-11-24 21:35:00 | わしやま音楽祭Vol.12
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斉藤和義「ずっと好きだった」

「わしやま音楽祭」シリーズでは初登場。

まず、

「ずっと好きだったんだぜ。

言えそうで言えない言葉。


この曲は、2010年春、

斉藤さん(44)と

同年代の1980年代に活躍したアイドル4人;

河合その子(45)⇒現ベーシスト後藤次利の妻、

石川秀美(44)⇒現薬丸裕英の妻、

伊藤つかさ(43)⇒子役で活躍し、14歳で「少女時代!?(訂正で「少女人形」)」で歌手デビュー、夜9時に生放送していた「ザ・ベストテン」にチャートイン、出演した時は労働基準法に引っかかるという理由で生で歌わず収録で歌ったが、実は生で歌うのが苦手で基準法を利用し歌ったとのこと。現在バツイチで独身、

荻野目洋子(もうすぐ42)⇒姉は荻野目慶子、現在は専業主婦の傍ら、稲垣潤一とのデュエットでのカバーアルバムに参加し話題になった

が出演した「資生堂 IN&ON」CMソングとして斉藤さんにとって38枚目のシングルで、ミュージックビデオはビートルズへのオマージュ溢れる仕上がり。

斉藤和義(ポール・マッカートニー)、リリーフランキー(ジョン・レノン)、2丁拳銃・小堀裕之(ジョージ・ハリスン)、濱田岳(リンゴ・スター)の出演も­話題で、

1969年1月30日に行ったメンバー4人によるリアルでは最後の彼らが作ったアップルレコードの屋上でのゲリラライブをパロったもの。

で、その一部分を。

ちなみにロケ地のビルは斉藤さんの故郷餃子の街宇都宮市内のビルで、雰囲気が似てます。。。


そんな、吉瀬美智子と同じ潜在能力の斉藤さんですが、

小学校6年生の時に母親が買ってくれたアコースティックギターによって人生が変わった。

中学・高校とギタリストとしてバンド活動。

大学入学後、先輩の影響で曲作りを始めて、21歳のときに上京。

数々の経験を重ね、1993年8月25日にシングル『僕の見たビートルズはTVの中』でデビュー。以降リリースされた『歩いて帰ろう』や『歌うたいのバラッド』は、現在でも様々なアーティスト、そしてファンに愛される楽曲となっている。

自他共に認めるライブアーティストでもあり、ライブハウスから武道館まで、ときにバンドスタイル、ときに弾き語りでライブやイベントに参加してきた。自身のツアーだけではなく、夏フェスへも積極的に参加し常連となっている。

2008年8月25日にデビュー15周年を迎え、リリースしたベストアルバム『歌うたい15 SINGLES BEST 1993~2007』は、5週連続TOP5入りの快挙を果たす。12月4日からアニバーサリーイヤーを締めくくる『斉藤和義ライブツアー 2008 "歌うたい 15<16"』を全国8都市で開催した。
翌2009年にはアルバム『月が昇れば』を引っ提げてのライブツアー2009≫2010 "月が昇れば"全43公演を開催。大阪城ホールでの弾き語りライブも行った。

2010年10月27日にはアルバム「ARE YOU READY?」をリリース、2010年11月には全国ZEPP会場+αを巡るLIVE TOUR 2010 "STUPID SPIRIT"開催中。

本人、音楽スタイル、影響力として、

ライブハウスから武道館・フェス出演もこなす。

ギター、ベース、ピアノからドラムやティンパニまでこなすマルチプレイヤーでもある。2009年7月放送の『情熱大陸』にて、一人多重録音によるレコーディングの様子が放送された。このとき「妄想系ミュージシャン」と紹介されている。

「せっちゃん」の愛称で親しまれている。この愛称は大学時代「セックスしたい」と言いふらしていたことからついた。 ファッションアイテムは古着とスニーカー。愛車は黒のアルファ・ロメオ。 また、大の猫好きで、自宅に猫を6匹飼っている(1匹は行方不明だったが、1年半ぶりに戻ってきた)。シングル「やわらかな日」のジャケ写は、飼い猫を自ら撮影したものである。

日本語ラップに対して「あれってダジャレじゃん」というような発言がある。「年齢的に自分の血にはないジャンル」と語っている。

シングル「dé jà vu」など、PVでは本人自ら濃厚なラブシーンを演じていることもあり、あいざわ元気からしばしば「エッチなミュージシャン(否定的・批判的意味ではなく)」と言われていた。

