Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「格差社会批判」の落とし穴

このブログでは一応「現代思想」というカテゴリーもありまして、生の「生きた現代思想」を言葉にできたらいいなぁとは思ってます。

で、「現代思想」。まさに今、自分が生きている只中にあるのが「生きた現代思想」なわけで、現に今起こっている議論が「現代思想」ってことになる。

最近の思想系の本や雑誌や論文を見ると、そこに常に「格差社会」という言葉が登場している。「勝ち組」、「負け組」という言葉も聞き飽きるくらいに耳にする。だいたいの論調は、「これまで存在しなかった格差が日本で生まれ、広がっている」ということの根拠付けか、そういうアジテーションばかりだ。(もちろん、そういう議論が生まれる所以が分からないわけではないが)

この手の話題に関するどんな文章を読んでも、僕の中では、「格差」とは何を言っているのかがよく分からない。ただ、なんとなくのイメージはある。広く見れば、職場や所得の上での格差である。95年以降、フリーター世代以後に生じた格差である。それに便乗して「恋愛格差」とか、「家族格差」や、「世代間格差」なんかも取り上げられているが、そのほとんどが「所得格差」であろう。あらゆる学問がこの「所得格差」を取り上げ、それを非難する声が叫ばれる。

教育の中でも、「格差」は大きな話題だ。再生産産業である教育においても、親の収入によって、生まれながらにして、自分(子ども)の意志とは関係なく、学歴が規定される、と。東大進学者の○○%が、所得の高い層の家庭出身だとか、ワーキングプアの若者の●●%が、所得の低い家庭出身だとか、そういうデータをもちだしては、「(悪しき新自由主義的教育によって)格差が広がっている!」、声高々に主張している。

この「格差社会」は、現代思想の中心的役割を果たしている、と言えそうだ。

とはいえ、「ヒエラルキー問題」はかつてより常に話題になっているし、「権力構造」の話題は常に起こっていることだ。搾取する側、搾取される側の対立は今に始まったことではない。けれど、現在は、かつてないほど、「格差社会」という言葉が表立って叫ばれているように思う。「格差社会が生まれている!格差が広がっている!」、と。

だが、本当にそうなのか?!

これが僕の疑問だ。有史以来、格差のない社会なんてなかったし、封建時代のような異常ともいえる超格差を考えれば、いつの時代にも格差はあった。ただ、それが見えるか見えないかの違いでしかないのではないか。本当に、格差は「広がっている」のだろうか。

東京の山手線内の住宅地を歩けば、恐ろしいほどの大屋敷が立ち並ぶのを目にする。いわゆる「超金持ち屋敷」は、都内にはゴロゴロと存在するし、青山や表参道を歩けば、とんでもない金持ちのバブリーな生活も見ることができる。ドラえもんのストーリーを見ても、ごく平凡な家庭ののび太と、少し貧しいジャイアン、そしてお金持ちのおぼっちゃんのスネオ、明らかに格差が見て取れる。

こうした風景を眺めていると、格差の存在は、今に始まったことじゃない。ずっとそうだったのではないか。ただ、戦後復興や稀有な高度経済成長など「平等主義」が幻想として共有できる状況にあって、格差という事実がただ隠れているだけだった、と思うのだ。

労働環境にしても、団塊世代の時代の「金の卵」を想像すれば、いつの時代にも「低賃金労働者」ってたくさん存在したし、今と変わらず(いや、今以上に)「単純労働」で生計を立てていた人もたくさんいた。今以上に貧しい生活や苦しい生活を送っている人もたくさんいた。故郷を離れ、異常ともいえるほどに巨大な団地に住み、食べるものも限られ、慎ましい生活を送っていた人は、今以上に多かったのではないか。車、TV、レンジ、さらにはPCだってほとんどの人がもっていなかった。

貧しさのレベルで言えば、今以上に「格差」があったのではないか。ただ、それが問題にならなかっただけで。

このことから、僕が疑問に思うのは、「なぜ世論はここまでして『格差』を問題視するのか」、ということだ。貧困の問題を考えると、今の日本では、稀で特異なケースを除いて、餓死や戦死はほとんどない(ゼロとは言わない)。しかも、小泉~安部時代の「構造改革」や世界的な経済危機を経て、非正規雇用の増加が現に生じているとしても、正規雇用が全くないわけではない。例えば介護施設系では常に人材が足りない状態にあるし、若者に限って言えば、それなりにまだ正規雇用のチャンスはあるはずだし、起業、開業のチャンスもある。会社設立の基準だって、かつてよりはゆるくなっているみたいだし、資本主義の理念や精神もまだ壊れてはいない(つまり、誰でも起業できるし、やろうと思えば、リスクはあるものの、いくらでも「将来の大企業」の礎を築くことができる。

この格差論で一番問題なのは、「格差社会の暴露」ではなく、「格差社会という負のイメージの刷り込み」なのではないか。「もう何をやってもダメだ」という諦めや、「どうせ何も変わらない」という絶望の方が問題なのではないか。格差社会の問題を指摘する人は、それを指摘することで、直接的・間接的に、ますます若者から「若いパワー」を吸い取っているのではないか。

かつての若者世代と今の若者世代で決定的に違うのは、若者が置かれている状況というよりもむしろ、社会の中で生きる若者のあり方ではないだろうか。状況自体はいつでも歴然と差はあるし、かつてはある程度以上の金持ちしか高等教育を受けられなかった。今のほうがよほど「高学歴」であるし、「モラトリアム期間」も延びているし、楽しいことや面白いことも満ち溢れている。PCだけで、世界と通信することもできるし、PCだけで、あらゆる情報を誰もがキャッチすることができる。

それだけ色んななことができる時代なのに、みんな何もできない、というのはどういうことなのだろうか。何が、若者の意欲や生きるパワーを奪っているのか。それを考えなければ、その先はないし、来たる高齢化社会・低成長化時代を生き抜くことはできない。納税義務を果たさない、果たせない若者が増えることは、社会の危機にもつながる。

未来の見えない現代社会で、どうやって未来を若者に見せるか。

僕は、「格差社会批判」では、若者に未来を見せることはできないと思う。

☆「『若者奴隷』時代」の前半を読んで☆ 
*この記事は↑の本を批判しているわけではありません
インプレッションを記しただけです*

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