教育学の中で、ケアリングという考え方が浸透しつつある。
もともと、ケアリングというと、メイヤロフが1971年に書いた「On Caring(邦訳名『ケアの本質』)」という本が有名だ。この本は、ケアリングの基本的な考え方が示されていて、今もなお多くの人に読まれている代表的な作品である。ケアという言葉を世の中に知らしめた画期的な本であった。
「ケア」というと、学問的には、ハイデッガーの「Sorge(気遣い)」や「Fürsorge(配慮的気遣い/配慮)」が思い浮かぶ。例えば、ハイデッガーは、存在と時間の第26節で、「Auch das >Besorgen< von Nahrung und Kleidung, die Pflege des kranken Leibes ist Fürsorge(衣食の世話をすることも、病人の身体のケアをすることも、配慮[顧慮的な気遣い]である)」(S.121)と述べている。ハイデッガーにとって、配慮は、相手の人を依存的、支配的にしてしまうものである。「援助する(einspringen)」(S.122)というのもまた同様の類であった。こうした世話、配慮、援助といった概念が、学問的に関心の的になったのも、やはりハイデッガーのおかげであろう。
だが、それとは一線を画したところに彼の視点の独自性がある。むしろメイヤロフは、フロム、マルセル、ブーバー、デューイ、ロジャースなどに強い影響を受けており、そのことはメイヤロフ自身も意識している。
ただ、そうは言っても、ハイデッガーの「存在と時間」なしでは、ケアリングの思想は発展しなかっただろう。ハイデッガーの学問的影響は非常に大きく、精神医学、心理学、教育学、社会福祉といった臨床的な学問の中身をがらりと変えるほどであった。とりわけ精神医学と心理学の領域で、ハイデッガーの思想が積極的に取り入れられていった。メダルト・ボス、ビンスワンガー、ヴァンデンベルク、日本では木村敏、早坂泰次郎などが有名だ。また、神谷美恵子や中村雄二郎や鷲田清一といった哲学領域の研究者が哲学と実践の融合について考えていた。
彼らの多くは、「現象学的アプローチ」として大きく発展していった。だが、ケアリングは狭義の現象学的アプローチから離れ、アメリカ独自のプラグマティズムという思想と結びついて、より実践的に独自の発展を遂げていった。ゆえに、メイヤロフの考え方はケアリング思想の原点として理解してよいだろう。彼自身、付録Ⅰの原注にて、「この論文中のケアについての考え方は、ハイデッガーの分析に負うところはほとんどない」(p.213)と書いている。だが、ケアという概念に学問的に光を当てたのは紛れもなくハイデッガーである。「負うところ」はなくとも、思想的な時代精神として、間接的に影響を受けていないとは決して言い切れないだろう。ここで重要なことは、ケアリングの思想は、狭義の現象学からは距離をとり、新たなアプローチとして位置づいている、ということである。それは、彼の平坦な文章からも読み取ることができるだろう。
On Caringの冒頭の箇所、「To care for another person, in the most significant sense, is to help him grow and actualize himself」(他の人間をケアすることは、最も深い意味で、その人が成長すること、そしてその人自身が実現することを助けることである)という箇所(p.Ⅰ)に、メイヤロフの基本的な考え方が示されている。子育て、自己実現、教育の原理としてcareという言葉が使われているところに、その大きな価値があった。また、19章でも、「I have tried to describe the essential features of caring considered as helping the other grow.」(私は、他者の成長を助けることとして考えられるケアリングの本質的特徴を述べようとしてきた)と書いている。ここで言う他者の「grow」を助けることがメイヤロフにとってのケアリングの本質と考えてよいだろう。このgrowのhelpというシンプルで多義的な言葉にこそ、メイヤロフの思想の核心がある。
で、このメイヤロフに影響を受け、さらにケアリングの考え方を独自に発展させたのが、ノディングスというアメリカの女性であった。
このケアリングの思想から、学校と家庭の問題が新たに考えられるようになった。今や、相互にケアし合う関係性を家庭の内部に求めることは極めて困難であろう。学校のみならず、家庭までもが、産業社会の中に組み込まれており、イリイチが述べるように、勉強も家事も産業社会を補完するシャドウ・ワーク化してしまっている。この問題を克服するためにも、学校と家庭が共にケアし合う新たな関係性を模索する必要がある。モンスターペアレントという俗語は、まさに顧客からのクレームであり、親自身が一人の顧客に成り下がっていることを示しているに過ぎない。学校も家庭も、「顧客」でも「消費者」でも「生産者」でもなく、「ひとりの生活の主体」、「世界の中の只中にいる人間」、「地域の中に生きる相互存在」として、自らの主体性を獲得しなければならない。
