20世紀の学校論は、デューイのタイトルを真似るわけではないが、「学校と社会」というのが一つの大きなテーマだった気がする。学校を一つの社会と見立てて、社会の中でどのように生きるか、社会の中で生きていくためのスキルや能力をどのように身につけるか、が20世紀の学校論の中心にあったように思う。「ソーシャルスキル」、「社会的コンピタンス」、「生きる力」、「共に生きる力」、「創造性」、どれも、今の社会(とりわけ資本主義的・民主主義的社会)に必要不可欠な能力であった。
19世紀以前=リベラルアーツ(基礎教養)
20世紀=社会的能力(コミュニケーション能力)
だが、20世紀後半から今世紀にかけて、少しずつ社会の基礎単位である家庭が変容していった。世界的にも、日本国内でも、家庭という基盤が音を立てて崩れていくことをわれわれは経験した。社会の中の膿が少しずつ家庭の中に侵食し、家庭のもともとの機能(親密さ、安心、安全、馴染み、拠点)がなくなっていった。本来持ち合わせていた子育てやしつけの機能も、家庭から消えていった。もはや「核家族」は20世紀の幻想となり、現代社会の象徴ではなくなった。
それと同時に、21世紀を生きる学校は、子育てやしつけ、はたまた親密さや安心や安全といったかつての家庭的機能までも、背負わされることになった。基本的な挨拶、返事、敬語、身だしなみなどなど。社会マナー以前の人間としての基本的振る舞いさえもが学校で教えなければならなくなった。細分化された高度産業社会を生きる父母は、豊かな生活を維持するために、ほぼ共働きとなり、家庭は子どもにとっての一番の居場所ではなくなった。高度文明社会=高学歴社会だ。子どもたちは小さい頃から家庭の外で「戦わなければ」ならなくなった。
学力低下論争を受けて、学校は基礎学力の向上、社会能力の向上、さらには基本的な愛着関係にまで責任をもたなければならなくなったのだ。
家庭でのびのびと育つ子どもはよいが、今の子どもの多くが家庭でのびのびしていない。今の家庭を考えれば、産業社会に飲み込まれた親たちはいつもピリピリし、殺気立っている。さらに父母の不和や別居や離婚、精神病、DV、虐待・・・ いつどの家庭で家族間の不和や不協和音が生じるかなんて、もはや測定できないところまできている。経済的な不安定さはさらに加速度を増し、失業、リストラ、ワーキングプア、母子家庭の貧困など、親子関係を悪化させる要因は無数にあり余るほどに存在する。
当然、教師たちは激務になっていく。授業をし、部活をし、学級新聞を書き、そこそこの会議に出ていれば、それで済む時代ではなくなった。学力向上を目指しつつ、そこに家庭的な温かさや親密さを作らねばならない。さらには、個々の子どもの心情に目をむけ、配慮せねばならない。当然、高学歴化する親たちの「注文」、「要求」、「願望」にも配慮しなければならない。学問の伝達と家庭的な指導、しつけ、さらには、愛着関係にまで手を広げなければならなくなった。しかも、一人で何十人もの子どもたちの相手を毎日するのだ。一人や二人の子どもでさえ、育児ノイローゼになってしまうこのご時勢に、あらゆる要求を一人で背負わなければならない教師が、まともにすべてのクラスの子どもを受け容れきれるだろうか。教師が疲れ果て、精神を病むのも極めて当然のことかもしれない。
今後の学校論は、「学校と社会」ではなく、「学校と家庭」という関係性が問題となっていくことだろう。当然、社会か家庭かという単純な二項対立ではない。家庭~学校~社会という三つの要素が複雑に絡み合っていくのが、21世紀型の学校の姿であろう。家庭の崩壊と社会の停滞の中で、学校がどのようにこの両者をつなぐのか。これで学校までもが倒れてしまったら、子どもの未来はどうなってしまうのか?