2007年10月9日にフジテレビ系で放映された「夜のロックスタジオ」では、往年のピアノ弾き語り曲である原田真二の「キャンディ」を、あえてギターで弾き語りその実力を示した。

作家の伊坂幸太郎は会社勤めをしながら小説を書いていた際、通勤中に「幸福な朝食 退屈な夕食」を聴いて退職を決意、執筆活動に専念することにしたと語っている。のちに伊坂の書き下ろし短編小説「アイネクライネ」をもとに、斉藤が「ベリーベリーストロング 〜アイネクライネ〜」を作詞作曲し、コラボレーション作品が生まれた。「アイネクライネ」は、「ベリー ベリー ストロング 〜アイネクライネ〜」を収録したシングル「君は僕のなにを好きになったんだろう」に初回盤特典として封入されたが、このシングルのジャケットは漫画家の佐藤秀峰が描いている。佐藤も斉藤のファンであると公言している。


これは、話題を呼び期間限定でPCでの注文販売しているグリコポッキーチョコレートとスペースシャワーTV企画とタイアップした
斉藤和義書き下ろしの新曲『Stick to fun! Tonight!』のプロモーションビデオで使用している

"ポッキーギター"

このギターは斉藤和義監修のもと、プロモーションビデオ専用に製作されましたが、
このギター販売して欲しいとの声が予想以上に多く、販売に至りました。

名称:ポッキーギター(専用ハードケース付)
受注期間:11月11日から11月30日まで。
受注方法:11月11日のポッキー&プリッツの日に販売方法の詳細をHPにて発表。

※ご注意下さい/必ずご確認・ご了承の上、ご注文下さい。
【注1】商品お届け日は予定であり、製作進行上、変更になる場合がございます。
【注2】完全予約限定生産商品の為、受注後のキャンセルはお受け出来ません。
【注3】これら仕様は予定であり、変更になる場合がございます。予めご了承下さい。

☆販売はこちらから。(PCサイトのみの販売になります)
http://jvcmusic.co.jp/pokyguitar/

Pocky Guitar
Neck: Hardmaple Scale: 648mm Fret : 22 Fret Standard
Fingerboard : Ebony; Color : Pocky Red Body : Mahogany Pickup: P-90

販売価格:42,000円
決済方法:代引き もしくは クレジットカード決済
送料:無料
商品お届け:2011年1月11日(予定)

アップしたのは

嫁さんが買い物中で、車内待機でずっと暇なご主人がこの曲をBGMにショッピングモール「イオングループJUSCO」の周辺を撮ったもの(推測ですが)。

ではどうぞ。

ようこそここへ・・・

2010-11-24 21:30:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

尾崎和行&コースタルシティ「・・・洋子」

この曲は、第16回世界歌謡祭グランプリ受賞し、1985年メジャーデビュー、「ザ・ベストテン」のスポットライトで熱唱したナンバー。

リリース当時、新星なる歌唱力と新聖なるサウンドで注目されていた。

当時付き合っていた彼女が「ヨウコ」ちゃんだった。

今聴いたら1980年代を髣髴させる当時を思い出します。

「ヨーーコーーー・・・

そんな志村けんと同じ潜在能力であり、同じ誕生日の尾崎和行さんの近況(アメバブログ「尾崎のおっちゃん」より)。


11月23日更新。

大変長らくお待たせ
しました~決定です


日時・2011年4月30日(土曜日)

神戸ウィンターランド

料金・¥2000円
ドリンク別途

開場18時 開演19時
問合せ・078ー252ー 8030


もうドタキャンはないよ

病院からドロンしてでも

神戸に行きます�


三ノ宮から徒歩の方は

車に気を付けて


テーマ!!

されど50魂を今・・・


全「ヨウコ」さんが、この曲のために駆けつけてくれました!!

