子どもにサンタクロースの話をすること。この動機はいったいどんなものなのでしょうか。
わたしが子どもたちにサンタの話を初めてしたのは、子どもを寝かしつけるために絵本を読んでいた時期だったと思う。サンタが出てくる絵本を読んで、サンタがやってくるシーンを想像させた。12月のその夜の盛り上がりはわたしにも楽しいものだった。町はクリスマス、家にはクリスマスツリー、そして空想する喜び。季節の中でワクワクを育てることは楽しかったし、現実を次々に認識して大人になっていくためには、現実に立ち向かっていくためのエネルギーにもなるような「ワクワクすることを自分で創造していく力」というものも必要で、それは「生きる力」につながっていくことでもあると、わたしは思う。
娘にとって、サンタがどういうもので、どういう風に理解し、認識しているのかは、残念ながら彼女の言語能力での説明は不可能で、わたしにはわからない。ただ、「クリスマス」という単語を発するときの娘の表情はきらきらと明るい。
息子はとても素直な性格で、ずっとサンタを信じ続けてきている。周囲の友人たちの中にはとうにクリスマスプレゼントはどこから来るかなんてことは知っているのだけれど、どうも息子に対してクリスマスの会話をするときには「そっとしておいて」いるとしか思えない。去年は(そろそろサンタはクリスマスのいわゆる装飾のひとつと認識しただろう)と薄々思っていたのだが、25日の朝、ツリーの前に飛んでいってプレゼントを発見したときに「サンタさんありがとう」と叫んだとき、ちょっと動揺してしまった、まだ信じていたのかと。
今年は息子は、クリスマスが近づくにつれて、サンタのことを聞いてくる。どうもサンタの話を聞かせてやった本人から回答が欲しいらしい。
単に「あれはお話」で済ませてしまうのはなんとももったいないところがあり、それは「ワクワクする気持ちを持つ」ことが、「生きる力」につながっていくと、わたし自身が思っていることからくるのかもしれない。
サンタクロース研究所というサイトを検索で出す。トップページの以下の部分におおいに共感。
今年の25日の朝は、息子に対してサンタの話をしてやろうと思う。「大切なことは目に見えないんだよ」と。そのことを教えてそういう心を育てるために、わたしはサンタに力を借りたのだよと。もうあなたは大きくなった、これからはあなたが「大切なことは目に見えない」といううことを、自分で考えて、そしてそういう気持ちを自分で育てていって欲しい。それが大きくなるっていうことなんだよ、と。
*関連記事: 「生きる」ということ
わたしが子どもたちにサンタの話を初めてしたのは、子どもを寝かしつけるために絵本を読んでいた時期だったと思う。サンタが出てくる絵本を読んで、サンタがやってくるシーンを想像させた。12月のその夜の盛り上がりはわたしにも楽しいものだった。町はクリスマス、家にはクリスマスツリー、そして空想する喜び。季節の中でワクワクを育てることは楽しかったし、現実を次々に認識して大人になっていくためには、現実に立ち向かっていくためのエネルギーにもなるような「ワクワクすることを自分で創造していく力」というものも必要で、それは「生きる力」につながっていくことでもあると、わたしは思う。
娘にとって、サンタがどういうもので、どういう風に理解し、認識しているのかは、残念ながら彼女の言語能力での説明は不可能で、わたしにはわからない。ただ、「クリスマス」という単語を発するときの娘の表情はきらきらと明るい。
息子はとても素直な性格で、ずっとサンタを信じ続けてきている。周囲の友人たちの中にはとうにクリスマスプレゼントはどこから来るかなんてことは知っているのだけれど、どうも息子に対してクリスマスの会話をするときには「そっとしておいて」いるとしか思えない。去年は(そろそろサンタはクリスマスのいわゆる装飾のひとつと認識しただろう)と薄々思っていたのだが、25日の朝、ツリーの前に飛んでいってプレゼントを発見したときに「サンタさんありがとう」と叫んだとき、ちょっと動揺してしまった、まだ信じていたのかと。
今年は息子は、クリスマスが近づくにつれて、サンタのことを聞いてくる。どうもサンタの話を聞かせてやった本人から回答が欲しいらしい。
単に「あれはお話」で済ませてしまうのはなんとももったいないところがあり、それは「ワクワクする気持ちを持つ」ことが、「生きる力」につながっていくと、わたし自身が思っていることからくるのかもしれない。
サンタクロース研究所というサイトを検索で出す。トップページの以下の部分におおいに共感。
でも、目に見えないものを信じるって、とってもステキな事。ただし、このサイトのコンテンツの「クリスマスストーリー」の【プレゼントをもらえる子と、もらえない子】の記述には違和感。もともとわたしは「サンタさんからプレゼントをもらえる」ということに、短いスパンでの教育的感覚なんていうものを持ち込んだことは無い。「見えないものを信じる気持ち」に説教が導入されることにはおおいに違和感を持つ。ついでに持ち込まれるような説教的教育をサンタに持ち込むのは、なんというか、貧乏くさい。「見えないものを信じる気持ち」というものを育てるということは、もっときらきらに豊かであって欲しい。
見えないものも信じる事ができたら、子供はもちろん、大人だって自分の夢や希望が広がると思いませんか?
