
ルドンの黒には色彩がちりばめられて、自分が何色を見ているのかさえわからなくなる。
目くるめく色彩の濃縮。蠢いている。
うす暗闇に浮かんだ目の気球は果てしない遠く宇宙に視線を向けて何を見つけるのか?
沼地からす~っと伸び上がって、ひっそりと輝く不思議な花が夢を見ている。
今にもしゃかしゃかと音を立てて踊りだしそうな10本足や11本足の蜘蛛たちがニンマリと笑って絵から飛び出し、隣で夢を紐解く作業を何百年も続けている男の背後に忍び寄って悪さを仕掛けようとするのかもしれない。
もの影から想像の手が生え始め、枝が伸び、芽が膨らんで開けば、淋しげな目が瞬く。
そして色彩の爆発。
黒いカプセルから解き放たれた色の粒子たちがぐんぐんと育つ。
大聖堂のステンドグラスから零れ落ちる光達の踊りは花となり、不思議な生き物となる。
ルドンはあまり幸せとはいえない幼年期を送ったのだそうだが、そんな環境がこれらの作品に反映しているのに違いない。
自分の家族を持ったときに、彼は孤独からの解放を実感し、今まで黒の中に閉じ込めていた色彩を解放した。
しかしルドンの絵の中に出てくる目はいつも淋しげであり、その視線は何処を見る事も無く宙を彷徨う。 目は開いているのに、何かを見ているようには見えない。
黒い瞳は漆黒の闇のようだ。
目は外に向けて開かれているのではなく、視線は内に向っている。
しかし、それは決して弱弱しい内向的な視線ではなく、内宇宙をくまなく散策しては発見をし続けているに違いない。
私は黒い時代のルドンも目くるめく色の咲くルドンもどちらも好きだ。
ああ、楽しかった。
と今、余韻を味わっている。
フランクフルトのSchirn Kunsthalleでのオディロン・ルドン展を見てきた。
実はドイツであまり知られずにいる画家の一人であり、そういう意味で今回の展覧会は大変目面しい催しだったのだ。ちょっと遠出をする価値はあった。
ルドンはダーヴィンの進化論に感銘を受けていたらしく、生物の進化のイメージから彼流に開花したキメラのイメージは好きなモティーフだった様子。
20歳の頃植物学者アルマン・クラヴォーと出会い、顕微鏡の世界に魅せられるようになったというのはよくわかる。
当時出来た水族館からも刺激を受けて彼の想像の翼は水の中に、空中にと飛び回ったようだ。
そんな所も、私の心に触れてくる点でもある。
よく見れば、部屋の隅の暗がりに、ほらひっそりと咲いている闇の花。。。。
(上はフランクフルトの河岸の並木の写真にいたずら。)