これからの時代、ますますグローバル化が進んでいくだろう。これはもう誰にも止められない。TPP問題しかり、ハーグ条約問題しかり、である。「国内の議論」がもはやどうあっても通用しない、そんな時代に入ろうとしている。
経済活動だけでなく、家庭や地域、学校の活動もまたグローバル化の影響を強く受けつつある。離婚の増加、虐待問題や発達障害問題、カリキュラム問題、地域ボランティア、どれも、「海外発」の問題である。
今となっては自明となった児童虐待やもろもろの発達障害もまた、海外発のものであるし、学校教育における新しい言葉もそのほとんどが海外生まれのものである。
さらに、子どもの権利条約やハーグ条約といった国家規模を超えた国際的な価値・思想・ルールが日本にも導入されつつあり、国内の議論ではどうしようもない状況にあり、それに対して何かを言うことのできるエリートもいない。
国際的な枠組みやルールや価値体系を提言できる人は、残念ながら、この国には(ほとんど)いない。明治維新以後、「学者たち」は、海外の学問の輸入業者であり、この国から世界に向けて(経済活動以外で)高度な価値を提言する、ということをほとんどしていない。
「外国に発信する力」
これが、今問われているようにも思う。政府が力を入れようとしている「ジャパニーズポップカルチャー」も、結局のところ、いい戦略が立てられずに、右往左往している。僕はV系フリークということもあって、海外のヴィジュアル系ブームを直視してきた。が、そのブームも、韓国のポップスにとって代わってしまったように思う。事実、そういう証言をドイツで得た。
それなりに日本の文化は海外で評価されていた。けれど、その一番よい状況はもう通り過ぎてしまった。
経済活動としては、日本はかつてからそれなりに優れていた。車や電子機器やゲームなどでは、かなりの成功をおさめた。が、「人間のよりよい生活や人生」、あるいは、「人間の理念」という点で、世界に発信する人はとても少ない。特に、政治的・公共的な意味での理念の提言となると、極めて希少であろう。(国内での影響力をもつ人は存在するが…)
特に子どもの分野において、経済活動以外で、世界に提言を行う知識人は絶望的に少ないようにみえる。子どもをめぐる議論のほとんどが、外国産の借り物である。
グローバル化には二つの軸がある。一つは経済のグローバル化であり、もう一つは価値体系のグローバル化である。日本で話題になるのは、常に前者の経済のグローバル化であり、後者のグローバル化については恐ろしいほどに遅れている。ハーグ条約批准の問題だけではない。子どもの権利条約批准も極めて遅かった。
のみならず、重要なのは、そうした条約の提言を、日本人はほとんど行っていない、という点である。つまり、国際的なルール作りに参加していないのである。後発的に、いわば「後乗り」で、外国で作られた価値体系に便乗している、そう捉えても決して見当違いとはいえないだろう。
日本の教育はこの点こそ反省しなければならないのではないか?
ゆとり教育が崩壊し、新たな教育としてグローバル時代の教育が叫ばれているが、その新しい教育で重要なのは、グローバル化する経済を生き抜く人材の育成という観点以前に、グローバルな価値を認め、それを提言できる力の育成という観点ではないだろうか。(ゆとり教育も、つきつめればそこに向かっていたはずである)
経済界の要請(ニーズ)も決して無視はできない。けれど、日本の教育は、これまでずっと経済界のニーズばかり答えようとしてきた。その反発として、文部科学省発の「ゆとり教育」が生まれたわけだけれど、これも外部の(とりわけ経済界の)批判、すなわち学力低下批判が展開され、ゆとり教育が悪しき教育に成り下がってしまった。
けれど、海外の教育事情、とりわけ先進諸国の教育をながめてみると、ゆとりのある教育がやはり大切にされ、それを守ろうとしている。目先の教育力ではなく、深みのある人間教育を目指そうとしている。
もしかしたら、日本には、深みのある人間が極めて少ないのかもしれない。経済、経済、経済でやってきた日本人が、人間の本質をとらえ損ねているのかもしれない。
もちろん経済活動は、人間が生きる上で欠かせないものである。しかし、人間はパンのみに生きるにあらず。教養や文化や理念をもって生きている(はずである)。
教育は、パンを得るためだけに行うものではないはずだ。教育は、人間のよりよい生活や人生を実現するために行われるべきものであり、私利私欲を満たすためのツールではないはずだ。
英語教育を例に挙げれば、英語を流暢に話して、相手と交渉する力を与える以前に、英語を使って高い理念を訴える力を与えることが先決であろう。
世界では、日本人を尊敬している人も少なくない。でも、多くもない。日本人が世界で尊敬されるためには、日本人が自ら世界で通用する理念やそれを実現する実践を積み重ねなければならない。漫画を例に挙げれば、「どうやって世界の市場で漫画を流通させるか」の前に、世界の人々が共鳴し、自らの人生を振り返り、「生きるとは何か」、「人間とは何か」、「幸せとは何か」、と考えるような優れた作品を生み出す力を与える必要があるのではないか。日本の漫画には、そういう力をもつものが少なくない。漫画をグローバル化する、ということは、日本の優れた作品を著者自身が英語で表現し、それを世界に配信することではないか?!
古い考えかもしれないけれど、やはり漫画というと手塚先生だろう。手塚先生ほど崇高な理念や高い人間性を映し出す漫画が生まれているだろうか。
この点をもっと議論してもらいたい、と願う。
安倍総理。。。
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/actions/201305/22kyoiku.html