Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

ヘルマン・グマイナーとペスタロッチ-児童救済と教育学の連関は?-

これまでに2度、SOS子どもの村(ウィーンとイムスト)に訪れて、見えてきたこと、そして、知りたいことがはっきりとしてきた。僕の研究関心から言うと、SOS子どもの村の創始者ヘルマン・グマイナーと、彼が最もよく学んだペスタロッチの関連が最も知りたいことになってきた。それから、両者共に共通することだと思うが、児童救済と教育学の連関が、どうしても見えてこない。だから、もっと知りたいと思うに至った。それから、この両者は、「Liebe(愛)」をことさら主張する教育学的実践者であった。

児童救済と教育学は、赤ちゃんポストを設置したSterniParkの問題関心ともつながる。赤ちゃんポストは、一応母子救済をねらっているものだが、それでも児童救済という目標が第一目標ではある。けれど、しっくりこないのは、どうして教育学がこうした児童救済と関連するのか、ということだ。教育学は、(ざっと見る限り)児童救済をそれほど問題にはしていない。障害児教育やフリースクール運動といった動きは教育学内部で語ることができるが、児童救済は、社会福祉・児童福祉の問題であり、教育学とは無関係のように思うし、事実、教育学内部に、児童救済の問題を解く手がかりは見出せない。日本の教育学では特に、見出せないと思う。

ペスタロッチについては、それなりに読んではきたけど、やはりこの部分は(僕には)分かっていない。児童救済(ペスタロッチでいえば、ノイホーフの実践等)と、教育学(特にドイツ教育学)がどのようにつながっているのか。これをきちんと理解しないことには、僕の研究は前に進まない。なので、ここで、とりあえずその糸口を探してみたい。


ペスタロッチが教育学?に関心を抱き始めたのは、1772年頃だと思われる。当時、26歳くらいか。教育学というよりは、ルソーの『エミール』の示唆を受けている。その影響から、1774年にノイホーフで「貧民教育事業」をしよう、と決意したとされている(皇至道、1962)。ペスタロッチについて理解するのはとても大変なので、とりあえずこの皇(すめらぎ)さんの書物に従って、まとめておこうとおもう(自分のためね…汗)。

周知の通り、ペスタロッチはこの「ノイホーフ貧民労働学校」を失敗して終えている。80人以上も集まった学校だったが、うまくいかなかった。嘲笑と失敗だけだったそうだ。ペスタロッチは「学校を作った人」であり、「貧児の教育」を行った人だった。皇によれば、この貧児には両親がいたそうだ。いったいどんな子どもをどうやって集めたのか。グマイナーは、両親共にいない子どもを集めて、彼らに家と母親を与えた。が、ペスタロッチは、その始まりにおいては、家庭や愛情を与えようとは(まだ)考えていなかったように思われる。

児童救済・児童保護というテーマは、『隠者の夕暮』、『リーンハルトとゲルトルート』、『スイス週報』に続く『立法と嬰児殺し(Gesetzgebung und Kindermord)』で確認できるように思う。この文書は、1783年に書かれたものであり、玉川大学出版部発刊の『ペスタロッチ全集第五巻』で読むことができる(っていうか、これ、きちんと読まなきゃ…)。この文書は、1782年に少女二人が赤ん坊を殺害し、死刑になった事件を受けて、ペスタロッチなりの見解を述べたものだ。ペスタロッチは、この二人の少女の根源に「絶望」を見出し、死刑を行ったことに異を唱えているようだ(参考)。この作品は、1789年にフランス革命が起こるので、まさにその直前に書かれたものだった(ペスタロッチはこのフランス革命に批判的だったそうだ。『探究』を参照)。

それから、彼は(偶然か必然か?)、1798年に、シュタンツに設置された「ウルズラ尼僧院内孤児院」の運営をスイス政府から頼まれている。半年間だけだったが、ペスタロッチは、孤児院の院長(?)をしているのだ。その成果が、有名な『シュタンツ便り』だったそうだ(…なるほど!)(*ちなみに、ドイツ留学時代、僕はシュタンツ便りを読んで、自分も「コンスタンツ便り」という日記を書いた…汗)。ゆえに、シュタンツでは、「孤児の父」と呼ばれるようになる。

その後、いたるところで「実験学校」を作り、成果を収めていった。そして、1801年、彼の主著『ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか(Wie Gertrud ihre Kinder lehrt)』が執筆される。

皇によれば、ペスタロッチの関心事はただ二つ。「貧民の救済」と「教育方法の探究」だった。ここがかなり僕の中で重要だ。僕の問いは、児童救済と教育学の関連だ。ペスタロッチと強くシンクロする。やはり、そうだったのか、という感じもする。けれど、僕よりもペスタロッチの方がはるかに偉大なのは、彼自身、本当に身銭をきって、孤児院を運営しながらも、その活動を通じて、優れた本をたくさん書いているところだ。彼は、孤児を救済するのみならず、教育しようとした。そして、教育を通じて、社会の啓蒙(教化)を推し進めた。まさに、実践者であり、理論家であった。

グマイナーと少し違うところとすれば、ペスタロッチは「人間教育の探究者」であったという点かな、と思う。彼はあくまでも孤児や愛情を知らない子どもたちをどのようにして教育すべきか、ということにこだわった。『メトーデ』(方法)にこだわるところも、やはり教育学(というより教授学?)に親和性をもつ。グマイナーは、どちらかというと(まだ断定できないが)優れたソーシャルワーカーだった。あるいは児童福祉実践家+探究者だった。が、ペスタロッチは、それ以前に、どう子どもと関わり、どう子どもを教育し、教化するか、ということを問題にする教育者だった(と、単純に書いていいのかどうかは分からない…)。

