Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

よい人間関係とほんとうの人間関係-もう一度、問い直す。

 

●僕のベースにあるのが、ずっと勉強してきた「人間関係学」だ。人間関係学が、僕の中での学問的な出発点にある。僕の学問的関心は、人-間、人と人との「あいだ」にあって、人と人とのあいだにおいて作用するものを解明したい、ということに尽きる。だから、そうした人間関係を「絆」と安易に呼ぶことには強い抵抗があるし、人間関係の技法といった種の本を読むのは苦痛以外の何ものでもない。

●この人間関係学の中で、僕がずっと頭の片隅にあるのが、「よい人間関係」と「ほんとうの人間関係」という二つの区分だった。どこで、どう教わったのか、もう記憶にもないのだが、この二つの概念は、時折、脳裏をよぎる。

●よい人間関係とは、上っ面でとりあえず取り繕い、その表面的なところでつながり、機能的にふるまう人間関係。あまり深追いせずに、深入りせずに、とりあえず良好な関係を築けている人間関係である。よく言えば、公的な人間関係、職場の人間関係、社交場での人間関係、学校での友人関係、隣近所の人との関係、等々。もちろん、こうした関係においても、時としてほんとうの人間関係になる場合もあるが、たいていはよい人間関係に留まる(し、またそちらの方が機能的によくまわる)。

●それに対して、ほんとうの人間関係とは、人と人とが互いに互いを慮り、互いに専心し合い、深いところでつながっているような人間関係である。場所としてどこと例を出せるような関係ではなく、どこであっても、偶発的に起こり得る関係である。主には、大学時代の親友との関係、同郷の古い友人関係、宗教的なつながりをもつ人間関係、思想、哲学的に共鳴し合う関係、同志、同朋、共通の価値観をもつ小さな集団関係、等々。

●ハイデッガー風に言えば、「非本来的人間関係」と「本来的人間関係」と言ってもよいかもしれない。通常、僕らは「よい人間関係」をそれなりに生きれば、それで事欠かない。むしろ、今の時代は、ますますよい人間関係が求められているようにも思う。もっともっと表面を行きよ、と命じられているような気もしないでもない。深い話は精神科医やカウンセラーのところでしか話せないような空気すら漂っている。互いに無関心。お互いに、深く立ち入らないように気を配らなければならないほどに。

●人間関係学では、形式的・組織的な「フォーマルグループ」と親密な「インフォーマルグループ」という二つの区別があるが、それとも少しニュアンスが違う考え方が、この上の二つの概念にはある。

●思春期~大学時代の時は、この「よい人間関係」が死ぬほど嫌いだった。上っ面の人間関係なんてクソだ!と思っていたし、くだらない下世話な話をダラダラと話す人間関係が本当に本当に死ぬほど嫌いだった。ヘラヘラ笑っているヤツが嫌いだったし、そういうヤツとの関係は、単なる時間の無駄だとしか思っていなかった。(今も、そういう要素は確かにある。いわゆる飲み会や結婚式やパーティーといった類いの集まりには極力出ないようにしているし、職場等のプライベートな呑みの誘いもお断り申し上げている(ほとんど誘われないけど、、、汗)。

●だが、最近は、そういう集まりも悪くないな、と思うようになってきた。表面的な話をして、表面的に人間関係を生きることの楽しさも(遅ればせながら)分かってきた。今となっては、学生時代にもう少しそういう集まりに参加してもよかったかな、と悔いることもしばしば。

●ずっと、日本人はこのよい人間関係が得意で、僕が苦手なんだと思ってきた。が、たくさんの日本人と関わるたびに、「実は、日本人こそ、このよい人間関係が最も下手な人間たちなんじゃないか!?」と思うようになってきたのだ。

●日本人は、社交的人間関係、つまりは表面上に留まる人間関係ができていない。社交的な人間関係の中に、なまなましい関係を持ち込もうとする。あるいは、社交的・公的な人間関係の中に、ほんとうの人間関係を求める傾向があるのではないか。

●例えば、お見合いサークル、婚活等に代表される人間関係。あるいは、職場恋愛の末に結婚する男女。教員等に多いが、同期会を作り、その中で群れる。とある幼稚園では、同期で集まり、飲み会等を行うことを禁じているという話を聴いたこともあった。職場の人と、仕事の後に呑みに行く、というのも、よい人間関係と、ほんとうの人間関係の未分化によるものだろう。僕なら、職場の人間と呑みに行くくらいなら、親しい地元の友人や仲間と呑んだほうが1000倍楽しい。

●つまり、よい人間関係に踏みとどまれないのである。これは、僕が欧米人を知るたびに強く思うことだった。人間関係が嫌で職場を辞める、という話はあまり聞かない。ドイツの幼稚園の先生に聞いたことがあるが、あちらでは、人間関係が理由で辞める先生はいないとのことだった。よい人間関係がきちんと維持できているから、人間関係に亀裂が入らない。日本人は、そのよい人間関係が極めて脆弱で、きちんとうまく維持ができない。ゆえに、私的な憎悪を職場に持ち込むのである。

●職場の人間関係は、ドライでよいし、深く踏み込む必要もない。あくまでも、機能的にうまくいけばよいのであって、それ以上でもそれ以下でもない。意思伝達、意思疎通が円滑に行われることが重要であって、「相手がどう思っているのか」などは二の次である。もちろん自分のことを知ってもらう必要もなく、相手のことを知る必要もない。伝えるべき事柄がきちんと伝達されさえすればよい。よい人間関係とは、腹の探り合いをせずに、表面上の円滑さのみを重視する関係とも言える。アルバイトの関係は、意外とそういう関係になっているように思う。が、職場となると、どうしてもそれ以上のもの(ほんものらしさ)が求められてしまうのは、実に不思議なことである。(政治家集団もまさにそうしたドライさがなく、べったりとしている傾向があるのでは?!)

●昔の僕は、よい人間関係がダメで、ほんとうの人間関係が目指されなければならない、と思っていた。が、今はそう思わなくなった。むしろ、よい関係の維持こそが極めて大事だろう、と思うに至っている。このブログでも、僕の内心や内面はほとんど出ていない(もちろん無意識で出ていることはあり得る)。好き嫌いといった感情もできるだけ排除している。ほんとうの人間関係は、Dr.keiではない生身の自分が直接かかわるごく少数の人だけに求めているし、最近ではその少数の人ともよい人間関係の維持に力点が置かれるようになった。ほんとうの人間関係は、人間の人生において、ごくわずかな時、ごく限られた期間、ごくわずかな間柄で起こり得るものであって、それが日常になることはない。

●表面的な人間関係を、どこまで表面上で、楽しむことができるか。そして、それを苦に思わないで、持続できるか。それが、今の時代における「人間関係の問題」ではないだろうか。

○ただ、それとは別のところで、ますます「ほんとうの人間関係」も求められてきているようにも思う。(続く)

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