元保育士による児童殺害があった。生後8日の赤ちゃんだった。
保育所に乳児遺棄容疑=勤務先、バケツにセメント詰め-長崎・対馬
生後8日の女児を勤務先の保育所に捨てたとして、長崎県警捜査1課などは18日、死体遺棄容疑で母親の元保育士、勝見久美容疑者(39)=同県対馬市美津島町小船越=を逮捕した。 同課によると、勝見容疑者は遺体をバケツにセメント詰めにしていたといい、「間違いありません」と容疑を認めている。県警は殺人容疑も視野に、女児の死因や動機を詳しく調べる。 逮捕容疑は昨年3月20日正午ごろ、当時勤務していた対馬市内の保育所に生後8日の女児の遺体を捨てた疑い。 同課によると、勝見容疑者は同12日、市内の病院で女児を出産。同20日午前に退院した直後、出生届を出さないまま、保育所の室内に遺体を遺棄した。バケツは段ボール箱の中に入っていたという。(2011/10/18-23:23)
引用元
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011101800960
39歳というと、ほぼ僕と同世代。団塊Jrのお母さんだ。元保育士というのにも驚きを隠せない。さらに、バケツにセメント詰め、、、 もう、本当にリアルな話なのかどうかも、分からなくなるほどに、信じがたいニュースではある。
が、こうやって、新生児をめぐって苦しむ女性はたしかにいる、ということの一つの事例にはなると思う。僕は『緊急下の女性たち(Frauen in not)という概念を、この国に定着させたいと思っているけど、この事件はまさに、そういう女性の存在を露わにしている。
きっと世の人は、男性も女性も、「最低な保育士だ」とか、「ありえない」とか、「くそな女だ」とか、勝見容疑者を責めるだろう。もちろん、その新生児の「父親」が咎められることなく。名前も上がらないほどだから。その「父親」は、想像するに、そばにはいない人間だろう。いたとしても、その父親自体も、仕事がなかったり、何か訳を抱えているのだろう。いずれにしても、この勝見容疑者を、皆、叩くことだろう。そして、この事件も勝見容疑者も忘れ去られていく。当の彼女は、自分がしたことを悔やみ、己を責め、一生十字架を背負うことになる(だろう)。
こうした女性を、行政は助けてはくれない。いや、相談サービスはいろいろあるだろうけど、そういうサービスを受けられない何らかの理由が女性(母)にあったりするのだ。情報を知らないとか、住所が知られたくないとか、親に秘密で出産しているとか、父親(夫)に身元を明かすなと脅されていたりとか。行政サービスは、匿名では受けられない。身元を明らかにできる人だけが受けられる。
きっと、この勝見容疑者は、自分の身元や住所や戸籍を明らかにできない何らかの理由があったのだろう。そして、追い詰められ、我が子を殺害し、そして、セメントで遺体を隠した、と。
この事件でも、やはり僕ら自身が問われているのだ。「どうやったらこうした女性、さらに殺される新生児を救うことができるのか?!」、と。批判するのは楽だ。所詮、他人事だ。だけど、では、こうした女性をどうやったら見つけ出し、どうやって支援し、どうやって子どもの命を守ることができるのか?!
それが、「赤ちゃんポスト」を作ったドイツ人たちの問いだったのである。赤ちゃんポスト、この名が負のイメージをもつなら、Babyklappeでいいだろう。Babyklappeを作ろうとした人たちは、皆、こうした女性をどうしたら救えるのかを考え、議論し、その打開策となるプラン(Findelbaby Projektなど)を立て、実践し、そして、法改正にまで手を広げていった。
だが、日本では、残念ながら、そういう議論も起こらなければ、こうやって現にそういう女性が苦しみの果てに子を殺し、セメント詰めにしているにもかかわらず、それを打開する案やプランを提示しようとする人が少ない。なぜ、こういう事件が日々起こっているのに、誰も何も言わないのか。政治家たちもこういう問題にもっと目を向けるべきなのに、全然議論を起こそうとしない。なぜ、日本では、こういう事件が日々起こるのに、緊急下の女性を救済する必要性を訴えないのか。
そこに、赤ちゃんポスト問題が投げかける日本への問いが隠されているように思う。ドイツには既に90か所以上のBabyklappeがある。だが、日本にはまだ1つしかない。赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)が普及しない理由と、上に挙げた緊急下の女性への支援が叫ばれない理由は、どこかで通じているものがあるはずである。
そこには、日本に根付く深い病理、価値観、先入見が潜んでいるように思う。
そう、「女は黙って、痛みをもって産んだ子どもを育てるべし」、という強烈な病理的価値観である。…
*学生たちに「無痛分娩の方がよい人は?」と聞いたら、9割の学生が手を挙げませんでした。…つまり、そういうことです。
この問題は、僕が大学や短大で話す内容でもあります。この問題は、単純に福祉、教育、心理、法律、宗教、哲学の問題ではなく、日本、世界が直面している大問題の一つだと思っています。
僕らの生活は劇的に豊かになり、物質的に本当に豊かになりました。批判を恐れずに言えば、今の「貧困」は、究極の意味での貧困ではないと思います。先日ブログで紹介した『最暗黒の東京』の中に描かれる「下層社会」の生活は、現存するホームレスの生活よりもはるかに悲惨なものだったと思います(想像しかできませんが)。
しかし、この勝見容疑者のように、古代~中世から続く児童遺棄・児童殺害は今も起こっているのです。そして、昔から変わらず、女性は産みの苦しみを味わい、子育ての問題で追い詰められ、そして、愛する我が子を殺しているのです。つまり、これだけ時代が進化しても、児童遺棄や児童殺害、さらには児童虐待、ネグレクト、児童買春はなくなっていないのです。
子どもを軽視する社会、母親を軽視する社会、妊婦を軽視する社会、そんな社会でいいのでしょうか? 妊婦や母子というのは、僕ら全員が大切にしなければならないものだと思うし、僕ら自身、そうやって大切にされてきたからこそ、今こうやって存在できているんです。これは、全員が「されなければならない権利」だと思います。僕ら生存している人間はすべて、安全な出産によって生まれ、殺されずにきたからこそ、今こうして存在できているんです。もちろん、家族内のことですから、いろんな感情があるとは思います。けれど、何もできない無力な赤ん坊を殺さずに、育ててくれたという事実だけは、僕らみんなに共通しているはずです。
今回の事件を、他人事として見るのではなく、もっとひとりひとり自分にひきつけてみてもらいたいと思います。そうでなければ、ただのゴシップ記事に成り下がってしまいます、、、