わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

必ずここへ帰ってくる・・・

2010-11-23 21:15:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

ささきいさお「宇宙戦艦ヤマト」

この曲は、言うまでもなく、日本を代表するアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌でおなじみ。

この作品の経緯から。

1974年10月に讀賣テレビ放送・日本テレビ放送網で放送されたテレビアニメーション及び、1977年に劇場公開された、劇場用アニメーション映画作品。通称「一作目」「ヤマト」「ヤマト1」「パート1」。

英語表記は『Space Battleship Yamato』で、一時期は『Space Cruiser Yamato』(再和訳すると『宇宙巡洋艦ヤマト』となる)とされた。松本零士のコミックでの表記は『Cosmoship Yamato』である。

アメリカでは、『Star Blazers』の題名でテレビ放映された。

本作の後、劇場映画として『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、『ヤマトよ永遠に』、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』が公開された。

テレビシリーズの続編としては、『宇宙戦艦ヤマト2』、『宇宙戦艦ヤマトIII』。テレビスペシャルとして『宇宙戦艦ヤマトII ヤマトよ永遠なれ!』、『宇宙戦艦ヤマトIII 太陽系の破滅』、フジテレビ系で『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』が放映されている。

初の実写化映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』が2010年12月1日公開予定


概要として、

戦争としての戦闘の描写、その中で繰り広げられる人間ドラマと主人公の成長、詳細なSF設定など、放映当時(1970年代)のアニメーション作品としては斬新な試みが取り入れられた連続スペース・オペラである。当初は同時間帯に放送されていた『アルプスの少女ハイジ』「猿の軍団」などの影響もあって視聴率が低迷したため、予定の回数を待たずに打ち切られた。しかし、再放送などで改めて注目され、再編集した劇場映画が公開される頃までには社会現象とも言える大ブームとなっていた。

その後の『銀河鉄道999』『機動戦士ガンダム』『超時空要塞マクロス』『新世紀エヴァンゲリオン』などのアニメブームの先駆けであり、映画・レコード・小説・漫画・アニメ雑誌・ラジオドラマ・キャラクター商品など、多くの足跡を残した。後にビデオ・CD・LD・DVD・テレビゲームなどもリリースされている。

★ストーリー

西暦2199年、地球は謎の異星人国家・ガミラス帝国の侵略を受けていた。ガミラスは冥王星に前線基地を建設し、西暦2192年より、地球に対して遊星爆弾による無差別攻撃を加えていた。海は蒸発し地球は赤茶けた姿に変貌し、放射能汚染で地上の生物は死滅する。人類は地下都市を建設し、地球防衛軍を結成して抵抗を続けていたが、科学力の差の前になす術もなく、地下にも放射能汚染が進行し、人類の絶滅まであと一年余りと迫っていた。

最後の地球防衛艦隊が、冥王星空域でのガミラス宇宙艦隊との交戦で壊滅し、人類生存の希望は完全に潰えたかに見えた。しかし、この会戦の最中に外宇宙から飛来した一隻の宇宙船が火星に不時着、通信カプセルが回収される。その中にはイスカンダル星から、「放射能除去装置 コスモクリーナーDを受け取りに来るように」との救援メッセージと、航海に必要な波動エンジンの設計図が納められていた。極秘裏に宇宙移民船へと改造中だったヤマトに波動エンジンが搭載され、宇宙戦艦ヤマトとして目的が地球脱出から放射能除去装置・コスモクリーナーDの受け取りに変わる。

14万8千光年の彼方、大マゼラン星雲のイスカンダル星に向け、地球時間1年以内に帰還しなければ人類滅亡という状況下、宇宙戦艦ヤマトは人類最後の希望を託されて往復29万6千光年の旅に発つ。

