先ほど、こんなニュースがネット上で流れてきた。
衆院憲法審査会は31日、緊急事態条項の創設などに関して討議した。自民党の新藤義孝元総務相は「国会が壊滅的被害を受ける最悪の事態に備えるため、内閣が暫定的に立法措置を行う緊急政令の制度について議論する必要がある」と主張。緊急事態の際に人権を制限する是非についても検討すべきだとの認識を示した。
これに対し、立憲民主党の奥野総一郎氏は「多くの国が緊急政令の規定を設けていない」と反論。憲法改正国民投票に関し、外国政府がインターネット交流サイト(SNS)を悪用して干渉する可能性があるとして、その対策について議論を急ぐよう訴えた。
今、日本では、「緊急事態」を煽ろうとする政治家たちが次々に出てきている。
ウクライナとロシアの戦争もあり、世界中がピリピリする中で、日本でも「緊急事態」を取り上げて、国家権力(というか、自民党の権力)をますます強めようとする政治家たちが次々に声をあげ始めている。
そのずっと先には、自民党(中でも保守派)の「憲法改正」への思惑がある。
「緊急事態の際に人権を制限する是非についても検討すべきだ」という意見は、日本国憲法改正の自民党案の中にも見られるもので、この意見の怖さは、今起こっている戦争を考えると、それがどういうことになるか、多くの人に理解されることと思う。
緊急事態条項や緊急時の人権の制限の先には、「権威主義国家」への道が続く。
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日本は、民主主義国家か、それとも権威主義国家か?
表向きは、民主主義国家のマントを纏っているが、その中身はかなり権威主義的だ、というのが僕の見立てである。レービットに倣って、「二階建ての家」と喩えてもいいかもしれない。
一階では、相変わらず東アジア的な伝統的権威主義の部屋に住みながら、二階では、欧米的な自由民主主義の部屋に住んでいる、という感じだろうか。
欧米諸国に対しては、「日本は民主主義国家だ」と言いながら、自国内では、バリバリの権威主義国家として、自民党一党独裁の政治レジームをずっと固守している。たま~~~~に、政権交代が起こるが、その「たまに」以外は、ず~~~っと自民党が権力を掌握している、という状態が続いている。
自民党は、自民党以外のいかなる政党も認めない。一応、政権交代もこの国では形式的には可能だが、ありとあらゆる手法を使って(ありとあらゆる人を投入して)政権奪取を試みる。そのやり方はえげつないほどに、姑息で、陰険で、悪質で、猟奇的である。
かつての民主党政権を担った人たちは、ほぼ全員、「悪役」「狂人」と見なされるような「空気」を徹底的に強めていき、政治の世界から追放するように(裏で)操作していく。菅さんも鳩山さんも、「元総理」という肩書よりも、「頭のおかしな人たち」というイメージ戦略によって、なんの存在感もなくなってしまった。
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この上のニュース記事を読んだ時、その少し前に読んだ『文藝春秋』4月特別号のユヴァル・ノア・ハラリさんの【民主主義VS権威主義】という文章を思い出した。
ハラリさんは、文藝春秋の中で、民主主義と権威主義の対比として、次のように語っている。
民主主義国のリーダーたちは、監視対策を一時的な対策であると言うでしょうが、政治的な権力は国民を監視したがるものです。一時的な対策は、緊急事態が終わっても生き残るという不快な癖があります。『新しい緊急事態が常に隠れている』という口実はいつでも通用するからです。
でも、ここで政府を監視しないと、本当に中国のようなパノプティコン(全展望監視システム)社会に一歩近づきます。ですから、政府を監視できるシステムも同時に整備しておかないと、一方的な権力による監視システムが永久的な対策として定着する恐れがあります。
文藝春秋4月特別号、p.259
ハラリさんの「政治的な権力は国民を監視したがる」という指摘は、是非胸に留めておきたい。
ロシアにせよ、中国にせよ、北朝鮮にせよ、権威主義国家は、国民を監視することをベースにしている。権威主義的な国のリーダーたちは、皆、国民の権利を制限し、国民を監視し、政権にとって都合の悪い人間を弾圧しようとする。恐ろしい国になると、毒殺されたり、収容所に入れられたり、拷問を受けたりする。
日本はまだ、そこまで国民を監視する国ではないし、主権在民や国民主権の重要性をまだ忘れてはいない。
しかし、(日本だけに限らないが)民主主義国のリーダーであっても、そんな「国民を監視したい」という欲望をもつのである。それが、政治的権力の欲望だと言えるだろう。
ハラリさんは、権威主義国に陥らないためにも、「データを少数の機関に集中させないこと」が大事だと訴える。
テクノロジーが気づかれないまま、市民をコントロールすることができるようになると、デジタル独裁主義に至ります。これを防ぐためには、データを一カ所に集中させないこと。これは効率が悪いように見えるかもしれませんが、この非効率さはマイナスよりもプラスになります
同誌、p.260.
