娘と息子、
いつか起こりえるだろうと思っていたことが起きてしまいました。
いや、たいしたことじゃないと言えば、たいしたことではないのだろうが。
運動会の同日開催
両校とも、今月最後の土曜日です。
まいりましたね。
息子の小学校の運動会は、娘の母校の運動会でもあります。
連れていけば、いろいろな方から声をかけてもらえる場でもあります。
去年のように、今年も連れて行きたかったです。
娘の学校の行事は、いつも息子は喜んで参加しています。
入学式も、土曜参観も、運動会も、夏休み行事も。
去年の息子の運動会の代休の日は、娘の養護学校でPTAの役員に混じって、ベルマークの集計作業も手伝ってくれました。
去年の娘の運動会は、強い日差しを浴びながらも、一番前の席に陣取って、娘だけではなくいろいろな生徒たちを応援していました。
母が日陰に時々逃げても、彼は一番前の席を動きませんでした。
今年も、娘の学校の運動会に行くことを、当たり前のように楽しみにしていました。
彼に「同日開催」を告げると、しばし絶句していました。
息子の小学校、娘の養護学校、「片親参加」で乗り切るつもりです。
どっちがどっちの学校に行くか、息子に決めさせました。
そのことの意味を理解している方が選ぶことがよいのだろうなということで。
息子は「おかあさん」を指名してきました。
う~~ん。
ぐっとホンネを隠して、「わかった」と微笑みました。
実はわたしはホンネは、娘の方の運動会に行きたかったのです。
息子の小学校の運動会は、わたしにとっては「息子とその他大勢」。
この「大勢」も、大勢過ぎるというか。
ゆっくりと見渡せて、1人1人の努力や成長を垣間見ることが出来る娘の学校の運動会の方が、見たかったのです。
・・・仕方ないです。
息子と一緒に、父親が撮ってくるビデオを楽しみにすることにします。
でも、行きたかったな。
と、いう思いは強い。
ただ、この思いを隠し、無いものにすること、無いものとして見せないこと。
これが息子に対して表してやれる愛情の形なのだろうなと思います。
障害児のきょうだい児は、親が自分に使ってくれる労力のようなものにハンディを感じること、多いと思いますのでね。
これくらい、がんばらなくっちゃね。
いつか起こりえるだろうと思っていたことが起きてしまいました。
いや、たいしたことじゃないと言えば、たいしたことではないのだろうが。
運動会の同日開催
両校とも、今月最後の土曜日です。
まいりましたね。
息子の小学校の運動会は、娘の母校の運動会でもあります。
連れていけば、いろいろな方から声をかけてもらえる場でもあります。
去年のように、今年も連れて行きたかったです。
娘の学校の行事は、いつも息子は喜んで参加しています。
入学式も、土曜参観も、運動会も、夏休み行事も。
去年の息子の運動会の代休の日は、娘の養護学校でPTAの役員に混じって、ベルマークの集計作業も手伝ってくれました。
去年の娘の運動会は、強い日差しを浴びながらも、一番前の席に陣取って、娘だけではなくいろいろな生徒たちを応援していました。
母が日陰に時々逃げても、彼は一番前の席を動きませんでした。
今年も、娘の学校の運動会に行くことを、当たり前のように楽しみにしていました。
彼に「同日開催」を告げると、しばし絶句していました。
息子の小学校、娘の養護学校、「片親参加」で乗り切るつもりです。
どっちがどっちの学校に行くか、息子に決めさせました。
そのことの意味を理解している方が選ぶことがよいのだろうなということで。
息子は「おかあさん」を指名してきました。
う~~ん。
ぐっとホンネを隠して、「わかった」と微笑みました。
実はわたしはホンネは、娘の方の運動会に行きたかったのです。
息子の小学校の運動会は、わたしにとっては「息子とその他大勢」。
この「大勢」も、大勢過ぎるというか。
ゆっくりと見渡せて、1人1人の努力や成長を垣間見ることが出来る娘の学校の運動会の方が、見たかったのです。
・・・仕方ないです。
息子と一緒に、父親が撮ってくるビデオを楽しみにすることにします。
でも、行きたかったな。
と、いう思いは強い。
ただ、この思いを隠し、無いものにすること、無いものとして見せないこと。
これが息子に対して表してやれる愛情の形なのだろうなと思います。
障害児のきょうだい児は、親が自分に使ってくれる労力のようなものにハンディを感じること、多いと思いますのでね。
これくらい、がんばらなくっちゃね。
「嬉しい♪」と思うかもと思いつつ・・・
ちょうど最近悩んでいたので、
おおっ、と思い思わず書き込みです。
最近娘が、「私だけ」かまって欲しいと言います。
「私が」ママを独占したいと言います。
こんなとき、最初はまあまあ思い切り独占させてやるのですが、
息子が「ボクも」と入ってきたときに
「私だけ」と食い下がります。
結果、おにいちゃんと妹のケンカになって
おにいちゃんが妹の挑発に乗って手を出し
叱られるのはいつも兄という図になります。
娘は、寝るときも、
「私だけ」ママと寝たいと主張します。
ここ最近微妙に私の変化に気付いていて、不安なのでしょう。
できるだけ応えてあげてはいるのですが。
兄弟同じように等分に愛情をかけるのは難しいですね・・・
ことは難しいと思いますよ。
というか、子ども本人が望んでいない。
子ども本人が望んでいるのは、
「少しだけ、自分にひいきして欲しい」ってことなんだと思う。
実は、「等分じゃ納得しない」のは、ヤツらなんだろうな、と。
ってことで、
「少しだけ、自分にひいきしてくれている」
