わしやま

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考えるな、感じよ

2010-11-27 22:12:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

Lalo Schifrin「Theme from Enter the Dragon」(燃えよドラゴン)

本日は不滅の男ブルース・リーのお誕生日ということでアップしました。

「おめでとうございます」


ブルース・リーについては、「沢尻エリカはお釈迦様!」にて取り上げる予定ということで、

この曲はいうまでもなく彼の代表作映画「燃えよドラゴン」のテーマ曲。

この曲を作ったラロ・シフリンについて。

本名は、ボリス=クラウディオ・シフリン。

アルゼンチンのブエノス・アイレス生まれ。

父はヴァイオリン奏者。6歳からピアノを習い始め、エンリケ・ダレンボイム(ダニエル・バレンボイムの父)、次いで、アンドレア・カラリスに師事し、アルゼンチンの大学でクラシックを学んだ。

ジャズにも傾倒していたが、1950年代初頭にパリに留学し、パリ国立高等音楽・舞踊学校で、オリヴィエ・メシアン、シャルル・ケクランに師事した。

フランスで、ジャズ・ピアニスト、アレンジャーとしてキャリアを歩み始め、ヴォーグ、エディ・バークレーから何枚かのラテン音楽のレコードを録音した。

1950年代終わりに、アルゼンチンに帰国し、ジャズ・ミュージシャンとして活躍した。同じくアルゼンチン人であるガトー・バルビエリとも共演した。

1958年に、ディジー・ガレスピーに出会い、ガレスピーのために、『Gillespiana Suite』を書き下ろした。

1960年にニューヨークでガレスピーに再会し、ディジー・ガレスピー楽団のピアニスト兼アレンジャーとして参加し頭角を現す。アメリカに移住。ザビア・クガート、クインシー・ジョーンズなどの楽団にも参加、自身のバンドでも活躍した。これらのビッグバンドでの活動では、ジャズのみならず、ラテン、ボサノヴァなどの要素も消化していった。

シフリンは、ヴァーヴに所属していたため、スタン・ゲッツ、カウント・ベイシー、サラ・ヴォーン、ジミー・スミス、ルイス・ボンファ、カル・ジェイダー等の作品に参加した。ヴァーヴが、映画製作会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)の子会社だったために、シフリンは、間もなく、MGMの映画作曲家となった。この頃からシフリンはハリウッドに移り住み、映画やテレビシリーズのために数々の曲を書くことになる。

特に有名なのはテレビドラマ『スパイ大作戦』のテーマで、4分の5拍子を用いてダイナミックなサウンドを創り上げた。また、ブルース・リー主演の映画『燃えよドラゴン』では、シンセサイザーも使用しオリエンタルなアレンジを施した。

映画音楽作曲家、ジャズ・ミュージシャンとしてのキャリアと平行して、クラシック音楽の指揮者、作曲家としても活動し、『Invocations』『Concerto pour contrebasse』『Concertos pour piano Nos. 1 & 2』『Pulsations』『Resonances』といった作品を録音した。ホセ・カレーラス、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティといった、いわゆる「三大テノール」のツアーにも参加している。

1994年、第47回カンヌ国際映画祭で審査員を務めた。これまでにグラミー賞に21度ノミネートされ4度受賞、アカデミー賞は6度ノミネートされている。

現在78歳、映画音楽の創作はもちろん、自身のアルバムも発表し活動している。

そんなサエコ(旧姓ダルビッシュ)と同じ潜在能力の彼ですが、「スパイ大作戦」、「燃えよドラゴン」のほかに、「ダーティーハリー」シリーズ、「ラッシュアワー」シリーズ、「猿の惑星」、「スタスキー&ハッチ」など手がけている。。。

この映画のエピソードとして、

1973年12月に初めて日本公開された時点で、ブルース・リー本人は既に故人となっていた(1973年7月20日死去)とはいえ、不滅の男になった・・・。

ブルース・リーの主演映画は中国語版も英語版も全て声優による吹き替えとなっているが(香港映画では声優が声を吹き替えるのが通常)、本作『燃えよドラゴン』の英語版のセリフは全て本人の肉声である。但し「アチョー」の奇声(怪鳥音)は、本作以外にも『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』で本人の肉声が使われている。

オハラ役のボブ・ウォールは、ブルース・リーのアメリカ時代の友人で、前作『ドラゴンへの道』でリーに誘われて悪役を演じたのが評判となり、続けての映画出演となった。後に『死亡遊戯』にも出演している。