日本も、政治家たちによる「情報操作」が日々行われている。
自民党は、どの政党よりもテクノロジーによる市民のコントロールに卓越しており、ありとあらゆる手法で、「ほかの政党より自民党の方がまだマシだよね」という感覚を国民にみごとに与えることに成功し続けている。
ネット(SNSや動画サイト)での戦略も巧みで、純粋でピュアな人ほど、その影響を受けて、自民党権力を擁護する「こま」「傭兵」になっていく。
僕は、このブログで時折、政権批判をするけど、どこかの政党の支持者ではない。いつも常に自民党が権力を握っているから、自民党批判者に見えるだけで、別の政党が権力を握ったら、その政党を批判することになる。
ようは、「権力そのもの」がそれ自体一番恐ろしいんだよ、ということを学んできたということだ。
権力は一人の人間や一部の人間に牛耳られてはならない。権力は常にウォッチされ、権力自体がどこかの誰かに留まることを防ぐよう、僕ら国民・市民が一丸となって努め続けなければならない。
そうでなければ、日本も、たちまち「権威主義国」になってしまうのだ。
エリカ・フランツはこう述べている。
…権威主義体制は世界的な政治風景のあちこちに依然として存在している。くわえて、現在、数において民主主義国は権威主義国を超えてはいるが、もし近年の傾向が続けば、その優位は逆転するだろう。民主主義が、抑圧の少なさや貧困率の削減、内戦や国家間戦争の少なさといった規範的に望ましい結果と相関することを踏まえると、こうした流れは国際共同体の多くの局面に問題を引き起こすことになる。
エリカ・フランツ『権威主義-独裁政治の歴史と変貌』、白水社、2021:15
日本もまた、いつ、どこで「権威主義国」に転落するか、分からないのだ。
常に僕らは、国の統治者や権力者やリーダーたちを厳しい目で見なければ、何かのタイミングで一気に、権威主義国家になり果ててしまうのだ。
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理屈でも、理想でもなんでもない。
僕自身が民主主義国家で生きたいから。国家に監視されたり、国家にコントロールされたり、国家の都合で死にたくないから。自由で平和な社会の中で、静かに楽しく(美味しく)生きていきたいから。
読みたい本が読めて、聴きたい曲が聴けて、言いたいことが言えて、書きたいことが書けて、行きたい場所に行けて、住みたいところに住めて…。そういう国の下で暮らしたいと思うから。
民主主義国であれ、権威主義国であれ、どのみち「権力」や「権威」なんて、有害なものでしかない。それを手にした人には、媚薬や劇薬のようなものかもしれないが、それを欲してない人には、「害」「毒」「麻薬」でしかない。「危険物」でしかない。だから、どの政党の支持もしないし、どの政党も「善きもの」とは思わない。必要悪でしかない。
そんな危険な毒物なのだから、それを扱う人も、「期限付き」であるほうが望ましい。
戦後、おそらく最大レベルの権威主義化の危機だった「アベ政権」も、なんとか彼が辞任してくれたことで、終わりを迎えてくれた。今も、裏でかなりの権力をもっているので、注意しなければならないが…。
彼らは言う。「日本は今、近隣の巨悪の国家に侵略されそうになっている。いつ攻め込まれるか分からない。だから、武装せよ。軍事力を高めろ。自衛隊を軍に変えよ。戦争できる国にするのだ。「平和を!」と叫ぶ人間は非国民だ。ヤツラを潰せ。今すぐ、軍事国家にするのだ。危機は迫っている。時間はない。憲法改正だ。人権制限だ。国民は国家が管理するのだ。国民に自由や権利を与えてはいけない。彼らは国家の恩恵を受けて暮らしているのだ。さあ、今こそ、我が日本のために、日本国のために!!!」、と。
こうした主張が受け入れられれば受け入れられるほど、徐々に、少しずつ「民主主義」が削り取られていき、そして、剥き出しの権威主義国になっていくのだ。
最後に、ナチス時代のヘルマン・ゲーリングの言葉を残しておきたい。
もちろん、人々は戦争を望みません。運がよくてもせいぜい五体満足で帰って来るぐらいしかないのに、戦争に命を賭けたいわけがありません。一般人は戦争を望みません。それはどの国でも同じです。ですが、政策を決めるのはその国の指導者です。それに人々を従わせるのは、どんな政治体制であろうと常に簡単なことです。…国民に向かって、我々は攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては愛国心が欠けているし、国を危険に曝していると非難すれば良いのです。この方法は、どんな国でもうまくいきますよ。
ヒトラーの側近の言葉は重い…。
だいぶ、大きな話になってしまったけれど、、、
でも、今日3月31日の衆院憲法審査会で話されたことについての話だ。
今、まさに僕らの生活にかかわる政治の世界で、「権威主義」に向かう話が議論されているのだ。
日々の生活に忙しい僕らには、「民主主義」だとか「権威主義」だとかと考える余裕はないかもしれない。でも、僕らが政治的に無関心になってしまったら、あれよあれよのうちに、権威主義や軍国主義や独裁主義の国になってしまうのだ。
そうなってしまったら、再び民主主義国に戻すのは死ぬほど難しい。なぜなら、民主主義を掲げる人間はすべて国に弾圧されてしまうからだ。
…
僕はただ、自由に、静かに、穏やかに、平和にラーメンが食べたいだけ…。
この絵本は、とてもオススメです!!!✨