という実感を与えるべく、機会獲得を狙うのですわ。
双方、別々にね。
小さな優越感をそれぞれに与えると、余裕ができるようですよ。
表立って、自分にひいきを望んで、きょうだいにも誇示しようとするのは、余裕の無さもある。
おにいちゃんにママを取られるというか、おにいちゃんの「小学校入学」という変化にママを持っていかれるみたいな感じがするのかもしれない。
ほんの小さなことでね、
「コレはおにいちゃんにナイショよ、うふふ」的なこと、仕込む工夫をしてみるのもひとつですよん。
ささいなことですが、わたしはひとりにそっとつまみ食いをさせる、なんてのもよくやりました。
「ヒミツよ」ってね。
ヤツらは知らないが、機会の数で言えば「とんとん」なんだけどね。
きょうだいの障害自体が、きょうだい児にとっては「親が向こうに気持ちや手間を持っていかれてる」ってことで、
きょうだいの障害=不公平の発生源
なわけですよ。
だから、「自分がひいきされてる」って実感が、けっこう大事なんだと思う。
それでやっと、どこか「とんとん」になるんだろうなってね。
「ちょっと贔屓」心がけてみます。
ビートたけしのお母さんが
とても貧乏だったのに
「お前だけだよ」「皆にナイショだよ」と言って
3人の息子を順番にお寿司を食べに連れて行っていたらしいです。
大人になってから、全員行っていたことを
知ったらしいです。
一番食べたのはお母さんか???とか思いつつ
賢い母だなぁと感服しました。
確かに、色んな意味でどんどん成長する息子に
娘は置いていかれている感があるのかも知れない。
今日も寝る前にぐずぐず言ってなかなか
休んでくれませんでした。
「寂しい」とか「しんどい」とか「辛い」とか言って・・・
子供なりに不安なのでしょうか。
何も話していないのに。
またお休みです。
「ちょっと贔屓」しながら、たっぷり遊んでやろうと思います♪
数日前の「巨大母子病院」の病児の兄弟を見ているときも
似たようなことを思いました。
どうしても、母親から手をかけられている=愛されていると
そうでない方は思ってしまいますもんね。
ちょっと違うけどうちは私が喘息で両親がそれにかかりきりで
弟はずっと一人ぼっちで、随分負担をかけたらしいけれど
母は「お姉ちゃんのせいで弟はかわいそう」
と私を罵り続けましたからね。
だからって、弟をケアするって方向には
母は向かなかった。
母を独占しているほうも辛いもんで、
好きで独占しているわけではないから
そんなこと言うよりも、その分弟をかわいがってくれたらいいのにと
願うこともありました。
しかし、運動会って秋じゃないんですね~
それぞれが「自分だけ」って時間をどれだけ手に入れられるかってこと、あるんだよね。
そういや、心臓の検診のときに、循環期外来の待合室で、母親たちでこの話題に盛り上がってたこと、あったなあと。
たまたまそこに居合わせた方の話、聞いてて。
そうしたら、あっちからふり返ってこっちから聞き耳立ててっていう人が出てきて。
で、お誘いしたら、大座談会になってしまった。
心臓病の子と、そのきょうだい児のことってのでね。
わたしはこのとき、まだ子どもは1人だけだったのだけど、かなり参考になったなあと。
運動会ね、横浜は二期制が主流になったの。
前期が体育の日の前日まで。
後期は一日か二日の飽き休みの後から3月終了時まで。
その影響で市内のたいがいの学校は、運動会は春になった。
小学校はずっと6月だったからね、まさか重なるとは思わなかった。
しかし、問題は運動会より、卒業式なのよね、再来年の。
今から不安。
今年、同日だったしね。
息子さんは本当に素直で、そして勇気があります。
私だったら、きっと「でもおかあさんはあっちにいきたいんだろうから私からはいえないなあ」で言わない、これの繰り返しでした。
そうなんですよね、言ってみて、断られたらまた次回言ってみればいい。こんな簡単なことが、なぜまだできないのか。
まったく、人間てやつぁ。
息子さんに、勇気をいただきました。
ひとつは彼自身の名前で。
そしてもうひとつは「ちぃちゃんの弟」なんです。
これは障害児のきょうだい児には、ついてまわる。
名前の無い、付随した存在になるんですよね。
そして、この「名前の無い、付随した存在」として扱う人間の数が多い。
このことを本人はよく知っています。
苦い思いと共にね。
「ちぃちゃんの回りにはたくさん人がいる。
でもボクにはおかあさんしかいない。」
彼はこういう発信を、ずっとわたしにしてきました。
そして、娘も、わたしに対して、
息子の意志を通させろというような行動を見せてきたなあと思う。
わたしは娘に助けられながら、息子のこうした思いをフォローしてこられたのだと思うのですよね。
「あなたには、わたしがいる」という発信。
これは息子にとって、彼が育つ上で、とても必要なことだったと思う。
障害児のきょうだい児は、この辺にかなりハンディがあるというのは、よく感じるんですよね。
彼が成長していく中で、やがて彼が「いてほしい」と思う女性と出会っていくでしょう。
そうやって「いらない」と言われることが、けっこう楽しみではありますね。
今回、小学校の運動会で、周囲の方を話していて。
中学の運動会は、親に「来るな」というパターンが増えていくと。
うちの息子がコレを中学になったら言うだろうかと。
「言う、言わない」が賭けとして成立するのは多分中2だろうと。
中1では、賭けとして成立しない。
満場一致で「あの子は『おかあさん』に『来て』というだろうね」と。
そうした「卒業」は、彼の意志に任せたいと思うかな、わたしは。