最近、有名になってきているURLというものがありまして。
「創作童話:博士(はくし)がひゃくにんいるむら」
この「創作童話」、数字に基づいた「創作童話」です。
博士という立場の人が、必ずしも順風満帆な人生を送っているわけではないということ。
それがテーマなのだと思います。
しかし気になるのはこのページの画像ですね。
「行方不明・死亡」というのは、進路先・連絡先不明であり、それに死亡を含んだ数字であるわけで、「自殺者数」ではないわけです。
「自殺者数」として出されているわけではない数値が、この画像によって、「自殺者数」であるかのような「印象」を与えています。
この印象を残す画像をどう扱うか。
数字を持ってグラフ化し、検証する 幻影随想「博士卒の進路」に、大きく敬意です。
「事実」に見る「真実」を伝えるために、創作化する。
そのときに、人はどこまでその「『創作化』した部分を『事実』と誤解する危険」を回避できるのだろうか。
これは、ドキュメンタリーというものの「落とし穴」に似ていると、わたしは思います。
「本当にあること」をカメラに写し、そのまま伝えたとしても、その「現実」のどの部分をクローズアップするか。
また、どんな構図でその映像を撮るか。
編集時に、どんな構図の映像をカットして編集するか。
そういう「演出」で、「創作」部分は生まれかねない。
「創作」部分から生まれる「印象」は、時として、「事実」にとっての弊害になることがある。
この「印象」というものを、再度検証してみることの大切さを、わたしは感じる部分があります。
さて、日常のことですが。
今日、5年生の息子が大騒ぎで帰宅しました。
帰宅後、すぐに、入浴の準備を始めました。
なんでも、学校の理科室で「ヨウ素」をさわったと。
その「ヨウ素」は毒性があるもので、すぐに38度以下の風呂に入り、毒素を洗い出さなければならないと。
また、手についた「ヨウ素」の毒性は、今日一日取ることができず、明日まで顔が洗えない、と。
それはもう、大騒ぎでありまして。
「誰に聞いたか?」と聞くと、「友達に」と答える。
学校に通う上で、誰から与えられる情報をあなたは第一にすべきか?と問うと、担任の教員と答える。
では、そこまで騒ぐ情報が、正確なものかどうか確かめるにはどうしたらいいかと尋ねると、担任の教員に聞くと答える。
息子は学校に電話を入れ、担任の教員と話し、「正確な情報」を入手し、騒ぎは解決しました。
その後、インターネットで「ヨウ素」について調べさせ、「ヨウ素事件」は解決しました。
息子は「毒」という言葉の印象に振り回された。
その印象を自分で解決する「スキル」というものがあること。
このことが今回の件で少しでも「印象に残って」くれたらいいな、などと思うのでした。
「創作童話:博士(はくし)がひゃくにんいるむら」
この「創作童話」、数字に基づいた「創作童話」です。
博士という立場の人が、必ずしも順風満帆な人生を送っているわけではないということ。
それがテーマなのだと思います。
しかし気になるのはこのページの画像ですね。
「行方不明・死亡」というのは、進路先・連絡先不明であり、それに死亡を含んだ数字であるわけで、「自殺者数」ではないわけです。
「自殺者数」として出されているわけではない数値が、この画像によって、「自殺者数」であるかのような「印象」を与えています。
この印象を残す画像をどう扱うか。
数字を持ってグラフ化し、検証する 幻影随想「博士卒の進路」に、大きく敬意です。
「事実」に見る「真実」を伝えるために、創作化する。
そのときに、人はどこまでその「『創作化』した部分を『事実』と誤解する危険」を回避できるのだろうか。
これは、ドキュメンタリーというものの「落とし穴」に似ていると、わたしは思います。
「本当にあること」をカメラに写し、そのまま伝えたとしても、その「現実」のどの部分をクローズアップするか。
また、どんな構図でその映像を撮るか。
編集時に、どんな構図の映像をカットして編集するか。
そういう「演出」で、「創作」部分は生まれかねない。
「創作」部分から生まれる「印象」は、時として、「事実」にとっての弊害になることがある。
この「印象」というものを、再度検証してみることの大切さを、わたしは感じる部分があります。
さて、日常のことですが。
今日、5年生の息子が大騒ぎで帰宅しました。
帰宅後、すぐに、入浴の準備を始めました。
なんでも、学校の理科室で「ヨウ素」をさわったと。
その「ヨウ素」は毒性があるもので、すぐに38度以下の風呂に入り、毒素を洗い出さなければならないと。
また、手についた「ヨウ素」の毒性は、今日一日取ることができず、明日まで顔が洗えない、と。
それはもう、大騒ぎでありまして。
「誰に聞いたか?」と聞くと、「友達に」と答える。
学校に通う上で、誰から与えられる情報をあなたは第一にすべきか?と問うと、担任の教員と答える。
