Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

真夜中の学生との対話 in Mixi

ちょっと面白いやり取りがありました。

さっき、僕はmixiのつぶやきで、こうつぶやきました。

>(現在執筆の論文が)15000字突破☆ 優秀じゃないかー。あと、3000字くらいで結論が導き出せるか。この3日間頑張った! あ、いや、まだ終わってない! がんばるんば♪(古っ!)

…くだらないつぶやきですみません、、、
すると、1年生のかわいらしくてどこか将来的に可能性を感じる学生のS子さんが、このつぶやきに対して、こう書いてきた。(ただし、可能性を感じるだけで、まだまだ未完成さはたっぷりでありますが…)

>2日間で10000文字っていけますかね…(◎-◎;)

彼女にとっては、僕の論文がどうこうとかは知ったことではない。彼女は、(おそらく僕が出したレポート課題のことだと思われるが)10000字書けるかどうかを案じていたのだった。1年生の学生に課題10000字っていうのはかなり苛酷だと思われるが、これが僕ism。学生を苛めぬき、学生をどこまでも追いつめるのがkeism☆

で、僕はこう返事した。

>僕はこの3日で16000字までいったよ☆ でも、学生にはキツイだろうなー。だって、書いたのは3日だけど、構想は2カ月くらいだもん☆ あなたもレポートあるよね。頑張って♪

一応、共感してみた(爆) いや、18歳のかよわき小娘たちに10000字は極めて厳しい。一流大学ならまだしも、うちの学生なら悲鳴をあげるはずである。なんせ、2000字以上のレポートさえ書いたことがない学生がほとんどだから。(いったい、日本の教育は何をやっているんだ?!… 僕ならとにかくひたすら生徒たちに書かせると思う。書くことと読むことは学びの根底中の根底) ま、それはさておき、応援してみた。

すると、

>試練やと思ってがんばろうと思います(思います←)図書館行かなくてゎ…近くにない…はぁぁ…。楽しいことしてても頭の中から課題のことが離れないです涙

というかわいいかわいい返事を書いてくれた。このS子さんにとっては、レポートは「試練」と映っていたのだ。試練であることには違いないが、確実にネガティブな意味で「試練」という言葉を使っている。彼女にとっては、レポートは義務であり仕事であり当為(Sollen)なのであった。「図書館に行かねば」と思いつつも、なかなか実行に移せない苦悩が語られている。

さらにS子さんは実に興味深いことを指摘している。「楽しいことをしても頭の中から課題のことが離れない」、と。これはすごい素晴らしい表現であると思う。いわゆる楽しいことをして、すべきことから逃げようとしても、すべきことが彼女に忍び寄るようにして迫ってくる。彼女自身、そのことに気づいているのだ。

でも、実にもったいない。レポートっていっても、自分の実習と直接関係するお題であるし、やればそれなりに面白い発見があったりするはずなのだ。自分の興味と全く関係ない課題を無理やり単位のためにやらされている課題とは違う。なのに、彼女はそれに苦しんでいる。

彼女を責めるつもりは全くない。むしろ、自由記述のレポートの楽しみ方を教えてこなかった彼女の教育環境を嘆きたくなる。形式的なルールは若干あるけど、内容や構成については全くの自由。どう書こうと、何を書こうとOKなのである。高校生以上であれば、楽しんで書けるはずなのである。なのにそれを楽しめない、というのはどういうわけか。

きっと、勉強の仕方、論の立て方、文章の書き方、引用の仕方など、世界水準のレポート執筆の方法が分からないのだと思う。それは彼女だけの問題ではない。一部のエリート大学生をのぞく日本のほとんどの大学生が、レポート、小論文、論文の書き方を知っていない。

でも、レポートの書き方なんて、学校で学ぶことではない。書きながら、他のレポートや論文を読みながら、勝手に学ぶものである。100本のレポートを読めば、だいたい書き方なんて分かるものである。けれど、今の学生たちは、根本的に他者のレポートや論文を読まない。読んでいない。

