Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

うつぐみの島へ-文化と民主主義が根ざす人口約350人の小さな世界

 

竹富島に行ってきました。

きっかけは「教科書問題」でした。沖縄県の八重山諸島の教科書採択を巡る問題が、全国で話題となりました。このニュースを聴いた時に、「八重山地区」がどこなのか、いったい何が問題なのか、(恥ずかしながら)全く分かりませんでした。「沖縄」が、様々な観点から、「教育」の舞台となっていることは知っていましたが、それ以上のことは何も知りませんでしたし、知ろうとしていませんでした。

僕は、論文や本の中で、「アウシュヴィッツ以後の教育」について書いています。それはそれで大切なことなのですが、日本人がいくら異国の教育を述べても、そこに(ある意味での)「魂」が入り込みません。日本人である自分が、この問題(二度と戦争を繰り返さないための教育)を語る時に、自国の問題を無視して、異国の戦争教育(あるいは平和教育)を述べても、説得力はありません。「アウシュヴィッツ以後の教育を語る上でも、日本の戦争問題についてもきちんと理解しておく必要がある」、と思いました。そうでなければ、日本人である自分自身が、本当の意味で、この問題の「当事者」にはなれない、と痛感しました。日本の「反戦教育」「平和教育」の最前線は、間違いなく「沖縄」にあるわけです。

まず、竹富島(そして石垣島)に行って、僕は、ボコボコに殴られたような気持ちになって帰ってきました。「いったい自分は何を勉強してきたのか」、と、痛烈に反省しました。毎年のように、沖縄から「平和宣言」が発せられているにもかかわらず、そのことを深刻に受け止めず、「へー、そうなんだ?!」、というくらいにしか受け止めてきませんでした。米軍基地の問題にしても、正直、恥ずかしながら、「大変だ…」というくらいにしか受け止めておらず、「我が国の問題」、あるいは「戦後から続く根深い問題」と我が事として認識していませんでした。

しかも、話題になっている「竹富町」という区域には、人口わずか350人ほどの小さな島である竹富島だけでなく、西表島、小浜島、黒島、波照間島、鳩間島、新城島、由布島の有人島と、その周囲にある中御神島、さらには尖閣諸島といった無人島も含まれているのです。現地の人にも、「竹富町というのは、竹富島だけではないですよ」、と何度も指摘されました。尖閣諸島は、竹富町の一部である、そんなことさえしっかりと認識していませんでした。

僕の疑問は、ただ一つ、「なぜ、(言い方はとても悪いですが)辺境の地であるこの竹富が、国を相手に戦うのか?」、ということでした。どんどん日本全土が保守的な色合いを強めていく中で、どうしてこのエリアの人々は、それでも戦おうとするのか。そのことを知りたいと強く思ったのです。

竹富島に降り立って、実際に竹富の人たちと話をしたり、その暮らしに(若干なりにも)触れたりする中で、「この島は、歴史と文化と民主主義を徹底的に大切にする凄い島なんだ」、ということを知りました。この島には、「竹富島憲章」なるものが存在しています。


 われわれが、祖先から受け継いだ、まれにみるすぐれた伝統文化と美しい自然環境は、国の重要無形民俗文化財として、また国立公園として、島民のみならずわが国にとってもかけがえのない貴重な財産となっている。
 全国各地ですぐれた文化財の保存と、自然環境の保護について、その必要性が叫ばれながらも発展のための開発という名目に、ともすれば押されそうなこともまた事実である。
 われわれ竹富人は、無節操な開発、破壊が人の心までをも蹂躙することを憂い、これを防止してきたが、美しい島、誇るべきふるさとを活力あるものとして後世へと引き継いでいくためにも、あらためて「かしくさや うつぐみどぅ まさる」の心で島を生かす方策を講じなければならない。
われわれは今後とも竹富島の文化と自然を守り、住民のために生かすべく、ここに竹富島住民の総意に基づきこの憲章を制定する。

一、保全優先の基本理念
竹富島を生かす島づくりは、すぐれた文化と美しさの保全がすべてに優先されることを基本理念として、次の原則を守る。
1、『売らない』 島の土地や家などを島外者に売ったり無秩序に貸したりしない。
2、『汚さない』 海や浜辺、集落等島全体を汚さない。また汚させない。
3、『乱さない』 集落内、道路、海岸等の美観を、広告、看板、その他のもので乱さない。また、島の風紀を乱させない。
4、『壊さない』 由緒ある家や集落景観、美しい自然を壊さない。また壊させない。
5、『生かす』 伝統的祭事行事を、島民の精神的支柱として、民俗芸能、地場産業を生かし、島の振興を図る。