ヤマトはガミラス帝国と戦い、未知の宇宙空間における障害を乗り越えながら、イスカンダル星を目指して行く。。。


この曲について、

作詞はTVオーディション番組「スター誕生」の審査員を務め、デビュー前の山口百恵を厳しく評価した阿久悠、

作曲は、ザ・ピーナッツなど作曲、編曲を担当しつつ、お笑いが好きで目立つことが好きな宮川泰、

という豪華なコンビで手がけた。

ミュージカル・アカデミー(初回盤)。コーラスグループは再発売の際にロイヤル・ナイツへと変更された(CDの解説等では本来の名前に戻しただけと記載されている)。その後の商品化ではロイヤル・ナイツ版(の『宇宙戦艦ヤマトIII』のオープニング曲)を収録するのが通例となっていた。ミュージカル・アカデミー版は2000年春に通信販売限定で発売された『松本零士音楽大全』で初回盤以来の商品化(初CD化)が実現した。2001年、本編に使用された歌曲を全曲収録した「宇宙戦艦ヤマト ETERNAL EDITION File No.10 Yamato The Best」に「ミュージカル・アカデミー」版が収録され、通常市場にて正式に復活した。その反対に「ロイヤル・ナイツ」版が番外化し、他の本編未使用歌曲とともに「Yamato The Best II」に収録された。

ささきいさおは、話が来たときには複数の歌手が候補に挙がっていて子門真人の歌はすでに録音されていたと証言しているが、子門版の音源は未発表。

『さらば~』上映期の「ヤマト・ファンクラブ本部」会報等に阿久悠作詞の3・4番が掲載された。どこかで歌唱されたとの説もあるが、その音源が存在するかは不明である。

オープニング主題歌は21世紀に入ってからも高校野球の応援歌の定番の曲で、阪神甲子園球場などではブラスバンドが頻繁に演奏している。そのほか、Jリーグ・柏レイソルの応援歌としても採用されている。2007年のリーグ戦ではこのアニメのネタを引用して、試合に勝利するたびに「地球滅亡まで勝ち点○○」という横断幕が掲げられた。海上自衛隊の海外派遣の際には見送りの曲として使用される。阪神タイガースの前田大和は、自身の名前にちなんで入場曲として採用している。

2006年3月21日に亡くなった宮川泰の葬儀時、本人の生前の希望で葬送の曲として使われた。


で、そんな川島なお美と同じ潜在能力のささきさんですが、

私立暁星小学校、私立武蔵中学校・高等学校卒。親からは当初、東京大学への進学を望まれていた(祖父は東京大学出身、父親は早稲田大学出身)。高校時代より歌手として活動し、1960年にエルヴィス・プレスリーの日本語カバー『本命はお前だ』でロカビリー歌手として本名でデビュー。

雰囲気がプレスリーに似ていたことから和製プレスリーと呼ばれ、草野昌一には「単なる真似ではなく、もって生まれたもの自体が(プレスリーに)似ている」と評されている。一方、デビュー当時マネージメントを担当した堀威夫の著書には「デビュー時の歌唱力はとても人前で披露できるようなものではなかった」と評されており、本人も当時の歌い方に対しては、「気持ち悪い」「プレスリーはこんなに酷くない」など厳しい自己評価をしている。

ロカビリーブームが去った後は不遇の時代を迎えたが、この時期に俳優業をこなす傍ら、歌唱を基礎から地道に勉強し直したこと(島田歌穂の父から指導を受けていた。)が、後の飛躍へとつながる。1972年に声優として、タツノコプロ製作のアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』にコンドルのジョー役で出演。ガッチャマンの打ち上げの宴席において、余興のカラオケで主題歌を唄いこなしたことが評判になり、翌年『新造人間キャシャーン』の主題歌担当に抜擢され、ささきいさおの芸名でアニソン歌手としてデビュー。1965年発売の『ウェディングドレス』以来、約8年ぶりの新曲となった。

以降、数々のアニメ・特撮作品の主題歌を歌い、特にテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』の主題歌が一世を風靡し、ミリオンセラーを記録する。

別名アニメソング界の大王

子門真人や水木一郎、堀江美都子らと共に、アニメソングの黎明期を支えた歌手の一人である。子門、水木、佐々木の3人でアニメ界の三大テノールと評された事もある。

その後も歌手業はもちろんのこと、俳優として新劇やミュージカルへの出演を重ね、他にもナレーター、そして洋画ではシルヴェスター・スタローンやエルヴィス・プレスリー、クリストファー・リーヴらの吹き替えも演じるなど、多彩な活躍を見せている。テレビドラマでは1969年に『妖術武芸帳』で主役を務めた他、1970年代のアクション系作品では色悪や金持ちのドラ息子などの悪役も怪演し、個性派俳優として活躍した。歌番組では、ロカビリーブームの生き証人として、旧き良き時代を懐かしむポップスを披露することもある。