今年の25日の朝は、息子に対してサンタの話をしてやろうと思う。「大切なことは目に見えないんだよ」と。そのことを教えてそういう心を育てるために、わたしはサンタに力を借りたのだよと。もうあなたは大きくなった、これからはあなたが「大切なことは目に見えない」といううことを、自分で考えて、そしてそういう気持ちを自分で育てていって欲しい。それが大きくなるっていうことなんだよ、と。
*関連記事: 「生きる」ということ
「ユウヤに読んで聞かせてやってくれ!」と。
で、どうしろと?という気持ちは飲み込みました(笑)。
何にしてもそうですが、楽しみ倒すのがいいんじゃなかろうかと。
息子さんの受け止め方、成長、楽しみですね。
私は空想癖の強い子供でした。
毎晩、寝る前に「お話」を考えていました。
見ようによっては、ぼーっとした子供だったかもしれません。
ただ、その空想する時間というのは非常に楽しいもので、そのことで日々を過ごすことのバランスをとっていたような気がします。
小さい頃から何となく自分の中にある「敏感な部分」というものが嫌で、おおざっぱな性格になりたいとよく思っていました。
でも、それはそれでいいんじゃないかと、いつからか思うようになりました。
その分、強くなればいいんじゃないかと思いました。
強いというのは、適切な表現ではないかもしれないですけれど。
そうやって生きていく中で、空想癖というのは昔ほどではないですけれど、助けになっているような気がします。
あと歌うことは、すごく助けになっています。
「歌声が空気に溶ける」という言葉を聞いたことがあって、その言葉がとても好きです。
この本、アマゾンで検索した。
いや~、翻訳本だからってとこあると思うが、レビューに引用で出てくる文章、平仮名が多くても一文が長い。
子どもにそのまま読み聞かせてってとこで、うちは使えないだろうなあと思った。
「目に見えないもの」を感じさせるのに、一文が長いのは、子どもにはきついような気がしたなあ。
まあ、賢い子、文章慣れした女の子にはいいのかもしれないけれど、この手の文章をすっと理解できるような子は、こうした本を手にする前に「サンタってパパでしょ」とか、さらっと言ってそうだと思った。
やっぱ、マニュアルには頼れないなあ。
自分ちの子に対応するマニュアルは、親の独自仕様かもね。
はいっ、楽しみたおします!
今日、うちでは「ぱーちぃー」が開かれていた模様です。
クリスマスツリーの周囲に、ものすごくたくさんのぬいぐるみが並べられ、そのひとつひとつのぬいぐるみの前に、ひとつずつオモチャがおかれておりました。
はい、お嬢の作り上げたドラマなんでしょう。
「目に見えないもの」が理解しにくいのが知的障害、ということの上で、知的障害のある子に「目に見えないもの」を創造させていく。
これは実はけっこうなプロジェクトなんじゃないかと、ふと。
幼児期に子どもたちのイベントにうちのダーリンをサンタにしたことがありました。
うちのお嬢、父親だと全然わからなかったようで、サンタの隣で緊張していました。
あの子の心の中には、あの日のサンタが生き続けているのかも、って思うのは出来すぎストーリーでしょうね。
わたしは留守番が好きでした。家の中に「自分が設定する世界」を構築できるような気がしてね。
あと、読んだ本のストーリーを勝手にアレンジして、寝る前に姉を相手に「お話」なんてやってましたよ、確か低学年くらいの頃だったかな。
姉は「ちいさいモモちゃんアレンジシリーズ」が好きでした、楽しかったな。
イメージを広げられるということは、大きな力になると、わたしは思います。
「歌声が空気に溶ける」というのも、ステキな言葉ですね。
男の子は本を読まない子どもが多いしって上に、最近の子はゲームの映像で育つ。
もう映像が見えちゃってるもんなあ、なんてことをちょこっと思ったりします。