全「ヨウコ」さんに捧げて歌います。

尾崎和行&コースタルシティ「・・・洋子」

♪泣かないで よぉーこ~(よーこぉ)

あの娘チラ見薔薇のブラ

2010-11-24 21:25:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

Jackson Browne 「Lawyers In Love(愛の使者)」

ドイツのハイデルベルク生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス育ちのミュージシャン。アメリカにおけるシンガーソングライターというジャンルを確立し、「1970年代最も完成された作詞家」とローリングストーン誌が評している。日本では、浜田省吾や佐野元春、尾崎豊らが多大な影響を受けたと言われている。

この曲は、1983年アルバム「Lawyers In Love」からのタイトルチューンで、当時のレーガン政権下で右傾化するアメリカを皮肉った内容であった。ブラウンは非常にリベラルな政治思想の持ち主で、民主党の熱心な支持者としても有名である。

それ以降、1986年『ライヴズ・イン・ザ・バランス』、1989年『ワールド・イン・モーション』と徐々に政治的な内容を多く含む曲を発表するようになる。売上も70年代と比べると低下していく。

また、1979年にスリーマイル島原子力発電所で起きた放射能漏れ事故に抗議する「ノー・ニュークス」コンサートを企画したり、1985年には当時ブルース・スプリングスティーンのEストリート・バンドに在籍したスティーヴ・ヴァン・ザントが、南アフリカの人種隔離政策が続くことに抗議するために企画したチャリティ・アルバム『サン・シティ』に参加している。

日本では、1986年に行われたチャリティ・コンサート「ジャパン・エイド」に参加した。レコード製作を通して社会的な発言を行うだけではなく、実際に様々な行動を起こして積極的に活動している。

西海岸サウンドならではのロックサウンドをご堪能ください。



夜にぴったりなBEAT

2010-11-24 21:20:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

佐野元春「悲しきRadio」

この曲は、1981年にリリースした2枚目のアルバム「HEART BEAT」に収録したRadio(YOU、「レディオ」だよbyジャニーズ事務所社長)の思いを入魂こめて歌ったロックナンバー。

そのころの佐野さんは、デビュー1年が経過したころで、まだ大ヒットには至ってなく無名アーティストな状態であった。

4月に『サウンド・ストリート』(NHK-FM)の月曜日担当になり、同番組の枠で『元春レイディオショー』を開始。

6月にシングル「SOMEDAY」を発表。

これが大瀧詠一の目にとまり、大瀧のプロジェクト「ナイアガラ・トライアングル」に杉真理とともに参加。

3人の所属レーベル・事務所(大瀧と杉はレーベルのみ一緒)が違い、関係者間の調整が長引くことを嫌がった大瀧は7月24日の杉のイベントライブ(ゲスト:大瀧、友情出演:佐野)のステージ上で、ファンに『Niagara Triangle vol.2』の製作をゲリラ的に発表し、既成事実を作って関係者間の調整を縮めるという裏技を使った。

自らのアルバム⇒3枚目のアルバム「SOMEDAY」と『Niagara Triangle vol.2』のレコーディングを並行して制作、大瀧から多くのことをインプットしながら自作にアウトプットしていった。

同年11月には大瀧の「ヘッドフォンコンサート」(渋谷公会堂)に参加、ナイアガラファンクラブのハワイ旅行にも参加するなど、ナイアガラとの交流を深めた。。。

翌年アルバム「Niagara Triangle vol.2」が、大ヒットした大瀧詠一アルバム「A Long Vacation」の続編的アルバムとして話題となり、オリコンアルバムチャートで1位を獲得、そこから佐野さんの知名度を上げるきっかけとなり、しばらくしリリースした佐野さんの3枚目アルバムアルバム「SOMEDAY」がオリコンアルバムチャート4位を記録、多くの若者のハートをつかむこととなる。。。

佐野さんの最近の状況は、NHK教育の「ソングライターズ」、NHKFM「元春レディオショー」と理屈ない中身の濃い内容の番組を持っていて、今の音楽界に不満を持っている中学生、高校生、またそれ以上の方々にはぜひ味わってほしいオススメ番組です。

NHKが縁ということ、今年デビュー30周年ということもあり、2010年NHK紅白歌合戦に出場が確定的と言われている。

そんな近藤春菜(ハリセンボン)と同じ潜在能力の佐野さんですが、

人物像として、

ボソボソとした口調で淡々と平板な、それでいてリズミカルな語り口で、ものまねされることが多い。インタビューなどで『.....そうだね...』と答えるのが口癖。

諏訪優と交流を持ち、アレン・ギンズバーグ、グレゴリー・コルソー、ゲイリー・スナイダーにインタビューを行うなど、ビートニクスへの造詣が深い。2007年の著書『ビートニクス』は、ビート派の作家・詩人たちについての本であり、ジャック・ケルアックが旅した地を再訪した文章や前述したインタビュー等が収録されている。