二、美しい島を守る
竹富島が美しいといわれるのは、古い沖縄の集落景観を最も良くのこし、美しい海に囲まれているからである。これを保つために次のことを守り、守らせる。
1、建物の新・改・増築、修繕は、伝統的な様式を踏襲し、屋根は赤瓦を使用する。 2
2、屋敷囲いは、サンゴ石灰岩による従来の野面積みとする。
3、道路、各家庭には、年二回海砂を散布する。
4、看板、広告、ポスター等は、所定の場所に掲示する。
5、ゴミ処理を区分けして利用と回収を図る。金属粗大ゴミは業者回収を行う。
6、家庭下水は、処理して排水する。
7、樹木は、伐採せず植栽に努める。
8、交通安全、道路維持のために、車両制限を設ける。
9、海岸、道路などゴミ、空きカン、吸殻などを捨てさせない。
10、空き家、空き屋敷の所有者は、地元で管理人を指定し、清掃及び活用を図る。
11、観光客のキャンプ、野宿は禁止する。
12、草花、蝶、魚貝、その他の生物をむやみに採取することを禁止する。

三、秩序ある島を守る
竹富島が、本土や本島にない魅力があるのは、その静けさ、秩序のとれた落ち着き、善良な風俗が保たれているためである。これを保つために次のことを守り、守らせる。
1、島内の静けさを保つために、物売り、宣伝、車両等の騒音を禁止する。
2、集落内で水着、裸身は禁止する。
3、標識、案内板等は必要に応じて設ける。
4、集落内において車輌は、常に安全を確認しながら徐行する。
5、島内の清掃に努め、関係機関による保健衛生、防火訓練を受ける。
6、水、電気資源等の消費は最小限に留める。
7、映画、テレビ、その他マスコミの取材は調整委員会へ届け出る。
8、自主的な防犯態勢を確立する。

四、観光関連業者の心得
竹富島のすぐれた美しさ、人情の豊かさをより良く印象づけるのに旅館、民宿、飲食店等、また施設、土産品店、運送業など観光関連業従事者の規律ある接遇は大きな影響がある。観光業もまた島の振興に大きく寄与するので、従事者は次のことを心得る。
1、島の歴史、文化を理解し接遇することで、来島者の印象を高める。
2、客引き、リベート等の商行為は行わない。
3、運送は、安全第一、時間厳守する。
4、民宿の宿泊は、良好なサービスが行える範囲とする。
5、屋号は、規格のものを使い、指定場所に表示する。
6、マージャン等賭け事はさせない。
7、飲食物は、できるだけ島産物を使用し、心づくしの工夫をする。
8、消灯は、23時とする。 3
9、土産品等は、島産品を優先する。
10、来島者に本憲章を理解してもらい、協力を徹底させる。

五、島を生かすために
竹富島のすぐれた良さを生かしながら、住民の生活を豊かにするために、牧畜、養殖漁業、養蚕、薬草、染織原材料など一次産業の振興に力を入れ、祖先から受け継いだ伝統工芸を生かし、祭事行事、芸能を守っていく。
1、伝統的祭事、行事には、積極的に参加する。
2、工芸に必要な諸原料の栽培育成を促進し、原則として島内産物で製作する。
3、創意工夫をこらし、技術後継者の養成に努める。
4、製作、遊び、行事などを通して子ども達に島の心を伝えていく。



この憲章を円滑に履行するために、公民館内に集落景観保存調整委員会を設け、町、県、国に対しても必要な措置を要請する。

昭和 61 年 3 月 31 日

http://www.mlit.go.jp/common/000138911.pdf 

参考→http://www.tdon.net/tdon/master/my-home.html


これを読んだ時、もう、僕は鳥肌が立つばかりでした。僕の感覚では、もうとにかく「強烈」でした。

この文章を読んだ時に、「片手に論語、片手にそろばん」という言葉が浮かびました。日本列島の多くのエリアで、論語を捨てて、そろばんだけに目を奪われ、環境も人的資源も独自の文化も破壊されていきました。そろばんだけに目がくらめば、長年培ってきた文化はたやすく壊され、外部からの資金が流れ込み、そして、富める者が生まれ、貧しい者が生まれます。日本全土で、土着的な文化が壊され、貧富の差が生まれました。

けれど、竹富島は論語を捨てませんでした。それが上の五つの「基本理念」に示されています。この島に降り立った人なら分かると思いますが、この島には「哲学」があります。生きた「思想」があります。ゆえに、島の人々が決めたルールに従わない者には、徹底的に厳しく対応します。(事実、ルールを守らない外部の業者もおり、その業者に対する攻撃は凄まじいです)