妻は声優の上田みゆき。1981年にお互いに子連れで再婚し、そのときの苦労が1986年に出版された『子連れ再婚の片道切符』(みゆき夫人との共著)に書かれている。

趣味はオーディオ、ホームシアター。それらへの造詣は深く、しばしば専門誌に登場する程である。釣りも趣味の一つであり、仕事で各地を訪れたさいに嗜む。

漢字で本名の "佐々木功"(俳優として活動するときに使用)とひらがなの "ささきいさお"(アニメ声優、ヒーローものの主題歌を歌うときに使用)と二つの芸名を使用していたが、1987年の『超人機メタルダー』の主題歌「君の青春は輝いているか」以後はヒーローものの主題歌を歌うときも "佐々木功" とした。しかし、1990年代後半には再び "ささきいさお" の表記も使われるようになり、2003年頃からは "ささきいさお" に一本化している。

現在は千葉県市川市在住。

今年はじめに放送された「SMAPがんばります」で、実写版ヤマト出演が決まり、しゃれた記念企画でクリスマスから紅白歌合戦までヤマトとかけてトマトだけで生活するものに挑戦した木村拓哉を応援するために、この歌をちょっと替えて「宇宙戦艦と~ま~と~」と妥協せず熱唱したささきさん立派です。

今年歌手生活半世紀を迎えた。。。

そして、「宇宙戦艦ヤマト」シリーズを主導で指揮していた西崎義展さんのご冥福を申し上げます。

コンピューターはにんげんのともだち

2010-11-23 21:10:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

ペグモ「SOSペンペンコンピューター」

約30年前の「ひらけ!ポンキッキ」に流れていたナンバー。


元四人囃子のメンバーだった長沢ヒロらによって結成されたパンク・ニューウェーブを意識したバンドで、マニアックに作り上げたテクノ風ロックがたまらないものである。。。

注目は歌詞で、地球環境やこの曲が作られた頃、画期的で便利なものと言われていた「コンピューター」があまりにも便利すぎて人間が怠け者になるのではというメッセージのある内容である。

僕らが生まれてくるずっとずっと前には・・・

2010-11-23 21:05:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

ポルノグラフィティ「アポロ」

この曲は世紀末の1999年9月8日にリリースした衝撃的卑猥的デビュー曲。

デビュー当時のメンバーは、

野村道子と同じ潜在能力の岡野昭仁(V;アキヒト)、

泉ピン子と同じ潜在能力の新藤晴一(g;ハルイチ)、

長谷川町子と同じ潜在能力のTama(b;シラタマ)の3人グループで、

音楽プロデューサーの本間昭光(ak.homma)と企画プロデューサーの田村充義で、1999年デビュー以来彼らを支える体制をとっている。


ポルノグラフィティの原点は、因島高校在学時に新藤が中心となって結成した『NO SCORE』というバンドである。結成時は新藤と彼の従兄弟からなるバンドで、ここに同級生であった岡野やTamaらが新藤の誘いに応じて加わった。当初、新藤がヴォーカルパートを担当していたが、コーラスとしてスカウトした岡野の方が歌が上手かったことから、彼にヴォーカルを譲って自身はギター担当となった。

そのときは「音楽(ロック)への憧れ」「かっこよさそう」「青春時代独特の勢い」という理由が大きく、実際に高校の文化祭で演奏した成果は「自分たちでも下手だと感じたほど」という出来映えであったが、演奏を聴いた同級生や後輩からの声援に夢を抱くようになった。

高校卒業後の1994年頃に大阪へと移り、アマチュアバンドとしての活動を開始し、その頃より『ポルノグラフィティ』を名乗るようになる。当時は新藤・岡野・Tamaにドラマーを加えた4人組編成。当初は中尾天成がメンバーであったが1995年に脱退、代わって織畠英司がメンバーに加わった。

1995年頃よりアマチュアや若手バンドを対象としたコンテストで活躍するも、成績は2位止まりだった。1997年に織畠英司が脱退するが、同年の『ソニーミュージック SDグループオーディション』で合格、ソニー・ミュージックレーベルのSME Records(現SME Records)やアミューズとの契約を得る。これを機に上京し、活動拠点を東京に移した。

1999年9月8日、アキヒト・ハルイチ・シラタマの3人で『アポロ』をリリースしてメジャーデビュー。メンバーそれぞれの長所を発揮し、また話題を呼んだこともあって、次々とヒットを重ね、ファンを増やしていく。なお、デビュー当時は作品のほうが注目され、バンド名の認知には時間がかかってしまった。

