今日はとても暖かいですねえ。いつもこれくらいですと楽なのですが。
春になるといろいろ新しいことをしたくなります。やっぱり、体はそういうふうに出来ているのでしょう。
ということで、私もメールセミナーなるものを始めてみようと思いたちました。
一本は有料の「人間行動学ゼミ」。これはL研ブックストアにあります。
それから、携帯向けの無料人間行動学ゼミもはじめます。こちらは軽いものです。携帯にメルマガを配信するのはいろいろと制約があるらしいのですが、まあどうなるかやってみようかということです。携帯の可能性を少し研究してみたいのです。
それからこれも無料ですが、拙著『リーダー感覚』および『リーダーの暗示学』をお読みいただいた読者には、アフターフォローをする意味で、メルマガを配信いたします。
リーダー研究所にこれらの情報をまとめておきましたので、そちらからご参照後ご応募ください。
さて、今日はなんの話にしましょうか。
いまNHK大河ドラマでは「天地人」をやっていますが、謙信については子供の頃マンガで読んだことがあって多少は馴染みがあります。歴史偉人伝みたいなやつでした。
しかし、謙信の死後、上杉家がどうなったかはほとんど知りませんでした。歴史の教科書にもあまりでておりませんしね。
それで、手元にあった学研の『歴史群像シリーズ 疾風 上杉謙信』を見てみました。この本には、謙信以降のことや直江兼続のこともでています。
それによると、テレビでもやっていたように、景勝と影虎の跡目争い「御館の乱」があったわけですが、このとき景勝の下でわずか18歳の兼続がこの乱を取り仕切ったらしいのです。
景勝は上田衆と呼ばれる集団の統領ですが、彼の父親は謙信に暗殺されたふしがあります。それで、腹の中では謙信を憎んでいたと推測されます。
景勝はのちになって謙信の法要をほとんど遂行しておりません。よほどしこりがあったのでしょう。
一方、謙信も上田衆に対しては常に警戒を怠りませんでした。
では、謙信は後継者を誰にしようと思っていたのでしょうか。どうも、謙信は影虎を後継者にしようと考えていたらしい。家臣の過半数も影虎を指示していたというのです。
その後の展開を見ますと、劣勢の上田衆が影虎をほろぼし、上田長尾家による実質的な支配が実現します。
謙信の死は暗殺だという説も根強いものがあります。
もし本当に暗殺だとしたら、犯人はわりと簡単に絞れます。
犯人はいちばん得をする人物です。
このころ、影虎は関東管領に就任しております。となると、このままでは、上杉家の家督は影虎になると既成事実化される可能性が高くなります。
それを恐れた上田衆が暗殺をしたというわけです。
もうひとつは、謙信が死の直前に陣ぶれをした空前の関東大出兵では、上田衆は最前線に立たされるわけです。上田衆の中には厭戦ムードが漂っていたとされます。これも有力な暗殺の動機です。
謙信は、一日二度居場所を変え、衣装を着替えるほどの用心で暗殺を警戒していたそうです。
謙信の死後、御館の乱で大功のあった若き俊英、直江兼続による執政が始まりますが、多くの旧続は滅ぼされ、その領土は上田衆が占めることになります。
謙信の死は実は兼続が仕掛けたんだという説もあります。紀州には「謙信死去までの数日間、兼続に不審な所為が見受けられ、多くの者が訝しんでいた」という逸話があるそうです。ちなみに、紀州には御館の乱で滅ぼされた武将の遺族らが大挙移住していた地です。
ところで、不思議にもこんなに功績のあった直江兼続ですが、死後に直江家は断絶されております。さらに、上杉藩は兼続夫妻の菩提寺を破却し、公式での法要を認可しなかったそうです。
その原因は兼続が徳川家にたてついたためというのが通説ですが、「上杉家においては信仰に高められるほどにまで絶対視されるようになっていた上杉謙信に何らかの関連があるように思えてならない」と学研の本の著者は書いております。
おそらく、上杉藩では、兼続の死後上田衆が勢力を失って、反上田衆が盛り返したのではなかろうかと私は推測しております。
ところで、のちに上杉藩では上杉鷹山の先代が紀州家から嫁さんをもらっております。紀州家と上杉藩の縁が深いのはそのあたりのことと関係するのかどうか。
********
私は『伝動戦略』で上杉鷹山のことをまとめたのですが、いまそれとつながりました。紀州家と上杉家はどうも縁があるようなんですね。
紀州宗春は8代将軍吉宗に逆らって隠居にされたことで有名ですが、その後も幕府は紀州をとりつぶそうと虎視眈々と狙っていきます。
その紀州藩は上杉藩と関係が深いため、上杉藩も幕府から眼をつけられていたのではないでしょうか。
それが、鷹山の時代、改革派と保守派が激しく対立していたとき、幕府が介入しようと眼をつけたのではないか。上杉藩はもう少しで幕府に乗っ取られる状態だったのではないでしょうか。
このころになると、幕府は藩を改易はせず、吉宗の血縁者を養子に押し込める政策をとるようになります。実際、紀州家も最後はそういう運命にあったわけです。上杉藩も似たようなものだったのではないでしょうか。
鷹山のあまりにも早すぎる隠居の背後には、そのような政治的な状況があったと私は推理しています。
ただし、上杉藩は運のいいことに救われました。上杉を狙っていた田沼意次が失脚し、改革派の松平定信が登場したからだと私は思っています。
今日は多少は日本史ミステリー風になりましたかね。テレビドラマとはずいぶん違うものですねえ。こっちの方が実態に近いように思いますけどね。
春になるといろいろ新しいことをしたくなります。やっぱり、体はそういうふうに出来ているのでしょう。