株式会社ロッキング・オン社長の渋谷陽一は、ROCKIN'ON JAPANを刊行する際「第一号の表紙は絶対に佐野元春しかいないと思っていた」と語っている。一方で渋谷は、デビュー前の佐野に評論家の見地から苦言を呈してもいる(『ロックは語れない』新潮文庫)。

少年時代は、夢と現実の区別があまりはっきりしない情緒不安定な子供だった。

高校時代、家出をし横浜でパントマイマーと共に暮らしていたことがある。

他者に楽曲を提供する際に「Holland Rose」というペンネームを使うときがある。この名前は、佐野がDJを務めるラジオ番組に小学生リスナーが送ってきたリクエストハガキで「ホール&オーツ」を間違えてホーランドローズと書いていた微笑ましいエピソードをヒントに付けたという。

1992年アルバム『スウィート16』は、日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞した。しかし、本人がこのことを知ったのは、受賞から2年後。マネジメント事務所の隅にひっそりと置いてあったトロフィーを見てはじめてその事実に気づいたという。

エピックレコードの全盛期、同レーベルの大ボスとして、同所属歌手(渡辺美里や大江千里など)から敬意を表されている。渡辺美里は自身のインタビューが編集者によって編集されて、自身の発言とまったく違った言葉が雑誌に載っていたことを悲しみ、佐野にその事を告げると、「あっ、そういう事がこれからあったら僕に言って」と渡辺美里に話したと言う。

「霧の中のダライラマ」の曲名が示すとおり「チベット自由と人権の集い」に賛同者として名を連ねており、中国によるチベット侵略に抗議しチベット民族に対する人権侵害に反対している。

基本的にテレビに出演することは少ないが、そこでのトークは印象的でHEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMPに出演した時はダウンタウンの松本人志に(トークについていけないので)「佐野さんホンマ勘弁してくださいよ」と泣きを入れられた。

この時、海岸を散策していた時に佐野を遠くから見つめる野生動物に向かって「こっちへ来いよ」と呼びかけたことをダウンタウンに激しく突っ込まれ、年末の特番では「動物愛護賞」を授与されていた。

2006年から2007年9月まで、DonDokoDonの山口智充が司会を務める「MusiG」(よみうりテレビ製作・日本テレビ系)にて、レギュラー出演をしている。2007年、佐野と山口、山本耕史の3人によるユニットThe Whey-hey-hey Brothersを結成し、1枚のシングルを出した。

アップしたものはYouTubeより。

2ikaten61氏(私宛にメールありがとうございます!)による投稿でのオリジナルフォトPVで、この曲にぴったりの夜のハイウェイをイメージするものとなってます。

この曲を通じ、高校生の尾崎豊、吉川晃司、太田光、田中裕二らが自分の突き進む道に往ったのは言うまでもない。

佐野さんの1億円の使い道は「新しい音楽スタジオを作る」とのこと(「ダウンタウンのガキの使いはあらへんで」の「佐野元春500の質問」より)。

さすが「ロックミュージシャン」。

必ずここへ帰ってくる・・・

2010-11-23 21:15:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

ささきいさお「宇宙戦艦ヤマト」

この曲は、言うまでもなく、日本を代表するアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌でおなじみ。

この作品の経緯から。

1974年10月に讀賣テレビ放送・日本テレビ放送網で放送されたテレビアニメーション及び、1977年に劇場公開された、劇場用アニメーション映画作品。通称「一作目」「ヤマト」「ヤマト1」「パート1」。

英語表記は『Space Battleship Yamato』で、一時期は『Space Cruiser Yamato』(再和訳すると『宇宙巡洋艦ヤマト』となる)とされた。松本零士のコミックでの表記は『Cosmoship Yamato』である。

アメリカでは、『Star Blazers』の題名でテレビ放映された。

本作の後、劇場映画として『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、『ヤマトよ永遠に』、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』が公開された。

テレビシリーズの続編としては、『宇宙戦艦ヤマト2』、『宇宙戦艦ヤマトIII』。テレビスペシャルとして『宇宙戦艦ヤマトII ヤマトよ永遠なれ!』、『宇宙戦艦ヤマトIII 太陽系の破滅』、フジテレビ系で『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』が放映されている。