読んでいなければ、書けるはずがない。 そこに気づけるかどうかは、彼女次第だろうな、と思う。

最後に、僕は彼女に、こう伝えた。

>試練じゃないよー。楽しまないと。快楽は一瞬で終わる。でもね、本当の勉強はぞくぞくするし、わくわくするんだよ☆ 僕は論文を書いている時が一番幸せ。恋するのと同じくらい本当の勉強はわくわくするんだよ!!伝わるかなー。

伝わってくれるといいですが。。。


でも、彼女は知的なセンスはあると思う。ただし、彼女が化けるかどうかは、今後の彼女次第だと思う。素質はあっても、努力をしなければ、やがて枯れる。車だって、飛行機だってエンジンをかけないでいたら、壊れるでしょう。人間だって、ちゃんと頭を使って生きないと、いざというときに知性が働かない。普段からものを考えていない人間が、いざというときにきちんと冷静にものが考えられるとは思えない。 肉体的にだってそうじゃないかな。普段から身体を鍛えている人はやはり強い。日々のトレーニングがいざというときの冷静さにつながるのだから。

勉強、学問、学び、なんでもいいけど、本当の勉強はぞくぞくするし、わくわくするし、なんか変な世界に飛んでいく気持ちになれる。是非、そういう世界を味わってもらいたいなって、切に願っています。

学問の世界は深いんですよ。どこまでもどこまでも 
…僕もまだ浜辺の浅瀬にしか立っていないのですから。

・・・それを伝えきれない自分がすごく歯がゆいんですけどね。。。

コメント一覧

kei
笛吹童子さん

貴重なご意見ありがとうございました。学生にはやんわりその旨を伝えました☆

>高等教育を受ければ必ず自分で卒論など一応まとまった文章を作成しなければなりませんが、これは文章の書き方というより自分なりの論理的構成の思想を組み立ててみる訓練という事だと考えますが如何でしょうか?


論理的思考の問題ですよね。これは教えるのがすごい大変です。というか、教育可能なのかどうかも疑わしいです。ただ、僕も先生という立場で学生たちに論理的思考を教えていますが、なんとか論理の一端を与えることがたまにはできるかな、とも思います。全員に可能だとは思えませんが、教授可能かなとは思います。

でも、まずは本を読まないことには論理的思考は無理ですよね。論理的な本を読んでなければ、論理的な文章などかけるわけもありません。音楽を聴かない人に音楽を作れ!と言っているようなものかもしれませんね。。。

笛吹童子
書くのは考えること
 身につまされる話です。私は成人するまで中々文章が書けず、苦手だと思っていました。でも今になって思い返すと小学、中学校の教師の期待するいわゆる「作文」が書けなかっただけと思います。私が作文を書くと業務報告書の様にただの「事実の記述」になってしまうので「子供らしい微笑ましい感興の文章」を期待する教師達は気に入らなかったのでしょう。
 ところが20歳台後半になって業務上の報告書やら対外的謝罪文、作業手順書、マニュアルなんぞの実用的文書を書き始めるとちっとも困らないのに自分で驚きました。文書を道具として使う分には不自由が無かったのです。日本の国語教育は一通り読み書きが出来る小学校低学年を過ぎてしまうと識字を道具として使う技法の修練ではなく、「文学鑑賞」の授業になってしまっていると思います。おそらく明治時代前から世界一と推定される日本の識字率ですが少し水準を高くした「機能的識字率」では少々怪しく思えます。用件の伝達の為の文書とか、相手の説得の為に自分の考えを文章にまとめて表現するとかは毛嫌いしてやらない人の方が多いと私には思えます。やっている人は職業上いやいやながら仕方なしの人が殆どでは無いでしょうか?
 でも私は中年以降になって、文章が書けないのは(人前で話すのも同様ですが)書くべき内容、大げさに言うと論理的構成の思想が無いからだと思うようになりました。高等教育を受ければ必ず自分で卒論など一応まとまった文章を作成しなければなりませんが、これは文章の書き方というより自分なりの論理的構成の思想を組み立ててみる訓練という事だと考えますが如何でしょうか?
※この彼女、書くべき内容が出来上げっていないのに10000字のレポートは無理ですね。ネタが無いのにそんなに薄めて文章をでっち上げるのはごまかしです。上げ底レポートはすぐ分かります。10000字のレポートとは10000字で丁度表現出来るくらい考えろと言うことですよね!
長文コメントで失礼しました。
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