氷室京介、この人は、僕ら世代のHEROだ。
僕も、BOOWY時代、ソロ時代の作品をほぼ全部もってるし、全部聴いてきた。今ももちろん聴きつづけている。ファンというか、憧れの人だ。
素直にかっこいいと思うし、僕ら世代の「感性」に訴えかける何かがある。僕なんかは、BOOWYの解散ライブの頃からしか知らないので、偉そうなことはいえないけど、とにかく憧れのHEROだった。
そんな氷室さんが、今回収益全てを義捐金にするチャリティーライブを行なう、というニュースが流れた。しかも、BOOWYの曲のみで、ライブを行なうという発表があった。おそらく、僕ら世代(団塊ジュニア世代)の人たちは、かなりエキサイトしているんじゃないかな、って思う。
ただ、(氷室さんに憧れているということを踏まえた上で)今回のチャリティーコンサートには、疑問もある。素直に喜べない自分がいる。
まず、氷室さんはSchool outを唱える「反学校論者」じゃなかったのか。学校は国家・行政・公的機関に属するもので、「反体制の人」ではなかったのか。権力者や国家に逆らうロックスターじゃなかったのか。美辞麗句やタテマエを嫌い、生の人間の姿を叫ぶ男じゃなかったのか。少なくとも、僕は氷室さん=ホンネのロックスターだと思っている。
そんな氷室さんが、義捐金を募るチャリティーライブを行なう、というのにはどうもしっくりこない(義捐金活動自体はとても素晴らしいこと。それ自体は決して否定されるべきものではなく、大切なことだと思う)。一般の人や善意のある一般人が義捐金を提供したり、集めたりすることは素晴らしいことだし、尊敬に値する。でも、それをロックスターがやるべきかどうか。
義捐金は、あらゆるルートを通じて、「厚生労働省」管轄(?)の「義捐金配分割合決定委員会」に集められる。というか、この委員会で配分割合が審議される。義捐金活動は、民間の運動によるものだが、国の管轄?管理?の下で、再配分されるのだ。義捐金の受け取り手である被災者の方はこの委員会の決定を受けて、その委員会経由で義捐金を受け取ることになる。
(ここに、チャリティー・ボランティアと国家の補完関係が読み取れるかもしれない)
国・国家は、日々われわれから税金を集め、あらゆることに使っている。その金額はとてつもなく膨大な桁である。その税金の管理・運営を任されているのが、国家であり、行政であり、官僚であり、政府であり、政治家である。つまり、権力者たちである。僕ら一般市民たちは、本当にたくさんの税金を納めている(サラリーマンは税から逃れたくても逃れられない)。その予算の中に、あるいはストックの中に、今回のような災害のためのお金はどれほどあったのか。その予算・ストックで足りない部分を、民間人の「善意」の力を借りて、義捐金というカタチで集めている、という見方をすることもできる(そう見ている人は結構多い)。
ボランティアやチャリティー活動は、僕自身ずっとやってきたことだし、決して悪いものではないと思っている。だが、その活動は、時として、国家や行政の「思惑」と一致して、相互に補完関係に陥ってしまいやすい危ういものなのである。本来的には、ボランティア活動やチャリティー活動は、国家ではなく、宗教と結びついていたし、また、地域の民間共同体に根づいたりしていた。つまり、民間人による、民間人のための草の根運動だった。が、そうした活動が国や国家に利用される危険性も常にある、と考えた方がよいと思う。
今回の一連の義捐金活動(ブームというとすごく言い方がわるいが)は、95年のボランティア活動の代わり?補完?的な意味をもっているように思う。今回の大震災では、ほとんど「ボランティア」という言葉は使われなかった。その代わりに、日本中で「義捐金」という言葉が使われた。ここに、この15年の月日を感じずにはいられない。
氷室さんの話に戻ると、本来なら、氷室さんは、義捐金を募るチャリティーライブではなく、被災地に行ってライブを行なって、直接、氷室さん好きの被災者の人たちに語りかけるべきでなかったのか(長淵さんは長淵さんらしい方法で活動を行なっていた)。少なくとも、国・国家が期待している義捐金集めに加担することには批判的であるべきではなかったか。国家権力に反発するロック精神からすれば、「チャリティーライブなんて俺はしねー」ではなかったのか。(ダイナマイトトミー氏のブログの記述を見ると、そのことがはっきりと分かるはずである)
繰り返しになるけど、義捐金活動自体はとても素晴らしい行為だと思う。けれど、それをロックスターがすべきかどうか。それは僕にはよく分からないし、感覚的になんか違うと感じた。
それからもう一つ。BOOWYの曲をやるなら、その当時のメンバーと一緒にやってほしかった。それは、僕の勝手な思い込みや願望ではない。当のメンバーである松井さんのブログを読んで、そう感じたのだ。
松井さんは、今回のチャリティーライブについて触れて、「寂しい」と書いている。
「こんな時だからこそ、再び4人で手を握り合い、大いなる目的のために、協力し合うべきだと思った。それが僕らが出来る、最大限なことだと思ったから。」
「アーティストとして、素晴らしい決断だと思う反面、一緒に活動を共にしていた仲間としては、残念でならない。」
この松井さんの葛藤に、僕自身、胸を痛めた。BOOWYの曲のみでやるのなら、それが実現するかどうかは別として、元メンバーに声をかけてもよかったのではないか、と素直に感じるのだ。
氷室さんの曲のみでチャリティーライブをやるなら、そこまで首を傾げなかったと思う。けれど、松井さんのブログを読んでしまうと、「たしかになー」と思ってしまうのもまた僕のリアリティーだ。BOOWYはバンドだし、バンドである以上、チームである。チームで築いてきたのが、BOOWYの楽曲たちだ。だからこそ、こういう機会にみんなで集まってまた一つの音を出す、そして、それを聴いたファンたちが熱狂し、そして義捐金を集め、被災地の方々に送り届ける、そういう道もあったのではないか。(あるいは、BOOWYを愛する僕ら世代の被災者のために何かをしたり、提供したり、、、と)
ただお金を集めるだけじゃなくて、特定の人たちに、具体的に援助を提供することもできたのではないか?!
それよりなにより、BOOWYの元メンバーたちが、この大震災をきっかけに、再び結集することが、被災地の僕ら世代の人たちの一番の励みになったんじゃないかな。たとえライブを観れなくても、「俺たちのために、まさかまさかのBOOWYが再び集まってくれたんだ!?」、と思うんじゃないかな。で、いつかDVDが発売されたら、それを見て、涙するんじゃないかな。少なくとも、僕がその当事者だったら、DVDを見て、涙するだろうな。。。そして、「頑張って生きよう」って思うだろうな。
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・・・と、書いたところで、氷室さんがこの文章を読むこともないだろうし、ただのボヤキにしかならないと思うので、この辺でやめておきます。ファンの人たちで気分を害した人がいたら、ごめんなさい。僕も氷室さんに憧れている一人なので、ご勘弁を。
でも、やっぱり松井さんのブログを読むと、今回のこのライブニュースを無条件に喜べなくなるなぁ、と。。。