Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

不寛容への寛容の難しさ-他者とは?

「これからの時代は、他者性の時代である」

「これからの時代に求められるのは、他者への寛容である」

と、色んなところで言われている。

ここでいう「他者」とは、自分(自分たち)の価値観とバッティングする存在だ。

他者は、自分とは違う考えや思考や価値観や人生観や人間観をもつ。

そんな他者と関わらなければ、バッティングすることもないし、
ぶつかることもないし、争うこともないし、ケンカにもならない。

けれど、そういう他者と関われば、当然ぶつかるし、対立する。

個人間のぶつかりあいは、ケンカやいがみ合いや憎しみ合いになるし、
国家間のぶつかりあいは、戦争を引き起こす。

お互いに相容れない考えをお互いに交えるのだから、当然といえば当然。

例えば、ご飯は黙って食べるという考えの持ち主(A)と、
ご飯は楽しく会話をしながら食べるという考えの持ち主(B)がいるとする。

そうすれば、この両者は共に会食することはできない。

Aからすれば、食事中に喋るという行為は野蛮な行為であり、
絶対に許すことのできない「愚かな行為」である。

Bからすれば、食事中に黙って食べるなんて、人間の行為ではない、
人間だからこそ、語り合いながら楽しく食べる行為を営むべきなのだ。

Bが楽しく話をしようとすれば、Aは不快になる。
Aが黙って食べようとすれば、Bが不快になる。

このように、お互いの価値観が綺麗な対立を描けば描くほど、
両者の関わり合いは難しくなるし、争いの基となる。

Aからすれば、Bは、不快感を与える悪であるし、
Bからすれば、Aは、不愉快な存在となる。

AとBは、お互いにとって「他者」となる。

この両者が互いに納得する形で、折り合いをつけるのはとても難しい。

もしAが、「分かった。じゃあ、楽しくしゃべって食べよう」と言うならば、
それは、Bの意見に従うということであり、Aの価値観が否定されることになる。

逆に、もしBが、「分かった。では黙って食べよう」と言えば、
それは、Aの意見によって、Bの考え方や価値観が否定されることになる。

ここで、やっかいなのは、どちらか一方が不寛容で、
他方が寛容を大切にしていた場合である。

Aがもし不寛容であった場合(絶対に食事中の私語は認めないという場合)、
Bは、食事中には絶対に黙らなければならない。
Bの考えや価値観は完全に否定され、それを受け容れなければならない。

そうしなければ、AとBは関係をもつことができない。

Aは、「食事中にしゃべる人とは、絶対に関わりたくない」、と言う。
Bは、そんなAと共に会食したいと思っている。

その時に、Bは、自分の考えを曲げずにAと会食することはできるのか?
BがAと会食する際、BはAの要求に従わなければならないのか?

Aは断固として、自分の考えを曲げようとはしない。
なぜならば、Aにとっては、「食事中は黙って食べる」が信念だからだ。
信念を曲げるということは、自分の生き方を否定することにつながる。
Aは信念を曲げることは絶対にない。

しかし、Bにとっては、「食事中は楽しくわいわい食べる」というのが信念だ。
なので、この信念を曲げることは、極めて容易ではない。

けれど、Bは(A以上に)お互いに分かり合いたいとは思っているし、
関わり合いたいと思っている。
Aは、Bが食事中に黙っていてくれれば、一緒に食べてもよい、と思っている。

この時、キーパーソンとなるのは、Bであることは間違いないが、
Bが自分の考えを曲げることなく、Aと食事をすることはできるのだろうか?

もし食事をめぐる言い争いになれば、すぐに決裂するだろう。
Aは、「あなたとは考え方が違う。失礼する」、と言うだろう。

けれど、Bがただ妥協すればいいという問題でもない。
(他者の意見を尊重すると言って、自分の信念を消去することは、
他者理解ではなく、他者に服従することである)

これが、他者問題であり、他者への寛容の問題である。

他者に対して寛容である、ということはどういうことか?

実に極めて難しい問題だと思う。

他者に寛容であるというのは、妥協することでも服従することでもない。
妥協も服従もせずに、他者の価値観を認めること?
そんなことが人間にできるのか?

どうしたら、お互いの価値観を認めながら、共に食事することができるのか?

僕にも分からない・・・

コメント一覧

zanki
うんうん
http://zanki.blog.so-net.ne.jp/
もっとリアルには、夫婦の間にしょっちゅう
こういう葛藤があります。
kei
haruさん

その「おもしろさ」がお互いに分かればよいのですが・・・

決めつけは自分の首をしめることになりますが、その決めつけから自由になれない人もたくさんいます。

いや、それを「自由」と見なすのも、こちらの価値観なわけで。

彼にとっては、決めつけではなく、真理なのでしょう。

互いの真理がバッティングしたときに、まさに他者との対話が生じるのだと思います。

これは、個々人間の問題であり、また世界的な問題でもありますね。
haru
AがBのようにやってみたらおもしろいかもしれない。BがAのようにやってみたらおもしろいのかもしれない。

試してみるべし。
決めつけは自分が苦しくなる。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「哲学と思想と人間学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事