初の実写化映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』が2010年12月1日公開予定


概要として、

戦争としての戦闘の描写、その中で繰り広げられる人間ドラマと主人公の成長、詳細なSF設定など、放映当時(1970年代)のアニメーション作品としては斬新な試みが取り入れられた連続スペース・オペラである。当初は同時間帯に放送されていた『アルプスの少女ハイジ』「猿の軍団」などの影響もあって視聴率が低迷したため、予定の回数を待たずに打ち切られた。しかし、再放送などで改めて注目され、再編集した劇場映画が公開される頃までには社会現象とも言える大ブームとなっていた。

その後の『銀河鉄道999』『機動戦士ガンダム』『超時空要塞マクロス』『新世紀エヴァンゲリオン』などのアニメブームの先駆けであり、映画・レコード・小説・漫画・アニメ雑誌・ラジオドラマ・キャラクター商品など、多くの足跡を残した。後にビデオ・CD・LD・DVD・テレビゲームなどもリリースされている。

★ストーリー

西暦2199年、地球は謎の異星人国家・ガミラス帝国の侵略を受けていた。ガミラスは冥王星に前線基地を建設し、西暦2192年より、地球に対して遊星爆弾による無差別攻撃を加えていた。海は蒸発し地球は赤茶けた姿に変貌し、放射能汚染で地上の生物は死滅する。人類は地下都市を建設し、地球防衛軍を結成して抵抗を続けていたが、科学力の差の前になす術もなく、地下にも放射能汚染が進行し、人類の絶滅まであと一年余りと迫っていた。

最後の地球防衛艦隊が、冥王星空域でのガミラス宇宙艦隊との交戦で壊滅し、人類生存の希望は完全に潰えたかに見えた。しかし、この会戦の最中に外宇宙から飛来した一隻の宇宙船が火星に不時着、通信カプセルが回収される。その中にはイスカンダル星から、「放射能除去装置 コスモクリーナーDを受け取りに来るように」との救援メッセージと、航海に必要な波動エンジンの設計図が納められていた。極秘裏に宇宙移民船へと改造中だったヤマトに波動エンジンが搭載され、宇宙戦艦ヤマトとして目的が地球脱出から放射能除去装置・コスモクリーナーDの受け取りに変わる。

14万8千光年の彼方、大マゼラン星雲のイスカンダル星に向け、地球時間1年以内に帰還しなければ人類滅亡という状況下、宇宙戦艦ヤマトは人類最後の希望を託されて往復29万6千光年の旅に発つ。

ヤマトはガミラス帝国と戦い、未知の宇宙空間における障害を乗り越えながら、イスカンダル星を目指して行く。。。


この曲について、

作詞はTVオーディション番組「スター誕生」の審査員を務め、デビュー前の山口百恵を厳しく評価した阿久悠、

作曲は、ザ・ピーナッツなど作曲、編曲を担当しつつ、お笑いが好きで目立つことが好きな宮川泰、

という豪華なコンビで手がけた。

ミュージカル・アカデミー(初回盤)。コーラスグループは再発売の際にロイヤル・ナイツへと変更された(CDの解説等では本来の名前に戻しただけと記載されている)。その後の商品化ではロイヤル・ナイツ版(の『宇宙戦艦ヤマトIII』のオープニング曲)を収録するのが通例となっていた。ミュージカル・アカデミー版は2000年春に通信販売限定で発売された『松本零士音楽大全』で初回盤以来の商品化(初CD化)が実現した。2001年、本編に使用された歌曲を全曲収録した「宇宙戦艦ヤマト ETERNAL EDITION File No.10 Yamato The Best」に「ミュージカル・アカデミー」版が収録され、通常市場にて正式に復活した。その反対に「ロイヤル・ナイツ」版が番外化し、他の本編未使用歌曲とともに「Yamato The Best II」に収録された。

ささきいさおは、話が来たときには複数の歌手が候補に挙がっていて子門真人の歌はすでに録音されていたと証言しているが、子門版の音源は未発表。

『さらば~』上映期の「ヤマト・ファンクラブ本部」会報等に阿久悠作詞の3・4番が掲載された。どこかで歌唱されたとの説もあるが、その音源が存在するかは不明である。

オープニング主題歌は21世紀に入ってからも高校野球の応援歌の定番の曲で、阪神甲子園球場などではブラスバンドが頻繁に演奏している。そのほか、Jリーグ・柏レイソルの応援歌としても採用されている。2007年のリーグ戦ではこのアニメのネタを引用して、試合に勝利するたびに「地球滅亡まで勝ち点○○」という横断幕が掲げられた。海上自衛隊の海外派遣の際には見送りの曲として使用される。阪神タイガースの前田大和は、自身の名前にちなんで入場曲として採用している。

