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散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

ロシア

2005-05-03 21:54:30 | 移動記録

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本日のメッツセージ
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今朝メイルを開けると、ロシア人の展覧会の案内が届いていた。

そこでロシアでの10日間を思い出した。10年以上前の昔話、もうだいぶ変わっていると思う。

1992年5月アエロフロートでモスクワに向かった。飛行場に着いて情報の乏しい混雑の中に呆然としていると、スーッと小柄な女性が近づいてくるのが見えた。彼女の名はマーシャという。
ドイツ語を話すので、連絡係として待っていてくれたらしい。彼女の隣に、やはり小柄で細身の丸坊主の青年(?)が黒い書類鞄を大切そうに抱えて控えていた。彼の名はイワン。
我々を歓迎するためにきてくれたのだが、彼等自身情報把握が難しく随分待ったという。
イワンは飛行場の片隅のホコリが数ミリ積もる、薄暗い窓際に我々をいざない、おもむろに黒鞄を開けた。覗くと中にはウォッカ1本と紙コップが数個入っているきりだった。我々は紙コップの入ったウォッカで”ナツトローヴィエ - 乾杯”を2回繰り返した。
そうやってロシアの旅は始まった。

翌日グループ展の準備のために、モスクワ市内のホールに向かった。
入り口の女守衛はどうしても中に入れてくれようとしない。案内状を見せようとなにをしようとお手上げで、お互いに解さない言葉を突きつけあうのは無駄な行為のようだった。
数分途方に暮れていると背後から英語を話す助け舟が現れた。
そこの職員らしかったが、館内は異様に広く、沢山の部屋があり沢山の企画があり一人の人間が全てを把握することは至難の業らしい。その"助け舟”でさえ2,3回聞きまわりながら ”こっちですよ”と手招きしつつ導いてくれるのだが通路を2,3度曲がると、私の方向感覚は仕事を放棄してしまう。”さあ、ここですよ”とさわやかに笑顔を残して、我等の救い主は立ち去った。

部屋に入ると既に何人かの仲間が手持ち無沙汰に待っている。イワンやマーシャの姿もある。
挨拶を済ませてから話を聞けば、St.ペータースブルクから届いているはずの作品が行方不明なのだそうだ。
ロシアでは待つことが出来ないと暮らせないらしい。
先ほどから姿を消していたイワンが片手にウォッカを下げて現れる。
どうやら彼はウォッカの調達に才能があるらしかった。
”今日はXXXの誕生日なんだよ。”といって2つしか見つからなかったグラスで回し飲みをした。
結局ここではウォッカは必需品なのかも知れない。ボッーとなって待つのは楽だ。

昼ごろになって”腹が減ったから食べに行こうか”と誘われるがままに後をついてゆくと、館内に小さな食堂がある。しかしドアもカーテンも閉まっていて入れてくれない。
”今は役職者たちの昼飯時らしいよ。もう30分待たなきゃ入れないって。。”
ふ~ん、もしかして食事の内容が違うんだろうか? 
30分後食堂が入れ替わりになったので、早速窓口に並び何があるのか聞いてみた。
”スープ、サラダ、魚、揚げ物、パンケーキにお茶ってとこかな?”
スープは殆ど色も無く具もない出がらしの様だし、サラダはラディッシュ2,3個を薄切りにしたもの、魚は私の口に腐敗しているとか思えないアンチョビ。
パンケーキだけは美味しく、お茶も美味しい。プラムのジャムをたっぷり入れて飲む。

展示室に戻ってみてもまだ荷物は見えない。皆思い思いの格好で待っている。
英語、ドイツ語、ロシア語をそれぞれ少しずつ混ぜ合わせておかしなコミュニケーションを続けているのが苦痛になった頃やっと荷物が届いた。
黙々と展示作業につき、疲れ果てた我々は、早々ホテルに戻った。

ちなみに有名な赤の広場の聖ワリシー寺院はおもちゃのようだった。

(続く)

遠足

2005-05-03 17:58:46 | 移動記録
作品の搬出にMoersという街に出かけた。親しい友人が車を出してくれるというので、手伝ってもらう事になった。(感謝)
ドイツのMoers市とオランダのArnheim市が2年ごとに開催するMoerser Kunstpreisという展覧会に出品したのだ。
テーマが小さいフォーマットだったので、作品も極コンパクト。
展示中に先方の不注意で作品が一つ壊されてしまったので代替を届けたり、今回はアクシデントが続いたのだが、保険でカバーされたという顛末もあり、やけに手間のかかる展覧会だったので片付いてホッした。

さて用事を終え、これからどこに遠足しよう?と考えながら走っていると、
マリア信仰巡礼地Kevelaerに到着していた。この街には友人が住んでいるので、私は何度も来ている。
マリア教会堂の巡礼門の開く5月1日から11月1日までが巡礼シーズンなのだそうだが、平日という事もあるし訪問者は少ない。
病を治してもらいたい信者たちは、聖堂に目や手足を模ったものを奉納祈願する。
バイカーたちの巡礼地でもあるらしい。小さな町がバイクの排煙で煙るのだろうか?

1642年6月1日。行商人Hendrick Busmanはアムステルダムからケルン、ミュンスターからブリュッセルという古い行商道の交差点で ”お前はここに聖堂を建立しなければならない”という声を聞いた。
そしてその翌年の聖霊降臨祭の直前にBusman夫人は毎晩夜空に輝く光をみるのだった。
それは、しばらく前に2人の兵士が彼らに売ろうとした”ルクセンブルクの聖母マリア”の絵に描かれた光景と酷似しているのに気がついた。Busmanはその兵士を探しあて絵を買い取る。
貧しかったにもかかわらず彼は小さな聖堂を建立し、数々の奇跡が起こり、1647年には既にKevelearは巡礼聖地として正式に認められたという事だ。
Kevelaerは以降フランスに統治されて、搾取、破壊の憂き目にあったが、1814,15年の”ウィ-ン会議”で再びプロイセンに返還された。そんな歴史がこの街にあった。

1905-1907に造られた教会のパイプオルガンはとても立派なもので、オルガンコンサートもなかなかよさそうなのだが、いつもうまく都合があわず、残念ながらまだ聞いていない。
教会の外には無数のろうそくが灯され、煤で外壁は黒く染まっている。
今回は街のカフェにのんびり座っているのも、ぶらぶら歩いているのもかなりの年配者が見受けられるばかりだった。
日本は東京で言うならおばあちゃんの原宿-巣鴨という感じだろうか?ちょっと違うか。。。
キリスト受難を描いた祠が並ぶ”Kreuzweg"-十字架の道をたどると、巡礼グループが祈りながら歌いながら歩き進んでゆく。
我々は道を一回りしてから帰路についた。