僕自身、「愛情に欠ける子どもに愛情を教えることは可能か」という問いを掲げている。僕も「教える」ということにこだわっている。あるいは、「学ぶ」、か。その部分を外して、制度やシステムだけで考えると、どうしても教育学から逸れてしまう気がする。赤ちゃんポストを語る時も、そのシステムの使用という点だけで語ってしまうと、それは教育学ではなくなってしまう。SterniParkは、遺棄された子ども、遺棄した母、その周囲の人々をまとめ、その後のケアにも力を入れようとしている。ソーシャルワーク的な要素も強いが、それだけでなく、そういう子どもや親(女性)をどう教育するか、という点もまた、この団体にはあるはず。この部分が描けないと、教育学にはならない気がする。

ペスタロッチの心にずしんとくる言葉を引用しよう(孫引きだけど…汗)

満足している乳のみ子はこの道において母がかれにとって何であるかを知っている。しかも母は幼児が義務とか感謝とかいう音声を出さないうちに、感謝の本質たる愛を、乳のみ子の心に形作る。そして父親の与えるパンを食べ父親とともにいろりで身を温める息子は、この自然の道においてこどもとしての義務のうちにかれの生涯の浄福を見つける

ペスタロッチにとっては、これこそがまさに「人間の教育」の基盤なのであった。こうした父や母の教育がないところに、後続する教育は成立し得ない。そう、これは僕自身の「叫び」に通じるものだと思う。親の教育こそが、あらゆる教育に先立つものであるし、その親による(正しい)教育が施されていないうちに、あらゆる別の教育が始まることに警告の鐘を鳴らしたいのだと思う。特に、家族解体の時代の今、教育は、その根本から崩れようとしている(ペスタロッチ的に言えば)。(某知事の如く)学校教育の派手な改革を威風堂々と掲げるのもよいが、あるいは「総合こども園」の充実もよいが、それは、今日の教育の根本的な問題解決にはならないのだ、と僕は叫びたいのだ。

今の子どもたちは、たしかに恵まれている。ペスタロッチが生きた時代とはやはり違う。けれど、もっと致命的な状況下にあるのかもしれない。親と十分に幼少期を過ごせない子どもたちが膨大にい過ぎる。「待機児童」っていったい何様だ、と。子どもは誰も待機なんかしてないぞ、と。待たせているのは、実の親ではないか、と。上の記述にあるように、今の子どもは、本当に母親から感謝の本質たる愛を形作れているのかどうか。

「ありがとう」を言えない若者は実に多い。感謝の気持ちのない若者も実に多い。それは「増えた」と決めつけるわけではなく、感謝の気持ちのない人間はいつの時代でも多い。そういう人間が、知的なことや科学的なことをいくら学んだところで、何の意味があるというのだろうか。


と、思うがままに書いてみた。

やはり、児童救済と教育学は、何らかの形でつながっていると思うに至っている。今。ただ、児童救済事業だけを考えていてもだめで、やはり教育学の地平で、考えなければならないとも思う。まだまだ不勉強だな、とも痛感した。

ただ、自分の仄かな希望というか、未来は少し見えた気がする。「人間の教育の最も根底にあるものは何か」、と問うことだ。表面的な教育論や、教育改革論に踊らされてはならない。僕が考えたいのは、人間の教育の根本は何か、ということだ。それがなければ教育が成り立たないような根源とは何なのか。

上っ面の教育で押しつぶされている犠牲者はいつも子どもたちだ。僕は、学ぶこと=生きることだと大真面目に思っている。だから、人生が楽しい。けど、まわりを見ると、そうなっていない。学ぶことから逃避し、仕事か、あるいはくだらない商業主義的な娯楽に没頭している人間ばかりだ。仕事なんぞ、生命の維持活動以外の何物でもない。それだけに命をかけるというのは、美談としてはOKであっても、真実ではない。また、商業主義的娯楽は、「消費活動」でしかなく、仕事のひっくり返しに過ぎない。学ぶことこそが、人間の本来の姿に戻してくれるのだと思う。あるいは、仕事をただしているのではなく、学びながら仕事をしている人は、きっとリアルに充実した人生を送っているだろう。

学び、勉強、学習、教育、なんでもよいが、こうした営みのない人生は、やはり不幸だと僕は思う。そんな不幸な人生がなぜ起こるのか。そこに、どんな因果関係があるのか。それよりも何よりも、教育が成立するための条件を全ての子どもに与えること、それこそが、教育学の使命である。とするならば、やはりペスタロッチの如く、家庭の愛情こそが重要になってくるだろうし、また、グマイナーが言うように、「全ての子どもに愛の溢れる家庭を」が重要になってくる。グマイナーの言葉も、ペスタロッチ的に理解すれば、「そうした家庭を与えることで、人は人間とは何かを学ぶのだから」、と付け加えてよいだろう。

さ、もう一歩先に進もう。


追記

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20111214-OYT8T00211.htm

こういう事件も、ペスタロッチなら、「知事はアホか?!」と突っ込みを入れるだろうな、と思う。校名公表の労力をするくらいなら、万引きしないよう、そして、人間として立派になるよう、教師たちがもっと教育に力を入れられるように裏で動くことが大事じゃないのか、と。偉いとされる人間はすぐに人を、子どもを裁こうとする。今も昔もそれは変わらないんだな、、、

コメント一覧

kei
コメント、ありがとうございます!!

グマイナーについてはもっともっと知りたいと思っています。

こちらこそ、いろいろとご意見うかがえると、とてもうれしいです。

kei
中島賢介
興味深く読ませていただきました
http://blog.goo.ne.jp/kennny1105/
ヘルマン・グマイナーとペスタロッチに関する言及、興味深く拝読いたしました。特に「ただ、自分の仄かな希望」以下の記述に感銘を受けました。ありがとうございました。
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