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Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「養護」への問い

養護する、とはどういうことか。

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養護という言葉は、いたるところで耳にする。

●養護教諭=通称、「保健の先生」。生徒たちの心身の健康に関するケア(手当て)を行なう専門家。子どもが学校にいるあいだ、親に代わってあらゆる業務を行なう教諭。

●児童養護施設=親に代わって子どもを育てる、ケアする、庇護する場所。家。施設。ここで児童を養護するという場合、親の役割を日々担うことを意味している。つまり親業。本来は孤児たちの親となることを意味していたが、近年では虐待やネグレクトの問題から親元を離れる子どもたちの養育を行なっている。

●特別養護老人ホーム=65歳以上の高齢者が入居する家、場所、生活空間。家庭内での介護が難しい場合、その家庭に代わって、高齢者の介護、ケア、生活支援等を行なう場所。具体的には、娘や息子の代わりに、その高齢者の日々のケア・お世話を行なう場所、ということになる。

これらに共通するのは、誰かに対して「日々の生活」にかかわる「ケア」「世話」を行なう、ということだ。

ゆえに、児童養護とは、子どものケア、親に代わって親がすべきことを行なう、ということとなる。(もちろん、「代わり」なのか、「そのもの」なのか、という議論はある。親代わりなのか、親そのものなのか、これは実に難しい問題で、欧米では、「代わり」ではNG、「そのもの」が望ましいということから、施設養護を批判的に捉えている。)

***

では、親がすべきこととは何か?

あまりに多すぎて、ここで列挙できるようなものではない。育児、食事、洗濯、掃除、おしゃべり=言語の獲得、…広く、衣食住にかかわる全般の営みを養護と捉えてよいだろう。細かく見れば、親の仕事は、一義的に規定できるようなものではなく、「ありとあらゆること」としか、いいようがないようなものである。また、その内容を見れば、各家庭で違っているわけで、「家庭それぞれ」としかいいようがない。

親がすべきこと、その根源には、子どもの命を守り、そして子どもを育てるということがある。最低限でいえば、「子どもを死なせない」ということとなるし、理想的にいえば、「子どもを善く育てる」ということになるだろう。人間は、生まれによって、相当部分が決まってくる。どんな親に育てられるのか、その親の経済状況はどれほどか、親の知的レベルはどれくらいか、親の愛情はどれほどか、親の職業は何か、親のコミュニケーション力はどれほどか、親の価値観や宗教観はどんなものか、そういったものに、人間は生まれながらにして縛られている。縛られているというか、多大な影響を受けている。

親の仕事をどのレベルで捉えるかによって、養護の中身も変わってくるといえるだろう。当然、時代背景や時代精神の影響も受ける。ゆえに、親の仕事を一義的に規定することはできない。

ただ、いつの時代にも、親業を放棄する親はいる。「児童遺棄」や「児童殺害」は人間社会の永遠のテーマといってよいだろう。

***

しかし、なぜ「親に代わって」という事態が起こるのだろう。

産みの親が自らの子どもを育てること、それは、きわめて生物学的に自明のことであるはずなのに・・・いったいどういう事情で、親は子を養護することを放棄するのか。いったいどういう親がどういう理由で子育てを放棄するのか。

特に、どんな母親が自らの子の養育を放棄してしまうのか。その母親はどんな苦しみを抱えているのか。どんな状況下にあったのか。その母親を、遺棄や殺害の前に救うことはできないのか。

***

養護は、親業である。親業は非生産的・再生産的な営みである。ゆえに、成果、効率、能力、技術といった概念とは無関係/ないしは対立する。


親とはいったい何か。親が子に果たさねばならぬものとは何か。

親の責任とは、親の使命とは、親の義務とは、親の存在意味とは何か?

そして、その親から見放された/捨てられた/虐待された子どもはどうなってしまうのか。

日本では、乳児院、児童養護施設に行くしかない。

普通養子縁組・特別養子縁組というのもあるが、それほど数的に多くはない。

「制度」となっている児童相談所を経由して、各施設に「措置」される。

それが、この国の児童養護のカタチである。


その制度・システムの末端・最前線で日々子どもの養護を行なうのが、保育士である。

保育士の任務は、親に代わって、親業を行なうこと、となる。

だが、親の代わりを果たすというのは、とてもしんどく、大変で、困難なことである。

どんなに頑張っても、「本当の親」にはなれないし、親のように子どもを愛することも難しい。

(ドイツでは、本当の親に限りなく近いムッター(Mutter)という資格があったりもする)


養護を考える上で重要なことは、

「親に代わって、他人が子どもを我が子のように愛し、育てることは可能なのか」

ということである。


ただ、これはもう一つの問いを生むことになる。

「親は、子どもをどのように愛し、育てているのか」

という問いである。


家族崩壊という現実を踏まえると、この問いに一義的な答えはないはずである。

現代の親は、実にそれぞれである。家族形態もいろいろである。

親の養育・養護が多様であるならば、保育士の養護も多様となる。

親であれ、保育士であれ、われわれは養護を一義的に捉えることはできない。


では、何でもあり、なのか。それとも、そうでないのか。

人を育てる、とはどういう営みなのか。

そして、どういう困難があり、どんな課題があるのか。


非常に、難しく、やっかいなテーマである。。。

コメント一覧(10/1 コメント投稿終了予定)

ゆきすけ
すみません、社会福祉士のまちがえですw
ゆきすけ
養護、子育て、里親制度、、。

最近、子育てとはなんなのか?と考えることが多くなりましたyukisukeです。

私が今言えることは、ただひとつ。

「子育ては、非生産的でありながらそれを見守る事である」と。。

最近は、塾にお稽古事、そして学校の勉強と遊ぶことに焦点を当てていないことが多々あります。

たしかに、良い環境や、それにともなう習い事の大切さは重々に承知しております。
心理学の基礎である、環境と人格と遺伝子の考察においても、やはり環境要因は大事なのは論文で明らかにされているように、個人が取り巻く環境は軽視できるものではありませんよね。

でも、人格について深く議論されるような、もっと深く言うのならば、その感じている当事者の気持ちはどうなのか?

が、うまく伝わっていないような気がします。

社旗福祉士である懇意にしている人が教えてくれました。
「こどもは結婚式にだれをよぶのか?」
と。

育ての親か、それとも生みの親なのか?

その方は「生みの親」とこたえました。
結婚式には呼ばなくとも、そのあとで必ず生みの親に会いに行くそうです。
自分のルーツはだれなのか?と。。

それが例え、生まれてから音信普通の親であっても、犯罪者であっても、生んだ親には関心があるということですよね。

その子の保護者は、その子の養育上好ましくないと思っても、その子供のルーツを遮る事は阻止できないのです。

なので、私は思いました。
実親という項目はやはり、無視できないのであり、養親(直接的にかかわる人)はそれを知らせる事が絶対条件であると。。

「親は、子どもをどのように愛し、育てているのか」

ですが、それはこう思います。

目の前に必ずつまずく道があるのなら、それをどうやって乗り越えるのか?
それと同時に、つまずいてしまったときにはどう対処するのか?

そして、つまずいたときにはどうやって受け止めて、そのこの笑顔を導き出すか?の事だと思います。

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