ライブを中心にテレビやラジオ、イベントへの出演をこなすなど精力的に活動する彼らであったが、デビュー5周年を迎える直前の2004年6月にTamaがソロ活動を行うために脱退を表明。直後に発売されたベストアルバムが3人編成のラストアルバムとなった。後のメンバーの発言によれば、その頃が2009年時点において唯一、解散や活動休止を考えた時期であったという。

Tamaの脱退後は2人体制となり、『シスター』を発表してリスタート。メンバーが2人になったことで、メディアからは「2人組ユニット」として紹介されることも少なくないが、本人達は「2人組バンド」と主張している。しかし、現在では「既存や過去のポルノグラフィティの姿に留まらず、常に進化し続けよう(新たな“ポルノグラフィティ”の確立)」というコンセプトや目標を掲げ、様々なことに挑戦しながら活動している。

2009年にデビュー10周年を迎え、ライヴは通算400公演を達成、観客動員数はのべ100万人を超えている。

記念すべきデビュー曲についてですが、

発売当初はタイアップがない上、ポルノグラフィティ自体もほぼ無名であったことからオリコン・シングルチャートでは初登場84位であったが、彼らの出身地因島ではかなり話題だったようで、因島を擁する広島のチャートでは1位だった。後に音楽番組への出演や『ここがヘンだよ日本人』のタイアップもつき、オリコン週間シングルチャートでは最高5位を獲得し、累計で40万枚以上の売上を記録した。

しかし、関係者の予想以上に売れたことから、メジャーデビュー早々、一発屋の危険性をはらんでしまった作品でもある。
デビュー曲で売れすぎてしまったせいか、一時期“アポログラフィティ”というバンドの“ポルノ”という認識があった様である。

セールス的には1stアルバムよりも売れ、メンバーも「ポルノグラフィティ=アポロのイメージを払拭するのはかなり苦労した」と後に語っている。

この「アポロ」の由来は「アポロ計画」から来ているとのこと。by新藤晴一

「アポロ計画」とは、NASAによる人類初の月への有人宇宙飛行計画である。1961年から1972年にかけて実施され、全6回の月面着陸に成功した。

アポロ計画(特に月面着陸)は、人類が初めて有人宇宙船で(かつ2010年現在では唯一)地球以外の天体に到達した事業であり、宇宙開発史において画期的な出来事であるだけでなく、人類史における科学技術の偉大な業績としてもしばしば引用される。

その中で代表するのが、この歌に登場する「アポロ11号」。

「アポロ11号」といえば、1969年7月16日に月に向け発射し、7月20日に、人類初となる月面着陸し歴史に残る宇宙船。

人類初、月に足を踏み入れた時の「アポロ11号」船長ニール・アルゼン・アームストロングの言葉で歌といきましょう!

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」

衝撃のファーストタイム

2010-11-23 21:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

フォリナー「Feel Like A First Time(衝撃のファーストタイム)」

1976年、イギリス人の元スプーキー・トゥース(春日)のメンバーだったミック・ジョーンズ君と元キング・グリムゾンのイアン(そこダメぇ)・マクドナルド(100円マック)がオーディションでアメリカ人3人をスカウトし、1977年にアメリカでデビューしたロック・バンド。

イギリス人とアメリカ人が混在するという、当時では珍しいメンバー構成で、そうしたことから「フォリナー(=外国人)」と名付けられた。但し、実際の読みは「フォーリナー」の方が近い。

ハードロックやアメリカン・プログレ・ハードのジャンルに分類されるが、その莫大なレコード売上から産業ロックの代表的な例として挙げられることも多い。

音楽的な実権はイギリス人のギタリストのミック・ジョーンズが握っており、アメリカ人のルー・グラムの叙情的なヴォーカルが大きな特徴だった。

結成初期はハードなロック色の強い演奏も見せていたが、後期になるとキーボードを前面に押し出したソフトなサウンドに徐々に変貌を遂げていった。

1970年代後半から1980年代終盤にかけて、ロック音楽市場に巨大な存在感を放ち、多大な成功を収めた。

この曲は、記念すべきデビューアルバム「栄光の旅立ち」からのシングルカットで全米4位、年間(1977年度)31位を記録している。
アメリカ人とイギリス人の衝撃のファーストタイム、ハードロックの決めてます!!