学校をただ批判する時代は終わった。脱学校論の時代でもない。学校がなければ、子どもはどこへ行くのか? 図書館で教育ができるとは思えない。学力は上るかもしれないが、基本的な愛着関係は図書館では結べない。社会のどこにも子どもたちが安心していられる空間は学校以外にはないのだ。学校以外の場所(あるいは学童保育以外の場所)で、人と人がつながることも難しい。学校という空間だからこそ、クラスという単位があるからこそ、子どもたちはそこで生活し、学ぶことができるのだ。だが、そのクラスという単位が今の時代には大きすぎる。家庭が少人数化されるのと同じように、クラスも少人数化されていかなければならない。もしかしたら未来の学校は、男先生と女先生のツートップ制になるかもしれない。いずれにしても、失われた本来の家庭的機能が学校に取り込まれなければならない時代になったのだ。母子家庭の男の子や父子家庭の女の子は、いわゆる同性のひな形を学校の担任の先生を通して作っていくしかないのである。
学校と家庭という難しい問題は、今やもっと議論されなければならない段階に来ている。基本的な信頼関係(愛着関係)のないところで、学力だけを伸ばしても、その後に必ず悲劇が訪れる。知的に優秀な家庭の子どもが人間的に優秀であることの根拠にはならない。もちろん高度知的社会を生きなければならないので、ますます学ぶべき事柄は増大していく。従来のリベラルアーツ(教養)をしっかりと子どもたちに伝授しつつ、批判能力や推論能力を鍛えつつ、さらに、コミュニケーション能力やソーシャルスキルを磨きつつ、その上さらに、人間が人間として生きる基本的な愛着関係をも学校で築いていかなければならないのだ。そういう時代に入ったのだ。
だが、今の現状の学校論は、あいも変わらず従来の教育論の延長線上にしかない。いじめ、暴力、不登校、学力低下、コミュニケーション能力、脱学校論、公共性、市民性・・・ そういった「家庭」という視点を取り入れてこなかった20世紀的な視点はもはや闇に葬るべきときに来ているのではないか?
そうではなく、家庭と社会をつなぐメディアとしての学校の積極的意味、積極的課題を示す時期にきているのではないか? 特に公共空間としての学校論はもはや聞き飽きたのみならず、単なる理想論に成り下がった。公共空間は、私的空間がしっかりと満たされて初めて成り立つ考え方である。最初から人間は公共的存在ではない。最初にあるのは、親密な私的空間だ。それが崩壊しつつあるところで、公共性を訴えることにどんな意味があるのか?
親密性と公共性の間こそが、今の学校論のスタート地点であるはずだ。公共性へと向かっていくことには間違いはない。学校はこれからも公共性を目指す場所だ。が、親密性が十分に保障されて初めて、公共性は「学校が向かうべき場所」となるのだ。
いじめが起こるのは、当然学校が主だが、家庭の中でも、社会の中でも起こっていることだ。いじめが減らないのは、何も学校だけではなく、どこででも減ってはいない。それは、いじめが悪いのではなく、いじめを起こすほどのストレスやプレッシャーやいらだちを家庭や学校や社会が引き起こすからである。僕の持論だけど、「いじめられることは誰にでも起こりうるが、いじめることは誰かに限られる」のだ。いじめる人間は、やはり他のどこかでいじめられているのだ。他で(例えば家庭で)いじめられているからこそ、そのことを学校でやってしまうのだ。いじめられる側には原因はないが、いじめる側にはそれなりの理由が必ずあるものだ。(それは教師いじめや学級崩壊についても当てはまる)
これからの学校論には、どうしても家庭的視点が必要になってくるだろう。あるいは、家庭という視点から学校について論じていかなければならなくなるだろう。学校における家庭的な時間の設置も必要だ。産業社会的には運動会の方がよいかもしれないが、今の子どもたちにはまずはピクニックが大事なのだ。修学旅行の前に、散歩や散策が必要なのだ。100点を取る喜びの前に、新しい何かができた喜びをみんなで分かち合う経験が必要なのだ。黙って教師の言うことを従う前に、教師に誉められ、教師に自分のことを語り、ただただ共感されることが必要なのだ。
もちろんこうした任務を背負わされるのは、社会が家庭からそうした任務を剥ぎ取ってきたことに起因する。あるいは、親がその任務を放棄したことに由来する。親に認められない代わりに、子どもは教師に認められようと必死になる。だが、学校で自分が認められるためにはよい点数を取らなければならない。あるいは、美化活動や委員会活動に必死に「よい子」を演じて頑張らなければならない。でも、そんなことをしても、結果的には誰も信じられない猜疑心まみれの人間になってしまうだけである。そうではなく、些細なことでもいい、ちょっとしたことでもいい、子どもが自らすすんでやったことをきちんと認め、誉めることが最も大切なのだ。それは小学生だけに限らない。中学生も、高校生も、大学生もみんなそれを望んでいるのだ。
人間は認められて初めて、そこに居場所感を見出すものだ。すべての人間は認められることや愛されることを欲している。それが満たされて初めて、他のものを認め、愛することができるのである。本来であれば、家庭が、子どもを認め、愛すべきであった。だが、現実のこの世界では、家庭でそうした人間として大切な営みが完全に放棄されている。とするならば、その大切な営みは学校で保障されなければならない。それは学力以上に重要なことだ。
よい社会人がよい教師であるわけではない。今の時代では、むしろよい家庭人こそがよい教師なのである。もちろん知的財産をきちんと伝達していく任務は放棄されてはならない。だが、それ以前に、子ども一人ひとりが大切にされ、認められ、愛される場所にすることが最大の学校の任務なのである。
(と、ちょっと自分の思想を入れながら語ってみました)