『ドラゴン危機一発』『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』と、ブルース・リーの一連の香港作品で共演しているトニー・リュウが、試合でローパーと対戦する役を演じている。
高僧を演じる(冒頭でリーと哲学を語る)ロイ・チャオは、英語を話せる他に、小型飛行機を操縦もできる。ハンの島を空中から撮影する時に、大きく貢献している。

撮影に参加しているハンの部下のエキストラたちは、辺りにいたチンピラやヤクザを集めて撮影された。おかげで撮影現場は不穏な空気が漂っていたらしい。ハンの愛人のエキストラにも現役の娼婦がいた。

撮影中、上記の中からブルース・リーに勝って名を上げようとする挑戦者が現れたが(共演者ボブ・ウォールの証言)闘志剥き出しのリーに挑戦者は全く成す術が無かったらしい。そのため撮影中に漂っていた不穏な空気は一掃されたという。
リーとその挑戦者の戦いはワーナーのカメラマンによって撮影をされていたのだが、ワーナーではそのフィルムは不要と考え破棄した。

オハラ役のボブ・ウォールが割れたビンでリーに襲いかかるシーンを撮影中、誤ってリーの手首を負傷させるアクシデントが発生した。出血が酷く、撮影現場は一時騒然となり、前述の事件ですっかりリーに心服していたエキストラ達からはウォールを殺せという声が上がるほどだった。結局、この騒動は監督のクローズが「ボブは必要な役者だから」と説得して収拾したとクローズ自身の自伝本で語られている。

リーが地下に侵入する際にコブラを捕まえるシーンでも、リーはコブラを掴むタイミングを誤り腕を噛まれた。幸いにも、コブラから毒は抜かれていたので傷だけで済んだ。

スタジオ・セット等は殆ど現地の中国人スタッフによって作られ、プロデューサーのフレッド・ワイントロープもその技術に脱帽するほどだった。

日本も含め世界的な大ヒットとなったが、地元香港では大スター死去の直後にもかかわらず、前作『ドラゴンへの道』(その時点の最高興行記録)を凌ぐまでには至らなかった。一連の興行成績についてプロデューサーらは「香港や中国の観客は、リーのような細身の田舎者が、日本人や屈強な白人を痛快に叩きのめすような内容の作風を望んでいたから」等と分析している。

ジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウもチョイ役で出演している。特に、冒頭のサモ・ハン・キンポーとの格闘シーンは、全ての撮影が終了した後にリーがセッティング、監督したもの。

日本人では松崎真がスモウレスラー役で出演している。

劇中の戦闘シーンでリラックスしていたり爆笑しているエキストラがいたことがフジテレビ系の番組、「トリビアの泉」で取り上げられたが、同番組から問い合わせが来るまで、映画の制作者側もそのエキストラのことに気づかなかったらしい。

武術指導助手を担当したのはラム・チェンインである。当時弱冠21歳であったが、リーからの信頼と実力を認められての抜擢だった。米国公開版ではノンクレジットだが、香港公開版では、リーと共にその名を連ねている。ラムは、助手の他にも、あらゆる場面でのスタントも担当した。

オープニングのために、少女がバイクでトーナメントの招待状を空港に届けるシーンが撮影されたが、結局使用されず幻となった。しかし、この黄色いジャケットを着てバイクで香港の町を走り抜ける少女は、現在の完成版オープニングの中で2カットほど、見ることができる。

妹スー・リンの死因を語る老人は「リーの父親」と言われているが、劇中では「Old Man」と呼ばれており、親子関係が確認できる場面はない。妹スー・リンについても、実は「姉」ではないか、との説もある。
映写室や墓参りのシーンでブルース・リーが着用しているスーツは菊池武夫デザインのビギメンズ製のものである。(ブルース・リーはビギ香港の上得意の顧客であった


曲の前座としてごらんください。

題して「燃えよドラゴン」(nobuyuki21氏によるYouTube投稿)。

記録場所:苫小牧 沼ノ端スケートセンター
記録日時:2008年8月30日 - 15:00

のんちゃん版。
炎じゃなくて・・コールド・・ブルードラゴン。必殺のアイスブレスは・・エッジから凄­まじい飛沫が・・追い出されそうだから・・使わなかった・・

滑りながらの組手はすばらしいものであります。

本番!あちゃ~


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