ケアリングという思想は、産業社会に必要な有能な人材を育成する企業的学校イメージを否定し、homeとしての学校を構想し、それに向けて具体的に動こうとする運動と捉えてよいだろう。その人の成長や自己実現を助ける、ケアする、という考えは、homeの観念なしにはあり得ない。学校は、家庭と新たな関係を作り、そして、学校自身が新たに家庭的な機能を創造しなければならない。それが、「居場所としての学校」という考え方にもつながるのである。学校は、行き先でもあるが、同時に帰る場所でもあるのである。安全や安心がきちんと保障され、子どもの成長や自己実現がケアされる場所、それがケアリングが目指す学校のイメージなのである。
そういう安全や安心、成長や自己実現が保障された場所においてこそ、はじめて学びという営み(活動)が始まるのである。現在、ますます家庭における貧困や格差、そしてそれによる学力や思考力の差が顕著になりつつある。どこの家庭に生まれたかによって進路や就職先が規定されてしまう、というのはやはり健全な社会ではないはずである。どの家庭に生まれようとも、すべての子どもに、学ぶ可能性を与え、育つ可能性を与え、自己実現の可能性を与えなければならない。それが唯一保障されるのが、学校という場所であり、その根源的な役割なのである。
そうした文脈の中で、ジェーン・R・マーティンの「スクールホーム」という概念が登場した。彼女の主張は、学校を「home」という概念で包括し、「三つのC」と呼ばれるcare, concern, connectionを学校の基盤としよう、というものであった。この三つのCは、これまで家庭の内部に閉じ込められてきたものだったが、それを学校の新たな基盤とし、伝統的な学校観から学校を開放することが彼女のねらいであった。なお、日本では、ケアリングとスクールホームの考え方は、生田久美子らによって広められつつある。ケアリングの思想に基づく学校実践も報告されており、今後の研究動向が期待される。
こうした家庭=学校というイメージは、古くはペスタロッチやフレーベル、マリア・モンテッソーリ、エレン・ケイといった教育者/教育研究者に遡ることもできるだろう。だが、今日の社会情勢を考えれば、失われつつある人間相互の愛情ある結びつきや信頼、家庭の温かさ、愛情、安心感、安全、ケアなどが、学校の中で、学校のカリキュラムの中で、改めてきちんと保障されなければならない、ということが分かるだろう。これらの要素が、家庭ないしは学校で保障されてはじめて、子どもたちは何らかの対象に興味をもち、安心して学ぶことを楽しむことができるようになるのである。子どもたちを見れば、学びたいという気持ちが消え去ったわけではないことが分かるだろう。学びたいという気持ちの前提となるもの(上述した人間相互の愛情ある結びつきや信頼、家庭の温かさ、愛情、安心感、安全、ケアなど)が保障されてようやく、子どもたちは、その出来に関係なく、学びの公平性が保障されるのである。
*実際、多くの現場の教師は、こうした結びつき、愛情、信頼を大切にしながら、日々の教育実践を積み重ねようとしている。が、「それ以外の仕事」が多く、忙殺されているのも事実ではないか。佐藤学の言葉をアレンジして言えば、「現場の教師にゆとりのある時間を与え、授業研究、教材研究、そして子どもと直にかかわる時間をもっと与えよ。また、そうしたことが具現化できるように政策レベルでの議論をもっとせよ」ということになるだろう。教師の会議や事務仕事をもっと減らし、子どもや親と親密に関わり、ケアするだけの余裕やゆとりを与えるよう、政策レベルで検討すべきであるし、教員教育もそちらのほうを主軸とすべきであろう!
学校は、そうした人間相互の愛情ある結びつきや信頼、家庭の温かさ、愛情、安心感、安全、ケアといったものをすべての子どもに与え、そこから「世界への関心」、「モノや人への興味」、「観察」、「実験」、「反復練習」などへとつなげていく必要があるのだ。つまりは、家庭から社会への架け橋/メディア、私的世界から公的世界/産業社会への架け橋/メディアとして、機能しなければならないのである。
がゆえに、学校も変わらなければならないのである。国や産業社会の要請を受けてしまう必然性を理解しつつも、最も根源的な意味で、国や産業社会の発展を実現するためにケアリングやスクールホームという考え方が学校の内部に入り込まねばならない。低所得者層やニート、引きこもり、「3年で辞める若者」が増えれば増えるほど、それだけ国や産業社会それ自体が困るのである。ひょっとしたら、国や産業社会の方が学校以上に困っているのかもしれない。有望な若い人材が育たない国に、その国の可能性はない。いや、もはや国のレベルではなく、世界のレベルで語らなければならないかもしれない。世界が多くの若い人材を必要としているのだ。
人間として生きていくために必要な、最もベーシックなもの、それを家庭や学校が保障する、それこそが今後の大きな課題であろう。人間として生きていく最もベーシックなもの、それは何か。それは皆が議論していきながら、皆で見つけ出していくべき事柄であろう。「自分がよければそれでよい」というエゴイズムを超えて、「皆の幸福」、「皆の笑顔」を大切にする「利他的な何か」へと向かうことが、今後のわれわれの大きな課題となるだろう。