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一本は有料の「人間行動学ゼミ」。これはL研ブックストアにあります。
それから、携帯向けの無料人間行動学ゼミもはじめます。こちらは軽いものです。携帯にメルマガを配信するのはいろいろと制約があるらしいのですが、まあどうなるかやってみようかということです。携帯の可能性を少し研究してみたいのです。
それからこれも無料ですが、拙著『リーダー感覚』および『リーダーの暗示学』をお読みいただいた読者には、アフターフォローをする意味で、メルマガを配信いたします。
リーダー研究所にこれらの情報をまとめておきましたので、そちらからご参照後ご応募ください。
さて、今日はなんの話にしましょうか。
いまNHK大河ドラマでは「天地人」をやっていますが、謙信については子供の頃マンガで読んだことがあって多少は馴染みがあります。歴史偉人伝みたいなやつでした。
しかし、謙信の死後、上杉家がどうなったかはほとんど知りませんでした。歴史の教科書にもあまりでておりませんしね。
それで、手元にあった学研の『歴史群像シリーズ 疾風 上杉謙信』を見てみました。この本には、謙信以降のことや直江兼続のこともでています。
それによると、テレビでもやっていたように、景勝と影虎の跡目争い「御館の乱」があったわけですが、このとき景勝の下でわずか18歳の兼続がこの乱を取り仕切ったらしいのです。
景勝は上田衆と呼ばれる集団の統領ですが、彼の父親は謙信に暗殺されたふしがあります。それで、腹の中では謙信を憎んでいたと推測されます。
景勝はのちになって謙信の法要をほとんど遂行しておりません。よほどしこりがあったのでしょう。
一方、謙信も上田衆に対しては常に警戒を怠りませんでした。
では、謙信は後継者を誰にしようと思っていたのでしょうか。どうも、謙信は影虎を後継者にしようと考えていたらしい。家臣の過半数も影虎を指示していたというのです。
その後の展開を見ますと、劣勢の上田衆が影虎をほろぼし、上田長尾家による実質的な支配が実現します。
謙信の死は暗殺だという説も根強いものがあります。
もし本当に暗殺だとしたら、犯人はわりと簡単に絞れます。
犯人はいちばん得をする人物です。
このころ、影虎は関東管領に就任しております。となると、このままでは、上杉家の家督は影虎になると既成事実化される可能性が高くなります。
それを恐れた上田衆が暗殺をしたというわけです。
もうひとつは、謙信が死の直前に陣ぶれをした空前の関東大出兵では、上田衆は最前線に立たされるわけです。上田衆の中には厭戦ムードが漂っていたとされます。これも有力な暗殺の動機です。
謙信は、一日二度居場所を変え、衣装を着替えるほどの用心で暗殺を警戒していたそうです。
謙信の死後、御館の乱で大功のあった若き俊英、直江兼続による執政が始まりますが、多くの旧続は滅ぼされ、その領土は上田衆が占めることになります。
謙信の死は実は兼続が仕掛けたんだという説もあります。紀州には「謙信死去までの数日間、兼続に不審な所為が見受けられ、多くの者が訝しんでいた」という逸話があるそうです。ちなみに、紀州には御館の乱で滅ぼされた武将の遺族らが大挙移住していた地です。
ところで、不思議にもこんなに功績のあった直江兼続ですが、死後に直江家は断絶されております。さらに、上杉藩は兼続夫妻の菩提寺を破却し、公式での法要を認可しなかったそうです。
その原因は兼続が徳川家にたてついたためというのが通説ですが、「上杉家においては信仰に高められるほどにまで絶対視されるようになっていた上杉謙信に何らかの関連があるように思えてならない」と学研の本の著者は書いております。
おそらく、上杉藩では、兼続の死後上田衆が勢力を失って、反上田衆が盛り返したのではなかろうかと私は推測しております。
ところで、のちに上杉藩では上杉鷹山の先代が紀州家から嫁さんをもらっております。紀州家と上杉藩の縁が深いのはそのあたりのことと関係するのかどうか。
********
私は『伝動戦略』で上杉鷹山のことをまとめたのですが、いまそれとつながりました。紀州家と上杉家はどうも縁があるようなんですね。
紀州宗春は8代将軍吉宗に逆らって隠居にされたことで有名ですが、その後も幕府は紀州をとりつぶそうと虎視眈々と狙っていきます。
その紀州藩は上杉藩と関係が深いため、上杉藩も幕府から眼をつけられていたのではないでしょうか。
それが、鷹山の時代、改革派と保守派が激しく対立していたとき、幕府が介入しようと眼をつけたのではないか。上杉藩はもう少しで幕府に乗っ取られる状態だったのではないでしょうか。
このころになると、幕府は藩を改易はせず、吉宗の血縁者を養子に押し込める政策をとるようになります。実際、紀州家も最後はそういう運命にあったわけです。上杉藩も似たようなものだったのではないでしょうか。
鷹山のあまりにも早すぎる隠居の背後には、そのような政治的な状況があったと私は推理しています。
ただし、上杉藩は運のいいことに救われました。上杉を狙っていた田沼意次が失脚し、改革派の松平定信が登場したからだと私は思っています。
今日は多少は日本史ミステリー風になりましたかね。テレビドラマとはずいぶん違うものですねえ。こっちの方が実態に近いように思いますけどね。
そうそう、私もそれらの説は聞いたことがあります。
いや、まったく歴史の裏には何があるかわかりませんよねえ。
また男色に走って家来と通じた説なども
私は、謙信の跡目争いに乗じて攻め込んだ信長さんが
一枚かんでいるように思えるのですが・・・