「竹富島では島にとって大事なことは公民館議会で決定し、最終的には公民館総会(住民総会)で決定する、そしてその結果を受けて公民館役員が執行するというシステムを取っています」(竹富島公民館長さんの言葉)。

一見、穏やかで、のんびりしていて、地上の楽園さながらの島ですが、そこには、自分たちの島を絶対に守るという決意と意志がありました。この島の人々にとっては、尖閣諸島を守ることよりも、自分たちを守ることで精一杯なのかもしれない、とも思いました。ネットで色々検索すると、竹富町を痛烈にバッシングするサイトもあります。「なぜ自分たちの町の一部である尖閣諸島が外国に狙われているのに、リベラル(?!)な教科書を使うのか!?」、と。けれど、この島の人々にとっては、外国の脅威よりも、論語なきそろばんまみれの「ナイチャー」「ヤマトンチュ」の脅威の方を恐れているようにも思えます。想像してみてください。自分たちの島が、常に巨大な産業組織に狙われている中で、しかも、外部に依存することなく、過疎化を防ぎ、かつ観光地としての価値も保たなければならない、という窮地を。

かつては2000人以上がこの島で生活していたそうです(戦後、台湾からの引き上げ等により)。しかし、その後、人口は200人くらいにまで落ちたそうです。その後、観光の成功(?)によって、人口は350人ほどまでに回復しました。僕が行ったカフェの店員さん(その家の娘さん)も、一度は島を離れて生活していたそうですが、戻ってきた、と言っていました。住民が島に戻ってくる、それがどれだけ大変なことか。日本全国に、「過疎地」が次々と生まれています。若者たちは、一度故郷を離れたら、もう戻ってきません。そんな中で、竹富島は、住民が戻ってくる島になりつつあるのです。

現在、竹富小中学校には、中学生が10人、小学生が27人いるそうです。そして、竹富保育園には、19人の子どもが在籍しているそうです。350人の住民のうちの56人が「子ども」なんですね(計算上)。小中学校も保育園も島の真ん中に位置しています。とても立派な学校でした。

島の中学2年生の女の子とお話できました。お店の仕事を手伝っていました(手伝うといっても、妹さんと遊びながらのお手伝いでした)。教科書問題について聴いてみると、「よくわからないです」と言っていました。が、僕が、「あれ、中学の教科書だっけ、高校の教科書だっけ?」、と困っていると、「中学の教科書ですよ」、と即座に答えてくれた。…つまり、自分たちの教科書が問題になっている、ということは知っているようでした。ちなみに妹さん(5歳くらい)は、スマホのゲームに夢中でした(苦笑)。


竹富小中学校

この島は、かつての伝統的な風土を取り入れながらも、近代化されている部分も多くあります。町には車がほとんど走っていませんが、至る所に自動販売機が設置されています。看板や広告などはありませんが、冷房装置はしっかり完備されています(とはいえ、島に暮らす人々の家では、どこも窓を開けており、冷房を必要としているのは観光客だけみたいですが)。論語を捨てず、かつそろばんも捨てない、とはまさにこのことでしょう。論語だけではやはり生きていけない。島は衰退する。けれど、そろばん勘定に走れば、町のよさは破壊され、貧富の差が生まれ、ナイチャーたちの餌食になります。

竹富島は、僕の目からすると、ものすごい緊張感に包まれていました。あるいは、「絶妙なバランス」、しかも油断するとガラガラと崩れてしまいそうなバランスの上に成り立っているように見えました。

もちろん、「観光地」としては、もうこの上ない島だと思います。行った人は必ず戻ってくる、というほどに。コンドイ浜(コンドイビーチ)は、浅瀬がずっと延々と続きます。カイジ浜には、星砂が無数に見られます。集落の町並みは、「ここは異国?」と思うほどに、異国情緒に溢れています。観光客は1年を通して、途切れることなくやってきます。観光客は皆、レンタサイクルで自転車に乗って移動します。コンビニこそないものの、商店やショップやレストランやカフェはたくさんあります。灼熱の南国ですが、「快適」です。

ゆえに、ナイチャーにとっては、とてもビジネス的に「おいしい」んです。だから、常に狙われている。現在のこの観光地としての魅力を損なわず、かつ外部資本を極力排除する、そんな努力を、観光客の見えないところで続けている、そんな風に見えました。