では、そこまで騒ぐ情報が、正確なものかどうか確かめるにはどうしたらいいかと尋ねると、担任の教員に聞くと答える。
息子は学校に電話を入れ、担任の教員と話し、「正確な情報」を入手し、騒ぎは解決しました。
その後、インターネットで「ヨウ素」について調べさせ、「ヨウ素事件」は解決しました。
息子は「毒」という言葉の印象に振り回された。
その印象を自分で解決する「スキル」というものがあること。
このことが今回の件で少しでも「印象に残って」くれたらいいな、などと思うのでした。
息子さん、大まじめなのでしょうが、
大笑いしてしまいました。
かわいい~~~。
しかし、確かに、「自分で解決する「スキル」」大切ですよね。
子供達の世代は、今よりずっと「情報」が溢れていて、
何をどうやって選択していくかが、生きる術になると思うし。
かつて不動産の仕事をしていた時のこと、よく「ガセネタ」が入るのですよ。あの業界。
で、思い切り振り回されて、場合によっちゃ大被害を蒙る。
「本質」を見極めるって簡単なようで、
とっても難しい・・・
しかし、Sさんの子育ては、「経験から常に何かを拾いながら歩く」という点で、とても参考になります。
そうなの。
そういうヤツ。
で、また、わたしも、
「ふむふむ」言いながら、ちゃんと風呂に湯をはってやる母親。
目の前で、大真面目に「38度以下」に設定しましたよ、湯の温度。
それをやりながら、です、電話。
彼が担任と話しているときは、すでに服も脱いでおりました。
「おかあさん、だいじょうぶだって」
「いいじゃない、そのままお風呂入っちゃいなさいよ」と。
で、その後、娘もわたしも入り、今日は「夕刻には3人とも入浴済み」の日でした。
はっはっは。
そんな日もあるさ。
後で、ちゃんとまた話しましたよ。
小学校という場には、毒素の強いものは置いてはいけないのだよ、と。
それが小学校というものなのだよ、と。
小学校というのは、子どもを守る姿勢がなくてはならない場所なんだよ、と。
大真面目に騒ぐのがどんなに滑稽でも、それを認めてやらなきゃ、先に進めないことだってある。
わたしはそう思うのよね。
彼が大真面目に騒ぐ、
そのこと自体をまず、認めてやりたかったかな。
自分自身の考えというものを、その存在の権利ってモンをまず認めてもらわなきゃ、自分自身の思考を持つってことも難しいと思うのでね。
しかしなぜ38度以下?半身浴?
で、ヨウ素。赤チン(ってないのかな?)
ルゴール。イソジンうがい薬。
あとでんぷん入れると紫になる。
そんなイメージですが、
毒素はともかく、色は落ちにくいかも(^^)
あと、たしか(うろ覚え)被曝したときに効果があるとかないとか聞いたことがあるので、お友達は「毒」をそこから仕入れてしまったのかもしれませんね。
情報を手に入れるという意味では、ネット社会は本当に便利ですよね。息子さん、すくすくと素直に育ってそうで、何よりです。
最初の人間が伝えたことが、最後にどうなっているか、と。
他意なく、そういうことは起きてしまうということ。
だから、他者を責めないためにも、「検証」という姿勢は必要かもしれないとも思います。
誰から聞いた。
だから、その「誰が悪い」という風な思考に持っていかないように、今回のこのことは配慮しました。
正しい情報を入手しようとする姿勢は、誰かを守るべきことにも使えるのだということ。
そのことを最終的には、息子にも知って欲しいとも思いました。
先生に聞く、
というのは、学校で起きたことに対しての「最終責任者」というものを知れ、ということでもありました。
実はね、最初に彼が言った「先生に聞く」の「先生」は、「理科専科」の教員だったんです。
でも、わたしは「あなたの学校での生活の最終責任者は誰か」と、問い直しました。
いや、理科専科の教員でも、最終責任者という判断でもあったんですが。
実は、息子の担任は、今年新卒新任の先生で。
この、教師としてスタートしたばかりの彼にも、知って欲しかったんですよね、こういうことに対していくという経験を。
そして、そうやって、「子どもに担任としての信頼をおかれる」ということを直接的に感じられるいい機会だとも思いました。
息子と担任の教諭が電話で話し合っている様、
実は、わたしは「二人の育ちゆく男の子」として、見ていました。
親が子どもによって育てられることがあるように、教員もそうですよね。
って思ったんですよね。
>しかしなぜ38度以下?半身浴?
笑っちゃうでしょ、なんかもっともらしくて。
でも、このことに対しての「ツッコミ入れる検証」は、避けました。
それは、友人の言葉を検証するということで、「疑う」という姿勢を未熟なまま、受け入れかねないと思ったので。
わたしは彼が友人を信じたように、息子の言い分を全部受け入れ、息子の言うままに風呂に「37度」の湯を張ったのでした。