明日(7月17日)京都の実家に行き両親の納骨を行う予定だ。親父は3年前に亡くなりお袋は昨年12月に亡くなった。親父は亡くなる時お袋と一緒に納骨して欲しいと言っていた。本来ならお袋の四十九日を目途に納骨したかったのだがコロナウイルス禍で少し先延ばししていたのだ。
土葬時代は葬儀と遺体の埋葬は一気通貫で行われていたから納骨という葬送儀礼はなかったが、現在では遺骨を最終的な落ち着きどころに収める納骨が葬送のフィナーレになる訳だ。
偶々読んでいた内田 樹(たつる)さんの「ひとりで生きられないのも芸のうち」(文春文庫)の中の「正しい葬送儀礼とは」の中に次のような文章があった。
「死者に向かって『私たちはあなたといつでもコミュニケーションできるし、これからもコミュニケーションし続けるだろう」と誓約することによって、死者は生者たちの世界から心安らかに立ち去るのである。というふうに私たちは信じている。」
内田さんの書き振りはなり断定的で「死者に向かって『あなたはまだここにいる』と伝えることによって死者を『ここではない場所』に送り出す機制なのである。」と続ける。
そして「私たちは全員が『潜在的死者』であるから、葬送儀礼に行うときに『安らかに死ぬこと』とはどういうことかを先取り的に経験している」「そういう信憑を私たちは幼児期から繰り返し刷り込まれている」と述べている。
平たくいうと「死んでも生きている人とのコミュニケーションは続く」と確信するから安心して死ねるのであり、葬送儀礼はその先取り体験という訳だ。
まもなくお盆の時期になるが、お盆に先祖の魂が帰ってくるというのも典型的なコミュニケーションなのだ。
内田さんは「人類の始祖たちがこのような信憑を採用して」と書くが、死者と生者が長くコミュニケーションを続けるというフィクションは日本を含む東アジア特有の習慣だと私は考えている。そしてこの習慣は多分に労働集約的な水田農業と深いつながりがある。仏教と神道が混然一体となっていた時代は祖霊は鎮守の森のように人里近い森の中に何十年か暮らしていると信じられていた。近場だからお盆の時に帰り易いのである。
いやついつい小理屈を並べてしまった。
明日は親父とお袋に「私たちは元気でやっています。アメリカにいるので連れてくることはできなかった孫も元気に育っています。命の流れは続いていますから安心して休んでください」と報告をしよう。
私はあまり霊魂を信じる方ではないが、死者とのコミュニケーションを大事にするとは、結局のところ自分のインナーボイスを大事にするということなのだろうと解釈している。