また、(新石垣島空港完成に伴う)観光客の増加により、島内の静けさや安全も徐々に崩されそうになっているそうです。僕が自転車を借りたレンタサイクルの人が言っていました。「今はやっていませんが、かつてはバイクも貸し出していました。やんちゃな子たちにバイクを貸すと、暴走族化して、大変だったので、バイクレンタルは禁止となってしまったんです」、と。今は、暴走行為を行う若者はいないそうですが、確実に観光客数は増えています。心ない観光客も決して少なくないことでしょう。

竹富島は、日本の中の辺境の地であり、350人程度の人の暮らす小さな小さな島の一つです。まさに、日本の「少数派」とも言えるでしょう。竹富町全体としても、数千人程度です。そんな小さなマイノリティー社会を相手に、国が圧力をかける、というのは、いったいどういうことなんだろう、と思わざるを得ません。もちろん法治国家ですから、法を軽視することはできません。けれど、この島の人たちの声をきちんと聴くこともまた、民主主義社会の鉄則です。この島の自治はしっかりと機能していました。論語とそろばんをうまく使いこなしていました。日本の中央よりもよっぽど民主的だったと思います。

知っている人がどれほどいるのか分かりませんが、沖縄県には、独自の「歴史教科書」(副読本的なもの)があります。日本の教科書ではなく、沖縄の教科書。沖縄には、沖縄の歴史と文化があります。もし日本が寛容な国であるなら、この沖縄の教科書こそ、使うように配慮するべきなのでは、とさえ思えます。もちろん「安全保障」としては、日本国がこのエリアを守るべきです。しかし、この島やこのエリアの文化や歴史も同時に守るべきでしょう。そういう精神が、今回の一連の歴史教科書論争からは全く見えてきませんでした。

沖縄は、戦争で最も悲惨な被害を受けた戦地でもありました。日本の中央政府は、沖縄を、我が国としては捉えず、軍事的に重要な拠点(そしてその拠点に住むモノとしての人間)としか思っていませんでした。こちらの現地の言葉を使う人は罰せられました。文化も否定しました。「当時の政府は、沖縄の人をヒトとは見ず、モノとしてしか見ていなかった」、という発言もありました。沖縄の4人に1人が戦争の犠牲者となりました。

ドイツが生んだ悲劇がアウシュヴィッツであるなら、日本が生んだ悲劇はオキナワだったのかもしれません。もちろん全然異なる現象ではあります。が、敵国ではなく、自国の中の「少数派」として、常に「迫害」され、「差別」され、「侮蔑」されてきた存在としては、重なり合う部分があります。そして、どちらも、「目をそむけよう」という無意識の抵抗があります。(ヒロシマは、ドイツではドレスデンとなるはずです)

オキナワと赤ちゃんポスト。日本人である僕が、ドイツの文脈で赤ちゃんポストを語る際に、この両者をつなげて考えることは無謀なことなのか。それとも、論理的な関連は見つかるのか。…「二度とオキナワの悲劇を繰り返さない教育」、それこそが、もしかしたら僕が求めている教育学なのかもしれないな、と思っています。

  


最後に。

竹富小中学校のすぐわきを通る道に、一人の高齢のおばあさんがいました。話しかけてみました。たわいもない話を少しした後、僕は、おばあさんに、「こちらの島で生まれたのですか?」と聞くと、「いいや、石垣島で生まれたんよ」、と答えてくれました。「何歳くらいの時に、こちらに移り住んだんですか?」と、尋ねると、しばらく沈黙したのち、「…そんなんには、関心がないのよ。よう、分からないわ。ごめんね。そんなこと考えてないの」、と話してくれました。

「関心がない」という言葉がやけに印象的でした。

この島に住んでいる人たちとの「隔たり」を感じた瞬間でもありました。同じ日本人かもしれませんが、おばあさんの存在はどこまでも遠く、近づき難いものがありました。

…ゆえに、ますますこの島について知りたいと思うようになりました。いったいこの島で何が起こっているのか。どんな哲学や思想があるのか。この島の住民は、教育をどう考えているのか。…

夏にドイツに行く前に、どうしてもこの竹富島に行っておきたい、という願いは実現しました。が、「謎」ばかりが残る旅でもありました。でも、それでいいんです。今回は、プレ・リサーチみたいなものですので。僕の研究欲はますます大きなものになりました。39歳にして初めての沖縄。それは、自分のこれからの生き方さえも変えてしまいそうな体験となりました。

もっともっと勉強しないと、という気持ちにもなりました。


美しすぎるビーチ。でも、その背後には色んなせめぎ合いがあるんです。

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