2006年3月21日に亡くなった宮川泰の葬儀時、本人の生前の希望で葬送の曲として使われた。


で、そんな川島なお美と同じ潜在能力のささきさんですが、

私立暁星小学校、私立武蔵中学校・高等学校卒。親からは当初、東京大学への進学を望まれていた(祖父は東京大学出身、父親は早稲田大学出身)。高校時代より歌手として活動し、1960年にエルヴィス・プレスリーの日本語カバー『本命はお前だ』でロカビリー歌手として本名でデビュー。

雰囲気がプレスリーに似ていたことから和製プレスリーと呼ばれ、草野昌一には「単なる真似ではなく、もって生まれたもの自体が(プレスリーに)似ている」と評されている。一方、デビュー当時マネージメントを担当した堀威夫の著書には「デビュー時の歌唱力はとても人前で披露できるようなものではなかった」と評されており、本人も当時の歌い方に対しては、「気持ち悪い」「プレスリーはこんなに酷くない」など厳しい自己評価をしている。

ロカビリーブームが去った後は不遇の時代を迎えたが、この時期に俳優業をこなす傍ら、歌唱を基礎から地道に勉強し直したこと(島田歌穂の父から指導を受けていた。)が、後の飛躍へとつながる。1972年に声優として、タツノコプロ製作のアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』にコンドルのジョー役で出演。ガッチャマンの打ち上げの宴席において、余興のカラオケで主題歌を唄いこなしたことが評判になり、翌年『新造人間キャシャーン』の主題歌担当に抜擢され、ささきいさおの芸名でアニソン歌手としてデビュー。1965年発売の『ウェディングドレス』以来、約8年ぶりの新曲となった。

以降、数々のアニメ・特撮作品の主題歌を歌い、特にテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』の主題歌が一世を風靡し、ミリオンセラーを記録する。

別名アニメソング界の大王

子門真人や水木一郎、堀江美都子らと共に、アニメソングの黎明期を支えた歌手の一人である。子門、水木、佐々木の3人でアニメ界の三大テノールと評された事もある。

その後も歌手業はもちろんのこと、俳優として新劇やミュージカルへの出演を重ね、他にもナレーター、そして洋画ではシルヴェスター・スタローンやエルヴィス・プレスリー、クリストファー・リーヴらの吹き替えも演じるなど、多彩な活躍を見せている。テレビドラマでは1969年に『妖術武芸帳』で主役を務めた他、1970年代のアクション系作品では色悪や金持ちのドラ息子などの悪役も怪演し、個性派俳優として活躍した。歌番組では、ロカビリーブームの生き証人として、旧き良き時代を懐かしむポップスを披露することもある。

妻は声優の上田みゆき。1981年にお互いに子連れで再婚し、そのときの苦労が1986年に出版された『子連れ再婚の片道切符』(みゆき夫人との共著)に書かれている。

趣味はオーディオ、ホームシアター。それらへの造詣は深く、しばしば専門誌に登場する程である。釣りも趣味の一つであり、仕事で各地を訪れたさいに嗜む。

漢字で本名の "佐々木功"(俳優として活動するときに使用)とひらがなの "ささきいさお"(アニメ声優、ヒーローものの主題歌を歌うときに使用)と二つの芸名を使用していたが、1987年の『超人機メタルダー』の主題歌「君の青春は輝いているか」以後はヒーローものの主題歌を歌うときも "佐々木功" とした。しかし、1990年代後半には再び "ささきいさお" の表記も使われるようになり、2003年頃からは "ささきいさお" に一本化している。

現在は千葉県市川市在住。

今年はじめに放送された「SMAPがんばります」で、実写版ヤマト出演が決まり、しゃれた記念企画でクリスマスから紅白歌合戦までヤマトとかけてトマトだけで生活するものに挑戦した木村拓哉を応援するために、この歌をちょっと替えて「宇宙戦艦と~ま~と~」と妥協せず熱唱したささきさん立派です。

今年歌手生活半世紀を迎えた。。。

そして、「宇宙戦艦ヤマト」シリーズを主導で指揮していた西崎義展さんのご冥福を申し上げます。